2020年7月5日日曜日

「大和撫子小池百合子女史は選挙の結果にかかわらず都知事職を男子大和魂に禅譲するがよい」

阿修羅での豊岳正彦コメントから転記する。

30. 豊岳正彦[-4838] lkyKeJCzlUY 2020年7月04日 09:17:27
www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/818.html#c30

76. 豊岳正彦[-4846] lkyKeJCzlUY 2020年7月05日 08:09:16
www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/818.html#c76
(>>77,78,79まで)

>>30つづき

「大和撫子小池百合子女史は選挙の結果にかかわらず都知事職を男子大和魂に禅譲するがよい」


つまり、日本国憲法に従って正当な選挙の結果衆議院議員になり、

日本国憲法に従って正当に内閣総理大臣を拝命し、

日本国憲法に従って外交の最大の問題を解決する日中国交回復を成し遂げ、

日本国憲法を守って内政の最大の問題である戦後の故郷の荒廃と、

故郷の田舎と大都会東京大阪との間に生じた極端な貧富の格差を、

日本列島改造してわずか2年で全国民生活を底上げし全家庭一億総中流階級生活という貧富の格差解消を、

『消費税』など影も形も無い正しい税制の下で成し遂げて、

人類史上空前絶後の、諸外国が奇跡と称賛した『民のかまど』を、

三宝帰依佛教徒(天台宗?)親孝行親切日本人田中角栄氏が為せば成るで仏国土日本に成し遂げたのである。

このように、親に生んでもらって育てられた子どもの時から死ぬまで、

日本国憲法と日本国憲法最高法規第10章を全て守って、

人類史上空前絶後の世界一の立憲法治政治「内政外交」を行った首相、

即ち一億人国家国民家族の父母「慈父」家長は、

中卒で進学せず芸能界という社会に就職した勤労納税国民山本太郎氏と同じ、

最終学歴尋常高等小学校卒の田中角栄内閣総理大臣唯一人である。

http://www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/454.html#c39


これは上杉鷹山公の参姫への手紙に全て書かれている、

藩主とその奥方のつとめを、

田中角栄首相とその奥様がともに守り通したからに他ならない。

田中角栄氏が大和魂日本男児の武士道仏道総理であり、

その奥方が大和撫子の内助の功を国主の賢夫人として奥向きで婦徳を尽くして、

家長即ち田中角栄総理が国事にまい進するのをささえ続けた、

ということに他ならない。


阿修羅に上杉鷹山公参姫への手紙を転記したから、

読んでご覧になれば七つの子どもでも、これが日本国憲法と全く同じ仏法であることが判る。


http://www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/755.html#c31
「男は戦いで死ぬ者女は家で自分と子の命を守る者」

昔の人は【雌鶏が時を告げれば国が滅ぶ】と言いました。

都民がどうなろうとも我が身だけがかわいい女性知事は直ちに身を引いて、

家の中で子や孫を目の中に入れても痛くないほどかわいがる、

いいおばあちゃんになるべきですね。


http://www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/755.html#c37

私の父の実家は代々女性が家長という家系でした。
作家の堀田善衞氏のお家も女性が代々家長だったでしょう?

http://www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/755.html#c47
>>37さん
家長が女性でも構わないが、1400万人の家族の家長が女性だったためしがあるかい?

http://www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/755.html#c50
上杉鷹山公が孫娘に、
藩主の妻として修身すべき内助の功が大和撫子の婦徳そのものである、
とやさしく諭している部分を抜き書きする。

・・・
 男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。

男は外に向かって外事をし、

女は内にあって、内事を治めるものである。

国を治め、天下の政(まつりごと)を行うといえば、

大変なことのように思われるであろうが、

天下の本は国であり、

国の本は家である。

家がよくととのえられるためには、

一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。

根本が乱れて、末が治まることはありえない。

 普通に考えれば、

婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、

政治の本は一家の中から起こることであり、

身を治め徳を積み、

夫は妻の天であってこの天にそむいてはならない。

これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、

夫に従順であれば、

やがては政事を輔(たす)けることとなるものである。

 あなたはまだ稚(おさな)いので、

人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、

その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。

しかし、感通とは妙なもので、

人に知られず身を修めていると、

いつかはそれが知られて、

効果が大いに表われることは疑いのないところである。

『鶴九皐に泣いて声天に聞こゆ

(かく、きゅうこうにないて、せい、てんにきこゆ

・・・鶴は奥深い谷底で鳴いても、

その気品ある泣き声は天に届く。

つまり優れた人物はどこに身を隠しても、

その名声は自然に広く世間に知れ渡るというたとえ)』

と詩経に書かれているのはこのことである。

奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、

一国の賢夫人と仰がれるようになる。

そうなれば、

あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。

誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。

ひたすら努めに努められよ。・・・


と、
国家という大きな家を治める家長即ち統治者は元服男子であり、
家長男子と婚姻した元服女子の最も大事な役割は、
国家という家の中で、
国王という家長を陰から支える内助の功に、
自分自身が大和撫子という女性の身を修め嗜みて常につとめ、
家の天の家長であり国家の天の国王である夫を、
男女の役割即ち士道と婦道の別を弁え表舞台から引いて支える、
慎み深い中にぶれない芯を抱く先祖代々の徳養教養ある大和撫子であってこそ、
国主を支える賢夫人と大きな家族の国民から称賛される、と、
自らが大和魂武士道の鑑として数え十七歳満十五歳元服直後に米沢藩十五万石の藩主を襲名、
と同時に「民の父母」となることを春日大社に血書して誓った、
鷹山公の孫娘に向けた「老婆心」である。

このように心において女は男の心になれないが、男は女の心になれるのである。

ゆえに、民の父母に一人で成れる者は男子に限る、女子では成れぬ。
為政者は必ず男子であることは仏法の理である。

父母とは大慈悲の心である。
あらゆる手だてによって、すべての人を救う大慈の心が慈父。
人とともに病み、人とともに悩む、子を思う母のようにかたときも捨てることなく、
守り、育て、悲(あわ)れむ大悲の心が悲母。
悲母は悩み苦しむ子を見て『お前の悩みは私の悩み』とともに悩む大悲の心で胸に抱き取り、
慈父は母子を見てあらゆる手だてを尽くして守り育て救い取って『お前の楽しみは私の楽しみ』と、
あらゆる手だてを尽くして人とともに働き、人とともに楽しむ大慈の心ですべての人に向かうのである。

民の父母は、水戸黄門光圀公の「人皆楽しむ」偕楽園に現れている。
悲母を慕う水戸黄門光圀公は自分の誕生日に食を絶って潔斎し生母を供養する久昌寺に歌を残した。
『もろ人よ 思い知れかし 己が身の
 誕生の日は 母苦難の日』
上杉鷹山公に魁けて民の父母と伝国の辞を体現した水戸光圀公の偕楽園は、
梅の花が咲き匂う地上の仏国土である。

婦徳とは悲母の大悲に他ならない。
人びと全てが悩み苦しむとき、悲母が上に立ってすべての人を抱き取るだけでは火事も地震も飢餓も行き倒れも治まらない。
慈父の大慈の心で『人とともに働き、人とともに働いて得た成果を分かちあってともに楽しむ』大慈こそが世に必要である。
この慈父は悲母の天である。
これを三つ子の言霊日本語で、
母なる大地、父なる天といふのである。

今東京都民1400万の塗炭の苦しみをその渦中に不惜身命飛び込んで『民の父母』となって救おうと、
大丈夫日本男児山本太郎大和魂が立ち上がった。
都知事選の結果がどうあれ、東京と日本に必要なのは大和魂大丈夫日本男児であり、大和撫子では無い。
選挙の結果にかかわらず小池百合子女史は政治の修羅場から自ら身を引いて、
戦場を大丈夫大和魂に渡すことこそが、
先祖代々大和撫子が終生修身する婦徳の道であり、悲母観音の菩薩道すなわち仏道である。

18 件のコメント:

  1. 仏教聖典 勝鬘経ほか (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:33:36
    聖徳太子が仏教を解説講義した三経義疏のうちのひとつ勝鬘経は、女性がさとりを得て成仏する教えです。
    1600年前の昔から日本全国に建てられた寺院において全国の大和民族「庶民」婦女子がこの教えを聞くことになった。
    上杉鷹山公が参姫への手紙で示した婦徳の道は世尊の前で誓願した勝鬘夫人の教えそのものです。その誓願は次の通りです。

    仏教聖典 なかま 第二章生活の指針 第二節女性の生き方 文庫本p227

     六、勝鬘経

     さとりの道においては、男と女の区別はない。
    女も道を求める心を起こせば、「さとりを求める者」といわれる。

     プラセーナジット(波斯匿はしのく)王の王女、アヨーディヤー国王の妃(きさき)、マッリカー(勝鬘しょうまん)夫人(ぷにん)は、このさとりを求める者であって、深く世尊の教えに帰依し、世尊の前において、次の十の誓いを立てた。

     「世尊よ、私は、今からさとりに至るまで、

    (一)受けた戒を犯しません。

    (二)目上の方々を侮(あなど)りません。

    (三)あらゆる人びとに怒りを起こしません。

    (四)人の姿や形、持ち物に、ねたみ心を起こしません。

    (五)心の上にも、物の上にも、もの惜しみする心を起こしません。

    (六)自分のために財物をたくわえず、受けたものはみな貧しい人びとに与えて、幸せにしてあげます。

    (七)施しや、優しいことばや、他人に利益を与える行いや、他人の身になって考えてあげることをしても、それを自分のためにせず、汚れなく、あくことなく、さまたげのない心で、すべての人びとをおさめとります。

    (八)もし孤独の物や、牢獄につながれている者、または病に悩む者など、さまざまな苦しみにある人びとを見たならば、すぐに彼らを安らかにしてあげるために、道理を説き聞かせ、その苦しみを救ってあげます。

    (九)もし生きものを捕らえ、または飼い、あるいはさまざまな戒を犯す人を見たならば、わたしの力の続く限り、懲らすべきは懲らし、諭すべきものは諭して、それらの悪い行いをやめさせます。

    (十)正しい教えを得ることを忘れません。
    正しい教えを忘れる者は、すべてにゆきわたるまことの教えから離れて、さとりの岸にゆくことができません。

     わたしはまた、この不幸な人びとを哀れみ救うために、さらに三つの願いを立てます。

    (一)わたしはこのまことの願いをもって、あらゆる人びとを安らかにしてあげます。
    そして、その善根によって、どんな生を受けても、そこに正しい教えの智慧を得るでありましょう。

    (二)正しい教えの智慧を得たうえは、あくことなく、人びとに説いて聞かせます。

    (三)得たところの正しい教えは、体と命と財産を投げ捨てて、必ず守ります。

     家庭の真の意義は、相たずさえて道に進むところにある。
    婦人といえども、この道に進む心を起こして、このマッリカー夫人のように大きな願いを持つならば、まことに、すぐれた仏の弟子となるであろう。

    //////////////////////////

    仏教聖典_なかま_第二章、生活の指針_第二節、女性の生き方・・・p221~

     一、パーリ、増支部四-一九七

     世の中には四通りの婦人がある。第一種の婦人は、ささいなことにも腹立ちやすく、気まぐれで、欲深く、他人の幸福を見てはそねみ、施すことを知らない。

     第二種の婦人は、腹立ちやすく、気まぐれで、欲深いが、他人の幸福をうらやみねたむことがなく、また施すことを知っている。

     第三種の婦人は、心広く、みだりに腹を立てない。また、気まぐれでもなく、欲を抑えることを知ってはいるが、しかし、他人をうらやみねたむ心が取れず、また施すことを知らない。

     第四種の婦人は、心広く、腹を立てることがなく、欲を抑えて落ち着きがあり、そして他人をうらやまず、また施すことを知っている。


     二、パーリ、増支部五-三三

     娘が嫁入るときには、次の心がけを忘れてはならない。

     夫の両親に敬い仕えなければならない。夫の両親は、わたしども二人の利益を計り、なさけ深く守ってくださる方であるから、感謝して仕え、いつでもお役に立つようでありたい。

     夫の師は夫に尊い教えを授けてくださるから、自分もまた大切に尊び敬ってゆこう。人として心の師を持たずに生きられないからである。

     夫の仕事に理解をもってそれを助けてゆくように、自分も教養に心がけよう。夫の仕事を他人の仕事のように考えてそれに無責任であってはならない。

     夫の家の使用人や出入りの人たちについても、よくその気立てや能力や食べ物の好みなどを心得て、親切に面倒を見てゆこう。また夫の収入は大切にたくわえ、決して自分のために無駄遣いしないように心がけよう。

    ___________________

    上記の第二項は、上杉鷹山の参姫への手紙と全く同一内容です。鷹山は武士の必須の嗜みとして細川平洲に師事して学んだ朱子学の四書五経を引用していますが、実は中国支那に仏教が伝えられて以来それまで支那帝国にあった老子の道教も孔子の儒教もみな人天の師釈尊が説いた仏教の門下に入りました。これはファンタジーではない厳然たる歴史の事実です。山岡鉄舟も参禅した幕末の臨済宗今北洪川禅師が岩国藩永興寺(ようこうじ)住職時の著書『禅海一瀾』において詳述しております。

    また第二項の最後から二番目の一文は、江戸幕府を開いた徳川家康の同志となった伊達政宗が、武士道のもてなし「御馳走」について言い残した言葉と心軌を一にするものです。「日本武将列伝4天下統一編」桑田忠親著:秋田書店刊p209政宗の教養から転記します。

    ______________

    政宗の教養

     政宗は、和歌に巧みで、書を能(よ)くし、また、能楽・茶の湯の嗜みもあった。殊に茶の湯は、これを古田織部に学んだといわれる。政宗が織部に茶事を依頼した書状もあるし、また、政宗に出した織部の返信も現存する。『命期集(みょうごしゅう)』というのは、政宗に関する逸話を集めた書物であるが、そのなかに、茶道に関する記事は、比較的少ない。ただ、振舞(ふるまい)料理にまつわる、次のような逸話が伝えられている。
     
     政宗は、江戸に参勤しているときは、いうまでもないが、国もとの仙台で下々(しもじも)の者に茶を振舞うときにも、前日から、掃除、道具万端の用意を家臣に命じ、夜の内から寝所を出た。そうして、---

    ---かりそめにも、人に振舞うとあらば、料理を第一と心得よ。亭主が勝手(台所)にはいって吟味もせず、粗末な料理を出し、さしあたり虫気(むしけ)でもあったならば、その心痛はいかばかりであろうか。そのようなことになるくらいならば、初めから客を招かないほうがましである。むかしは、何びとを招くにも、その人の好む物の有無を尋ね、嫌いな物をのけて、料理をしたから、気らくだった。ところが、近頃では、そのような考えがなくなってしまったため、なんとも、不安である。人は、身分の高下によらず、客を馳走するために、さまざまな食物を沢山に出すのは、まったく無用なことだ。一種か、二種か、品をととのえ、それに、ちょっとした物を添えるのがよい。亭主が自ら料理して、盛り物ならば、そのまま座敷へ持ち出すのがいい。珍しい物をいろいろと並べて出すよりも、このほうが、はるかにましだ。すずやかに、物ごとをきれいにするのが、何よりの御馳走であろう。いろいろな食物を百種も千種も取り揃えて三度も振舞うよりは、なんとも目にたたぬ物を、一種か二種ずつ出し、それが季節に合っているのが、好ましい---

    ---と、説明したという。

     心のこもった、軽い料理をよしとしたもので、政宗が茶道の奥義を究めていた証拠とも見られる。

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  2. 仏教聖典 女性の生き方ほか (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:38:20
    仏教聖典_なかま_第二章、生活の指針_第二節、女性の生き方・・・p223~

     三、ビルマ仏伝

     夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。

     かつて夫婦の鑑とほめたたえられたある老夫婦は、世尊のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知り合い、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりをやどしたことがない。この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえることができるように教えて戴きたい。」

     世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧*を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。」
    ____________


    ---用語解説p320 *智慧*(般若prajna)---

     普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀(ぶつだ)”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見抜くことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

    ---p321 *波羅密*(paramita)---

     パーラミターという梵語の漢音写で、”度”とか”到彼岸”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅密(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の”彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられた。

    ------




     四、パーリ、増支部七-五九、玉耶經

     アナータピンダダ(給孤独ぎっこどく)長者の長子に嫁いだスジャータ-(玉耶ぎょくや女)は、驕慢(きょうまん)であって他を敬うことを知らず、父母や夫の命に従わず、いつも一家の波風を起こすもととなっていた。

     ある日、長者の家に入ってこの有様を見た釈尊は、その若い妻のスジャーターを呼んでこう教えた。

     スジャータ-よ、世には七種の妻がある。

     第一は、人殺しのような妻で、汚れた心を持ち、夫に対して敬愛の思いがなく、はては他の男に心を移す妻である。

     第二は、盗人のような妻で、夫の仕事に理解を持たず、自分の虚栄を満たすことだけを考え、口腹(こうふく)の欲のために、夫の収入を浪費し、夫のものを盗む妻である。

     第三は、主人のような妻で、家政のことをかえりみず、自分は怠惰であって口腹の欲にだけ走り、常に荒々しいことばで、夫を叱咤している妻である。

     第四は、母のような妻で、夫に対して細やかな愛をいだき、母が子に対するように夫を守り、夫の収入を大切にする妻である。

     第五は、妹のような妻で、夫に仕えて誠を尽くし、姉妹に対するような情愛と、慚愧(ざんぎ)の心をもって夫に仕える妻である。

     第六は、友人のような妻で、常に夫を見て喜ぶことは、ちょうど久しぶりに会った友に対するようであり、行いは正しくしとやかに、夫を敬う妻である。

     第七は、女中のような妻で、よく夫に仕え、夫を敬い、夫のどんな行いをもよく忍び、怒りも恨みも抱(いだ)かず、常に夫を大切に生かしてゆこうと努める妻である。

    「スジャータ-よ、おまえはこのうち、どの類(たぐい)の妻になろうとするのか。」 

     この教えを聞いたスジャータ-は、大いにわが身を恥じて懺悔(さんげ)し、これから後は女中のような妻となって夫を助け、ともに道を修めてゆこうと誓った。

    ____________________



     五、長阿含經第二・遊行經

     アームラパーリーは、ヴァイシャリーの名高い娼婦であり、自ら大勢の娼婦をかかえている主人であった。あるとき、この女がよい教えを聞こうとして仏*を訪れた。

     釈尊はこの女にこう教えられた。

    「アームラパーリーよ、女は心の乱れやすいもの、行いの間違いやすいものである。欲が深いから、惜しむ心ねたむ心が強い。男に比べて、障害の多いものといわなければならない。

     だから、女は男に比べて、道に進むことが困難である。まして年若くて容色の美しい者はなおさらである。財と色との誘惑にうち勝って、道に進まなければならない。

     アームラパーリーよ、女にとって強い誘惑である財と色は、決して永久の宝ではない。たださとりの道だけが、永久(とこしえ)にこわれない宝である。強い者も病に犯され、若い者も老いに破れ、生は死に脅(おびや)かされる。また愛する者と離れて、恨みある人と一緒にいなければならないこともあり、そして求めることも、とかく思うようにならない。これが世のならわしである。

     だから、この中にあっておまえの守りとなるものには、たださとりの道がある。急いでこれをもとめなければならない。」

     この教えを聞いた彼女は、仏弟子となり、教団*に美しい庭園を寄進した。

    ---p321 *仏(ぶつ)*(仏陀・Buddha)---

     梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
     大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
     なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。

    ---p317 *教団*僧伽(samgha)---#本の記載が気に入らないので豊岳が改変した。
     同じ釈尊の教えに帰依して集まった人びとの集団をいう。初期仏教において、出家者(比丘・比丘尼)集団を僧伽(サンガ)と称した。

    返信削除
  3. 女子どもを命を捨てて守る日本男児大和魂 (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:43:34
    江戸時代以前の政教分離仏教国母子保護日本の真実の歴史「温故知新」2

    (3)次は仏教徒武士道菩薩上杉鷹山(水戸斉昭、吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛、山岡鉄舟、田中正造が心服師事した先達仏教徒武士)がしたためた孫娘「参姫への手紙」

    http://blog.goo.ne.jp/newgenerations/e/b60ef7447b10ffe409c0156faa40a4b5#comment-list


    仏法武士道の鑑上杉鷹山公「参姫への手紙」=実在の史料です。

    上杉鷹山公が隠居後に江戸屋敷の新しい藩主に嫁ぐことになった孫娘(参姫二十歳)に藩主の妻たるべきものの心得を懇切丁寧に説いて手紙にしたためました。
    「上杉鷹山に学ぶ」鈴村進著(三笠書房)から著者による現代語訳文を長文乍ら全文転載します。

    「人は三つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。

     その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。このことは、自分は徳がないからとても行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。

     男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。男は外に向かって外事をし、女は内にあって、内事を治めるものである。国を治め、天下の政(まつりごと)を行うといえば、大変なことのように思われるであろうが、天下の本は国であり、国の本は家である。家がよくととのえられるためには、一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。根本が乱れて、末が治まることはありえない。

     普通に考えれば、婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、政治の本は一家の中から起こることであり、身を治め徳を積み、夫は妻の天であってこの天にそむいてはならない。これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、夫に従順であれば、やがては政事を輔(たす)けることとなるものである。

     あなたはまだ稚(おさな)いので、人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。しかし、感通とは妙なもので、人に知られず身を修めていると、いつかはそれが知られて、効果が大いに表われることは疑いのないところである。『鶴九皐に泣いて声天に聞こゆ(かく、きゅうこうにないて、せい、てんにきこゆ ・・・鶴は奥深い谷底で鳴いても、その気品ある泣き声は天に届く。つまり優れた人物はどこに身を隠しても、その名声は自然に広く世間に知れ渡るというたとえ)』と詩経に書かれているのはこのことである。奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、一国の賢夫人と仰がれるようになる。そうなれば、あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。ひたすら努めに努められよ。

     年が若いので、時折美しい着物を着たいと思われることもあるだろう。それも人情ではあるが、少しでもそんなことに心を動かして、これまでの質素な習慣を失うことのないよう、『終わり有る鮮し(詩経の大雅・蕩 「初め有らざること靡(な)し 克(よ)く終わり有ること鮮(すくな)し」 ・・・何事でも、初めはともかくもやっていくが、それを終わりまで全うするものは少ない) 』の戒(いまし)めを守られるべきである。そうすれば、いつまでも従来の質素な習慣は続けられるであろう。そして、養蚕女工のことを思い、一方では和歌や歌書などを勉強されたい。しかし、ただ物知りになったり、歌人になったりしようなどとは考えるべきではない。学問は元来、自分の身を修める道を知るためのものである。昔のことを学んで、それを今日のことに当てはめ、善いことを自分のものとし、悪いことは自分の戒めとされよ。和歌を学べば、物の哀れを深く知るようになり、月花に対して感興を深くし、自然に情操を高めることとなるであろう。

     くれぐれも両親へ孝養を尽くし、その心を安んじるとともに、夫に対しては従順であり、貞静の徳を積み、夫婦睦まじく、家を繁栄させて、わが国の賢夫人と仰がれるようになってもらいたい。出発に際して、末永く祝うとともに、婦徳を望む祖父の心中を汲み取られよ。他へこそ行かないが、今日より後、いつ会えるかわからないので、名残り惜しく思う。


      武蔵野の江戸なる館へ赴きたまうはなむけに
       春を得て花すり衣(ごろも)重ぬとも わが故郷(ふるさと)の寒さ忘るな         はる憲」
                                                           
    ____________

    上杉鷹山がこの手紙で言う「婦徳」を身につけた婦人が、釈尊がいう「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」すなわち女人出家仏弟子比丘尼あるいは女人在家信者ウバイです。

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  4. 江戸時代以前の政教分離仏教国母子保護日本の真実の歴史「温故知新」1

    江戸時代以前のわれわれのご先祖仏教徒庶民が地上に「実現した」ファンタジーでない母性と子ども保護社会。

    (1)親父の小言より。

    2.  朝、機嫌を良くしろ

    3.  朝早く起きろ

    9.  家内笑うて暮らせ

    16.  年寄りをいたはれ

    19.  女房の言ふ事半分聞け

    20.  子の言ふ事は九ッ聞くな

    22.  何事も我慢をしろ

    23.  子供の頭を打つな

    24.  己が股をつねれ *わが身をつねって人の痛さを知れ

    28.  女郎を買ふな

    29.  女房を探せ

    30.  病人は労いたはれ

    35.  年忌・法事をよくしろ

    36.  親の日は万事慎め *親の年忌・命日には謹慎しろ

    38.  子供はだまかせ *だまくらして上手に扱え

    39.  女房に欺されるな

    40.  博奕をするな

    41.  喧嘩をするな

    45.  世話焼きになるな   *世話とは、特に男女の夫婦縁固めの仲人のこと。他人の嫁を自分勝手に自分の都合良いように世話するな、人の恋路の邪魔をするな(そういう奴は馬に蹴られて死んでしまえ)、人情の赴くところ当人同士の自然の縁づきに任せろと言うこと(ここの解説は江戸時代の石頭仏教徒豊岳でした笑)

    75.  身持ち女は大切にしろ *妊婦は大事にしろ

    76.  産後は、なほ大切にしろ

    ______________



    (2)次は法句經、釈尊の言葉から。

    http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149

    「ブッダのことば」として中村元さんが邦訳

    ・・・

    「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」

    「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」

    「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」

    「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」

    「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」

    「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

    「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子(女の子)は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」

    「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

    「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」

    「盛年をすぎた男がティンバル果のように盛り上がった乳房ある若い女を誘い入れて、かの女への嫉妬から夜も眠れない。これは破滅への門である。」 

    「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって、得たものを、その度に失う人がいる。これは破滅の門である。」

    「婦女の求めるところは、男性であり、心を向けるところは装飾品、化粧品であり、よりどころは子どもであり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である。」

    ・・・

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  5. 仏教は無我の教えなり (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:51:47

    仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第三節、現実の人生

    三、パーリ、増支部三-六二

     世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。
    すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。
    しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

     ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。
    それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

     母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。
    子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。
    子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。
    いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。



    五、パーリ、長老尼偈註

     裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

     この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。
    彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

     釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

     狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。
    芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。
    ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。
    かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。




    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    「無我(むが)」


    仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三項仏のたとえ

    十、雑宝蔵経

     ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き屋に宿をとった。
    すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。

     間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。

     すると、前の鬼が言うには、
    「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」

     後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。

     男はもう絶体絶命である。
    どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。

     案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。
    これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って来て補った。
    後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。
    前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。

     こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。

     男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。
    一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、気が狂って空き屋を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。
    人びとは、この話の中に、無我(むが)の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。

    ______________
    仏教聖典用語解説

    *無我(anartman)*****
     仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
    それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
    なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。

    ______________

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  6. 小説維摩詰から天女の場面 (豊岳正彦)
    2017-06-25 06:35:29
    「小説維摩詰ヴィマラキールティの生活と意見」池田得太郎著大雄閣出版
    ・・・・・

     と、座の中心にやってきた踊り子の一人が、やおら薄衣を脱いで、唖然として見守る沙門たちに投げかけた。

    「何をなさるのです」
     もっとも驚いたのはサーリプッタである。頭上に舞い降りてくる衣から逃れようとして、夢中で手を動かした。皮肉というか、あまりあがいたので、衣はかえってサーリプッタの四肢に絡みついてしまった。
    「大徳よ、そのように暴れてなんとなされます」

     美しい女が鈴を転がすようなあでやかな声で言った。
    「知れたことです。このような蠱惑的なものはわたしにふさわしくありません」
     言いながら、サーリプッタはなおも手足をばたばたさせた。
    「衣が蠱惑的だとおっしゃるのですか」
    「蠱惑的です。この変な香り、すべすべした感じ、ふざけていないで、これを取ってください」
    「これはまた、大徳にあるまじい、狭いお考えです。衣は衣、香水は香水で、別に他の何ものでもありませぬものを……」
    「いや、これはあなた方、女が着ていたものです。女はわたしにとって魔物です」
    「これは恐ろしいことを」

     女が美しく笑って言った。
    「女は衆生ではなくて、魔物だとおっしゃるのですか」
    「つべこべ言わずに取ってください」
    「大徳よ、別に衣に意志があるのではありません。衣があなたさまから離れようとしないのは、衣のせいではなくして、あなたに魔性への恐怖心があるからではありませんか。すべての煩悩を断じたと思っているあなたさまから、衣が離れようとしないのは、何故かしら……」

     サーリプッタは目を白黒させて、しっかりした顔立ちの、ペルシア美人を見守るしかなかった。
    「魔と申しても、魔そのものがこの世にある訳ではありません。魔の実体は個体というより、一つの作用なのです。そしてその根本は己れ自身に内在するものです。ですから、女が魔物だなどというのは、わたしたち女性にとって、とんだ濡れ衣と申すもの。もし己れ自身の恐怖心や嫌悪感をとり除いてしまえば、ほら、大勢の方々のように素直に歌舞を楽しめるのです」
    「あなたは、一体、何者ですか」
     サーリプッタがへきえきとなって、訊ねた。

    「私は菩薩です」

    「いま、何と言われました」

    「菩薩と申しました。菩薩と申すものは、何も粗末な衣をまとい、托鉢する人には限りません。疲れた人々に妙なる音楽を聞かせてあげ、明日の活力を養ってあげる、これは妙音菩薩と申します。あれなる異国の楽師さんも、やはり妙音菩薩と申せましょうね。わがご主人は、それはそれは音楽好きで、わたしどもを大事にして下さいます」
     どうやら、ヴィマラキールティは、異国のさすらい芸人の中から、これらの人を連れて来たらしい。
    ________________

     このように、和を以て貴しとなす聖徳太子がペルシアについて詳細に通暁した維摩経を最重要聖典として義疏したこと自体、聖徳太子の出自がペルシアにあることの実に強力な傍証になります。

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  7. 仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
    2017-06-25 11:13:44
    第二章 生活の指針

     第一節 家庭のしあわせ

     一、六方礼経

     災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。

     朝早く起きて口をすすぎ、顔を洗い、東西南北、上下の六方を拝んで、災いの出口を守り、その日一日の安全を願うのは、世の人のするところである。

     しかし、仏の教えにおいては、これと異なり、正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行って、災いを防ぐ。

     この六方を守るには、まず四つの行いの垢(あか)を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさがなければならない。

     この四つの行いの垢とは、殺生(せっしょう)と盗みとよこしまな愛欲と偽りであり、

    四つの悪い心とは、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと恐れである。

    家や財産を傾ける六つの口とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、賭博にふけること、悪い友だちに交わること、それに業務を怠ることである。

     この四つの行いの垢を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさいで、それからまことの六方を拝むのである。

     このまことの六方とは何かというと、東は親子の道、南は師弟の道、西は夫婦の道、北は友人の道、下は主従の道、そして、上は教えを信ずる者としての道である。

     まず、東の親子の道を守るというのは、子は父母に対して五つのことをする。父母に仕え、家業の手伝いをし、家系を尊重し、遺産を守り、父母の死後はねんごろに供養することである。

     これに対して、親は子に五つのことをする。悪をとどめ、善をすすめ、教育を施し、婚姻をさせ、よい時に家を相続させることである。互いにこの五つを守れば、家庭は平和であり、波風が立たない。

     次に南の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく仕え、素直に命(めい)を守り、供養を怠らず、慎んで教えを受ける。

     それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正しくして弟子を正し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、正しく説いて正しく教え、引き立てて名を表すようにし、何ごとについても守護を忘れないようにする。こうして師弟の間が守られて平和になる。

     次に西方の夫婦の間は、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって向かい、家政をまかせ、ときどきは飾りを与える。妻は夫に対し、家政をととのえ、使用人たちを適切に使い、貞操を守り、夫の収入を浪費せず、家政をうまく行うようにする。これによって夫婦の間はむつまじく、争いは起こらない。

     次に北方の友人の道は、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかってやり、常に相手を思いやる。

     また友人が悪い方に流れ落ちないように守り、万一そのような場合には財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、不幸のときは助けの手をのばし、必要の場合にはその妻子を養うこともする。このようにして友人の間は美しく守られ、互いに幸せが得られる。

     次に下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい給与を与える。病気の時は親切に看病する。珍しいものは分かち与える。ときどき休養させる。

     これに対して使用人は、主人に向かって五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直を守り、仕事にはよく熟練する。そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。こうして主従の間にもつれがなくなり、常に平和が保たれてゆく。

     教えを信ずる者としての道というのは、どんな家庭であっても、仏の教えが入っていなければならない。そしてこの教えを受ける人として、師に対し、身(からだ)も口も意(こころ)もともになさけに満ち、ていねいに師を迎え、その教えを聞いて守り、供養をしなければならない。

     これに対して、仏の教えを説く師は、よく教えを理解し、悪を遠ざけ、善を勧(すす)め、道を説き、人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。このようにして、家庭は中心となる教養を保って成長してゆく。

     六方を拝むというのは、このように、六方の方角を拝んで災いを避けようとすることではない。

    人としての六方を守って、内からわいてくる災いを、自(みずか)ら防ぎとめることである。


    仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
    2017-06-25 12:19:53
     二、六方礼経

     人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。

     親しむべきでない友とは、むさぼりの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。

     親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。

     ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。

     このような友を得ることは容易でないが、また、自分もみずからこのような友になるように心がけなければならない。

    よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。


     三、パーリ、増支部二-四

     父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。

    例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。

     また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。

     しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪(むさぼ)りを捨てて施(ほどこ)しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。

    あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。

     父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。


     四、パーリ、増支部三-三一

     家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすものである。

     この場合、他人のことは言わず、まず自ら自分の心を守ってふむべき道を正しくふんでいなければならない。

     五、パーリ、本生経四一七、迦栴延本生

     昔、ひとりの信仰厚い青年がいた。父親が死んで、母親とともに親ひとり子ひとりの親しい生活を送っていたが、新たに嫁を迎えて三人の暮らしとなった。

     はじめは互いにむつみあい、平和な美しい家庭であったが、ふとしたことから姑と嫁との心持ちに行き違いが起こり、波風が立ち始めると、容易には納まらず、ついに母は、若い二人を後に、家を離れることとなった。

     母が別居すると、やがて若い嫁に男の子が生まれた。「姑と一緒にいる間は、口やかましいので、めでたいこともなかったが、別居をすると、こうしてめでたいことができた。」と、嫁が言ったという噂が、さびしいひとり暮らしの姑の耳に入った。

     姑は大変腹を立てて叫んだ。「世の中には正しいことがなくなった。母を追い出して、それでめでたいことがあるならば、世の中は逆さまだ。」

     姑は、「このうえは、’正しさ’という主張を葬り去らなければ。」とわめき立て、気違いのようになって、墓場へ出かけた。

     このことを知った神は、すぐに姑の前に現れて、ことの次第を尋ね、いろいろに諭したけれども、姑の心の角(つの)は折れない。

     神はついに、「それではおまえの気のすむように、これから憎い嫁と孫を焼き殺してやろう。それでよいであろう。」と言った。

     この神のことばに驚いた姑は、自分の間違っていた心の罪をわびて、嫁と孫の助命を願った。子も嫁もまたこのときには、いままでの心得違いを反省し、母を訪ねて、この墓場へ来る途中であった。神は姑と嫁を和解させて、平和な家庭にかえらせた。

     自ら正しさを捨てなければ、教えは永久に滅びるものではない。教えがなくなるのは、教えそのものがなくなるのではなく、その人の心の正しさが失われるからである。

     心と心の食い違いは、まことに恐ろしい不幸をもたらすものである。わずかの誤解も、ついには大きな災いとなる。
    家庭の生活において、このことは特に注意をしなければならない。

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  8. 仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
    2017-06-25 13:15:43
     六、六方礼経

     人は誰でもその家計のことについては、専心に蟻のように励み、蜜蜂のように努めなければならない。いたずらに他人の力をたのみ、その施しを待ってはならない。

     また努め励んで得た富は、自分ひとりのものと考えて自分ひとりのために費やしてはならない。その幾分かは他人のためにこれを分かち、その幾分かはたくわえて不時の用にそなえ、また国家のため、社会のため、教えのために用いられることを喜ばなければならない。

     一つとして「わがもの」というものはない。すべてはみな、ただ因縁*によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。

     七、法句譬喩経四

     アーナンダ(阿難)が、ウダヤナ王の妃、シャマヴァティーから、五百着の衣を供養されたとき、アーナンダはこれを快く受け入れた。

     王はこれを聞いて、あるいはアーナンダが貪りの心から受けたのではあるまいかと疑った。王はアーナンダを訪ねて聞いた。

    「尊者よ、五百着の衣を一度に受けてどうしますか。」

     アーナンダは答えた。「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
    「それでは破れた衣はどうしますか。」
    「破れた衣で敷布をつくります。」
    「古い敷布は。」
    「枕の袋に。」
    「古い枕の袋は。」
    「床の敷物に使います。」
    「古い敷物は。」
    「足ふきを作ります。」
    「古い足ふきはどうしますか。」
    「雑巾にします。」
    「古い雑巾は。」
    「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」

     ものは大切に使わなければならない。生かして使わなければならない。

    これが「わがもの」でない、預かりものの用い方である。   了

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  9. 華厳経 善財童子 仏教聖典 (豊岳正彦)
    2017-06-26 16:11:18
    仏教聖典_はげみ_第二章、実践の道_第一節、道を求めて

     九、華厳経三四、入法界品

     昔、スダナ(善財ぜんざい)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。

    海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。

    人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。

    また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。

     また座禅する出家を訪れては、その寂(しず)かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。

    また、気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃(やいば)の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。

     このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。

     かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子どもの群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧(ちえ)をさとった。

     香を焚く道にも仏の教えがあり、華(はな)を飾る道にもさとりのことばがあった。

    ある日、林で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の*無常を教わった。

     昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財(ぜんざい)童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。

     童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。

     まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。

    そして敬虔(けいけん)に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華(はな)を供え、歓喜の香を捧(ささ)げなければならないことを童子は学んだのである。

    ______

    *無常(むじょう)anitya・・・・・p325用語解説

    あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。
    無我 (豊岳正彦)
    2017-06-26 19:07:02
    仏の教えの中心は無我である。

    無我を悟ることによってあらゆる慈悲が生まれる。

    無我を教えの中心に置く宗教は仏教だけである。


    用語解説
    *無我(anartman)
     仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
    それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
    なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。


    上記のように、他宗教には無我という概念はない。
    我思う、ゆえに我ありの「有我」が認識の根源なのだ。

    しかし逆に言うと、「我」があるゆえに我と異なる教えを信じる異教徒という存在がある。
    そして我のある宗教ではすべて異教徒は社会から排斥し削除する「政治的行動」の対象である。
    これが一神教がその存在そのものに不可分に内包する「政教一致」である。

    いっぽう仏教は無我だから、排斥すべき異教徒が存在しない。
    我がなければ彼も無いのである。
    これが仏教の寛容である。

    霊鷲山説法七不衰法を渡辺照弘師が解説した文章を転記する。

    「新釈尊伝(旧字)」渡辺 照宏【著】昭和四十一年 大法輪閣発行 より抜粋

    人天の師ゴータマ・ブッダ(釈尊)が入滅前霊鷲山でヴリッヂ族の都市国家ヴァイシャリー(維摩居士の国)を武力征服しようと企てるマガダ国アジャータシャトル王の重臣ヴァルシャカーラ大臣(バラモン)の訪問を受けたときに説いた「七不衰法」にこうあります(大般涅槃経)。

    「アーナンダよ。
    第一、ヴリッジの人たちはしばしば会合し、よく集まっているか。
    第二、ヴリッジの人たちは一致和合して会合し、決議し、事を処理しているか。
    第三、彼らは新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っているか。
    第四、彼らは年長者を尊敬し、その言うことを聞くか。
    第五、彼らは婦女や少女を強制して言うことをきかせようとはしないか。
    第六、彼らは内外の社(やしろ)を尊敬し、昔からしきたりの供物を怠らないか。
    第七、彼らは宗教家たちを尊敬し、よそから喜んで宗教家がそこを訪れ、そこにいる宗教家は喜んでそこに留まっているか。
    これらを守っているあいだは、ヴリッジの人たちは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

    「バラモン(ヴァルシャカーラ大臣)よ。
    かつて私はヴァイシャリーのヴリッジの人たちに、これらの七不衰の法を教えた。彼らがこれらのほうを守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

    「釈尊(ゴータマ・ブッダ)よ。
    (ヴリッジの人たちが)これらの七不衰法のうちのただひとつでも守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してありますまい。七つの法がぜんぶ揃っていれば申すまでもありません。マガダ国のアジャータシャトル王は武力で彼らをくだすことはできません。もっとも、陰謀か内部分裂でもおこれば別でしょう」

    ・・・内外の社とさまざまの宗教家とを尊敬すべしという教えは注目に値します。ここで「内外の社」と訳しておきましたが漢訳には「宗廟」とあります。内は氏神、外は氏神以外の社をさすものでしょう。佛陀が既存の民族宗教の信仰を廃するどころか、むしろその信仰を奨励した証拠がこれであります。のちに仏教は中国でも日本でも土地固有の信仰を採用しました。神仏の融和を日本における仏教の堕落だと考える学者もいますが、そういう人はインド仏教を知らないからそういえるのです。あらゆる宗教に対する寛容もこの七ヵ条の中にあります。
    ・・・


    以上の事実から分かることは、仏教だけがあらゆる宗教を排斥せずあらゆる異教徒をそのサンガすなわち教団に受け入れる、政教分離の教えであると言うことである。

    そして日本列島というムー大陸の遺残の島国では、ムー大陸の国教であった仏教を蓬莱島の住人がすべて先祖代々受け継ぐ仏国土であるから、悠久の太古からあらゆる渡来人を分け隔てなく優しく受け入れて、力を合わせて政教分離の和を以て貴しとなす三宝帰依和合社会を、庶民常民の親子相伝で代々伝え続けてきたのである。

    憲法ということばは聖徳太子が作った、仏法を守るという意味の仏語日本語である。

    明治憲法は廃仏毀釈して作ったから、本来の意味の憲法ではない。

    しかし日本国憲法は主権を庶民に取り戻して大光王の七不衰法を打ち建てた仏法であるから、日本国憲法は日本語の正しい意味において政教分離民本主義農本主義立憲法治国家の、仏心最勝王教仏法そのものとなるのである。

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  10. 超訳文庫維摩経 (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:20:31
    超訳【維摩経】
    bunchin.com/choyaku/yuima/index.html

    初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
    仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
    中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。
    で、この面白さ・楽しさの万分の一でも、誰かと分かち合えればよいなぁ、と思い、浅学菲才を省みず、無謀な挑戦を始めた次第です。
    娯楽性を重視したため、学術的正確さを相当犠牲にしています。仏さま、どうもすみません。
    m(_ _)m
    「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。


    第1話 維摩居士、登場bunchin.com/choyaku/yuima/yuima001.html
    2006.11.29
    昔々、インドのヴァイシャーリーという大都市に、維摩詰(ヴィマラキールティ、以下「維摩」)という長者がいました。

    彼は熱心な仏教徒でしたが出家はせず、お城のような巨大なお屋敷で、妻子や使用人たちと暮らしていました。

    維摩は溢れんばかりの才能と情熱、そして資産を持っていました。

    そして、とても幸いなことに、それら全てを人助けのために使うと固く心に決めていたのです。

    実際、彼の活動は融通無碍であり、大きな成果を上げていました。

    貧しい人には施しを与え、悪人は教え諭し、怠け者にはハッパをかけるなど、全ての人に対して、それぞれのレベルに合った導き方をする彼の人望は、まさに天下に轟いていたのです。

    ある日、維摩はこう考えました。

    「これまでは自分であちこち飛び回り、色んな人たちを導いてきたわけだが、もう長いこと続けてきたのでちょっとマンネリ気味だなぁ。
    そうだ!ここはひとつ、私が「病気で寝込んだ」という噂を流してみよう。
    そうすればきっと、私のことを心配して、人々は自分たちの方から私のところに集まってくるに違いない。
    うん、なんて効率的なアイデアだろう!」

    さて、維摩が「病気で寝込んだらしい」という噂が広まると、国王や大臣をはじめ、資産家やその家族たちなど、あらゆる階層の人々が、数え切れないほど彼の家に集まってきました。

    こうして彼らを待ち構えていた維摩は、病気をネタにした説教を実施し、大成功をおさめることができたのです。

    作戦成功の余韻にひたりながら、維摩はふと思いました。

    「私はこうやって「病気で寝ている」ことによって、たくさんの人たちに仏の教えを説くことができた。
    そういえば当の仏様は、こんな私を見舞いにきてくれないものだろうか?」

    next


    ・・・・・
    順番に読むのが一番楽しいですが、りんごさんは女性だから維摩経で天女が出てくるところをご紹介しましょう。
    超訳が一番いいお経の現代語訳だと思います。維摩経以外の超訳もとても面白いです。

    ・・・・・
    以上、は下記から転載
    http://burogu321.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-ae75.html

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  11. 超訳文庫維摩経第24話 維摩の「人間観」 (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:25:10
    第24話 維摩の「人間観」
    2007.2.25

    文殊菩薩は維摩の言葉をさえぎってツッコミました。

    「ちょっと待ってください!そもそもあなたは人間たちの存在を何だと思っているのですか?」

    維摩は答えました。

    「ん、何?ワシの「一般ピープル」に対する見解?
    ふむ・・・例えるならこんな感じじゃな。

    ・マジシャンが自分のマジックを見物するようなものじゃ。
    ・水に映った月を見るようなものじゃ。
    ・鏡に映った自分の顔を見るようなものじゃ。
    ・暑いときのかげろうのようなものじゃ。
    ・響くこだまのようなものじゃ。
    ・浮かぶ雲のようなものじゃ。
    ・水のしぶきのようなものじゃ。
    ・水に浮かんだ泡のようなものじゃ。
    ・イナズマの光のようなものじゃ。
    ・「地、水、火、風」以外の元素のようなものじゃ。
    ・「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」以外の感覚のようなものじゃ。
    ・「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」から生じる5種の認識に「意識」を加えた6種以外の認識領域のようなものじゃ。

    ・・・どうじゃ、少しはピンときたかな?
    もっと言うなら、こうじゃ。

    ・一度火を通した穀物の芽のようなものじゃ。
    ・生まれつき眼の見えない人が考える「色」のようなものじゃ。
    ・飛ぶ鳥が空中に残した跡のようなものじゃ。
    ・目覚めた時に覚えている「夢」のようなものじゃ。
    ・煙の出ない火のようなものじゃ。

    ・・・まぁ、ワシは「その他大勢」の連中を、そのようなもんじゃと考えておるよ。」


    第25話 天女あらわる!
    2007.2.26
    大勢の野次馬が見守るなか、激しい問答を繰り広げる文殊と維摩。

    議論が白熱したその時です。
    部屋の中空に突然ひとりの天女が出現しました。

    そしてイキナリそこにいる全員の頭上に美しい天界の花びらを振りかけたのです。

    菩薩たちの上に落ちた花びらは、そのまますぐに地面に落ちましたが、十大弟子たちの上に落ちた花びらは、なんと彼らの頭や身体にピタリと貼り付いてしまったではありませんか!

    大弟子たちは必死になって手で引っ張ったり、日ごろ鍛えた超能力を駆使したりしましたが、くっついた花びらは全く外すことができません。

    それを見ていた天女は、シャーリプトラにたずねました。

    「ねぇお兄さん、どうしてお花を取ろうとするの?」

    シャーリプトラは答えました。

    「やかましいっ!どこの世界に花びらを全身にくっつけた修行僧がいるものか!これは我らにはふさわしくないんだよ!だから取るんだ!!」

    天女は言いました。
    「あらあら・・・そんな風に考えちゃ、お花に失礼だわ。
    その花びらは別に「ようし、あいつにくっついてやれ!」なんて考えてあなたにくっついているわけではないのだから。
    菩薩の皆さんを見てごらんなさい。
    なんで彼らには花がくっつかないのだと思いますか?
    悪魔は、「恐れ」のない人には襲いかかれないということがありますよね。
    菩薩たちは既に、いかなる外部環境によっても左右されない心を持っています。
    もちろん花がつこうがつくまいが、全く気にしません。
    だから、かえって花びらはくっつかないのです。
    お兄さんたちお弟子さんがたには、どうやらまだ生死に恐れがあるようですね。
    眼や耳や鼻などの全身の5つの器官から受ける刺激に対する煩悩が、まだまだたっぷりと残っているのでしょう。(笑)」

    シャーリプトラは、ムッとして話題を変えました。

    「そういえば天女さん、あんたいったいいつからこの部屋の中にいるんだい?」

    天女:「そうね、維摩のオジサマが解脱しているのと同じぐらいかしら。」

    シャーリプトラ:「え?じゃあ、もうずっと長いこと?」

    天女:「あら、オジサマの解脱はずっと長いあいだだと考えてるわけ?」

    シャーリプトラ:「・・・・・・・・・」

    天女:「あらあら。お兄さんみたいに賢い人が、どうして黙っちゃったの?」

    シャーリプトラ:「うるさいな!解脱ってのはな、言葉では表現できないものなんだよ!だから・・・オレにはここで何て言ったらいいか、わからないんだよ・・・」


    第26話 天女、シャーリプトラをへこませる
    2007.2.27
    天女はしれっと言いました。

    「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
    解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
    文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」

    シャーリプトラ:「えーっと・・・解脱って、淫欲とか怒りとか迷いとかから離れることじゃなかったのでしたっけ?」

    天女:「ああ、それはまだ悟りもしないのに「悟った」などと思い上がっている人のために、仏があみ出した説明よ。(笑)
    思い上がりの全くない人に対しては、仏は「淫欲・怒り・迷いがあることこそが解脱なのだ」と説明しているわ。」

    シャーリプトラはぐうの音も出ないほどやっつけられてしまいましたが、何とか言葉をしぼり出しました。

    「こ、これはオミソレいたしました・・・
    貴女の弁説は完璧です。素晴らしいのひとことです!
    それにしても天女さん、貴女はいったいどんな奥義を誰から授けられたのですか?」

    天女は答えました。

    「奥義ですって?私はいまだかつて何も授けられたこともなければ、得たこともないわ。
    だからこそ、このように弁じることができるのです。
    だってそうじゃない?
    何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」


    第27話 天女、維摩の部屋の素晴らしさを説く
    2007.3.4
    天女はさらに言いました。
    「この維摩のオジサマの部屋はとってもスゴイのよ。
    例えば今、この部屋は明るいでしょう?
    これって昼だから明るいのじゃないのよ。
    夜になってもこの明るさなの。
    しかも、とくに何か明かりを使っているわけじゃないの。
    部屋全体がまばゆいばかりに発光しているっていうわけ。
    この部屋のスゴさはそれだけじゃないわ。
    お兄さんたちにわかるかどうかしらないけど、この部屋は全体が究極のオーディオシステムになっていて、ありとあらゆる音階を忠実に再現することができるのよ!
    それだけじゃないわ。
    この部屋には実はたくさんの宝物がしまわれていて、そこから困っている人たちに惜しげもなく与えられるわけなのだけど、どれだけ与えたからといっても、ちっともなんにも減らないのよ。
    わかる?
    まぁ、ちょっとムリかもね。(笑)
    でもね、ここは本当にそういうところなのよ。
    そんな部屋に住みついている私が、いったいどうして「人の言ったことを忠実に守るだけ」なんていうしょーもないレベルで
    満足できると思うのかしら?」

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  12. 超訳文庫維摩経第28話 天女、「女」について語る (Unknown)
    2017-06-24 22:26:12
    第28話 天女、「女」について語る
    2007.3.4

    シャーリプトラは言いました。

    「・・・いやはや、まったくたいしたもんです。
    というかさ、それだけの能力があるんだったら、女なんてやめて男になればいいのに。できますよね? そのぐらい、楽勝で。」

    天女はあきれ顔で言いました。

    「あらあら、何を言うのかと思ったら!
    実は私は12年間かけて「女」とは何かということを追求してきたのですが、結論から言うと、よくわからなかった、というか、どうやらそんなものは実在しないのよ。
    「女」が存在しない以上、「女」をやめるとかやめないとかいう議論は全く意味がないのじゃないかしら?
    あなたは例えば、幻術師が作り出した幻の女のところへ行って、「なんで男にならないの?」とか言うのかしら?」

    シャーリプトラ:「いやいや、ちょっと待ってください。
    それは違うでしょう? 幻は幻です。
    いまさら変化のしようもないじゃないですか。」

    天女:「でしょー? 幻は幻なのよ。
    全ての事柄も、また同じことなの。
    「理由」なんてありゃしないわ!!」

    次の瞬間、シャーリプトラと天女の姿が入れ替わりました。

    天女の姿のシャーリプトラ:「ぐ、ぐおっ!?」

    シャーリプトラの姿の天女:「はーい、そこのあなた。
    女なんてやめて、男になっちまいなよ!」

    天女の姿のシャーリプトラ:「え!?え!?な、なんじゃこりゃあ!!」

    シャーリプトラの姿の天女:「ほらほら、どうしたの!?だらしないわね!!(笑)
    もしも今のあなたが「女」をやめることができるなら、全ての女性もまた「女」をやめることができるはずよ!
    今のあなたならわかるでしょう?
    全ての女性は今のあなたと同じなの。
    「女」の姿をしているけれども、本性は「女」なんかじゃないのよ。
    ブッダも言っているでしょう?
    「「男」なんていない、「女」もいない」って。」

    言い終わると、天女はシャーリプトラの姿を元に戻してあげました。

    天女:「はい、ここで質問です。「女」はどこへいきましたか?」

    シャーリプトラ:「い、いや・・・
    どこへいったとかいかないとかじゃなくって、そんなもの初めからなかったんですけど・・・」

    天女は言いました。

    「でしょー? 全ての事柄はそんなものなのよ。
    「ある」のでもなく、「ない」のでもないわけ!!」


    第29話 天女、「究極の悟り」について語る
    2007.3.6
    シャーリプトラは言いました。

    「あー・・・すみません、ちょっといいですか?
    もしも貴女がここで死んだとしたなら、いったいどこに生まれ変わることになるのでしょうか?」

    天女は答えました。

    「どこに生まれ変わるか、ですって?
    ブッダがサイキックパワーで作り出す人間たちと同じところに決まってるじゃない。(笑)」

    シャーリプトラ:「いやいやいや!ちょっと待ってください。
    ブッダがサイコパワーで作り出す人間たちは、基本的に不死です。
    それと同時に、確か生まれることもなかったハズでは?」

    天女:「そうよ。全ての一般大衆も同じことよ。死なないし、生まれないの。」

    シャーリプトラ:「・・・。
    えーと、話を変えさせてください。
    貴女は既に、限りなく「究極の悟り」に近づいているように思えるのですが、いったいいつ、「究極の悟り」をゲットするのですか?」
    天女:「うふふ・・・(笑)
    それはね、シャーリプトラのお兄さんが、ただの凡人に戻ることができた時よ!」

    シャーリプトラ:「私が「ただの凡人」になるなどということは有り得ません!絶対に!!(怒)」

    天女:「そうよね。(笑)
    私が「究極の悟り」を得る、なんていうのは、それと同じくらい有り得ないことなのよ。
    「悟り」は決して同じ状態に長いこと留まっていたりはしないわ。
    だから、「悟りを得た!」なんていう人がいたら、その人はウソつきなの。」


    第30話 維摩、カットインする
    2007.3.11
    シャーリプトラは言いました。

    「・・・えーっとですね、貴女はそう言いますが、確かブッダはこうおっしゃったハズですよ。
    「ガンジス河の砂粒の数ほどの人々が、既に悟りを得た、今まさに悟っている、これから悟ることになるであろう」って。
    これはいったいどういうことなんですかね?」

    天女は答えました。
    「ああ、それね。
    それはレベルの低い人たちに説明する便宜上、持ち出しただけの話なのよ。(笑)
    本来、「悟り」には現在も過去も未来もないわ。
    で、お兄さんはそれを得ているのかしら?」

    シャーリプトラ:「もちろんですよ!
    「何も得ることはできない」という「究極の悟り」をね。」

    天女:「そうそう。全ての仏や菩薩たちもそれと同じよ。
    「何も得られない」ということを得ているの!」

    維摩居士は、天女とシャーリプトラのやりとりを黙って聞いていましたが、ここでようやく口を開きました。

    「シャーリプトラよ、この天女はな、92億の仏の供養をコンプリートして、超能力をゲットしたのじゃよ。
    そのぐらいのレベルになると、もはや全ての願いは叶っており、輪廻転生の無限ループからも離脱できているのじゃ。
    だから、もはや「何も生まれない」し、「何も得ることはない」ということになっておる。
    じゃあ、なんでこんなところで遊んどるのか、と思うじゃろ?
    それはな、純粋に彼女の趣味じゃよ。(笑)
    彼女はお前さんみたいなヤツをおちょくるのが大好きなのじゃ。」

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  13. 超訳維摩経仏國本『ザ・ワールド・オブ・パラダイス』から0-4話を順次転載。http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima063.html

    第0-1話 ある日の仏たち
    2009.2.14

    こんな話を聞いたことがあります。

    かつて、世尊こと仏さま(ブッダ)がヴァイシャリー市の郊外にあるアムラさん所有のマンゴー樹園を借り切って、500人の弟子と8000人の修行者たちと一緒になごんでいたことがありました。

    そこに集まっていたのは、ひととおりやるべきことをやり終わったものばかりで、これといった悩みも心配ごともなく、悠々自適の毎日でした。

    また、3万2千人にもおよぶパワフルな超人(=菩薩)たちも勢ぞろいしており、それはもう、なかなかにぎやかな様子。

    そしてブッダが説教をはじめると皆は真剣に聞き入るのですが、それはまるで大海原の真ん中にシュメール山がそびえ立っているかのようでした。

    ヴァイシャリー市から団体で話を聞きに来ていた大勢の金持ち息子たちは、それぞれが手土産として持ってきた宝石ジャラジャラの日よけ傘をブッダにささげました。

    すると何ということでしょう!
    ささげた傘がみな合体してひとつになり、全世界を覆いつくしたではありませんか!

    シュメール山やヒマラヤ山などの高い山から海、川、泉なども全部入っています。
    太陽や月、星までもが傘の中に入っているのです。

    ブッダが超能力を発揮してやっていることは間違いないので、みな度肝を抜かれながらもブッダから目が離せませんでした。

    その時、ヴァイシャリー市の金持ち息子のひとりである宝積(ほうしゃく)くんが進み出て、こう言いました。

    「世尊さま!

    あなたの眼はまるでハスの花びらのようにきれいです。
    心はきよらかで落ち着きがあり、大勢の人々にやすらぎを与えてくださいます。
    私はそんなあなたを猛烈に尊敬しています!

    今見せられたようなミラクルを軽々と発揮し、無敵の能力でありとあらゆるものを理解し、みなに利益を与えます。
    私はそんなあなたを猛烈に尊敬しています!

    あなたは「あらゆるものごとは「有る」のではなく「無い」のでもなく、ただお互いの依存関係があるだけだ」と見切られました。
    菩提樹の下で悪魔を降参させ、悟りを完成されました。
    「もはや何も得ることもなく、これといってすることもない」と言いながら、大勢の外道たちをことごとく打ちまかしました。

    あなたはかつて、以下の3種の完璧なる「法の輪」を回転させました。
    「ありとあらゆる苦しみの正体を見抜く法」の輪
    「ありとあらゆる苦しみを克服する法」の輪
    「ありとあらゆる苦しみを克服したことを確認する法」の輪
    ああ、あなたは生きとし生けるもの全てが逃れられずに苦しんでいる「老いと病と死」すらも癒すことのできるお方、まさに「医王」と呼ぶにふさわしいお方です。
    私はそんなあなたを猛烈に心から尊敬しています!

    あなたはまるでシュメール山のようにそびえ立ち、他人からどんなに褒められようが貶されようが、ビクともしません。

    善人と悪人のどちらに対しても分け隔てなく慈しみをもって応対され、その心のハタラキの平等であることといったら、まるで「虚空」のようです。

    先ほど私がささやかな傘をお贈りした時、私はその傘の中に全世界が入ってしまうのを目撃しました。
    そのようなド派手なパフォーマンスを見せられると、我々のあなたへの尊敬は増すばかりです!

    あなたはいつも一種類の言語で話されるだけですが、世界中の人々はみな、あなたが「自分たちの国の言語で話してくれた」と感じます。

    あなたはいつも同じことしか言いませんが、世界中の人々はみな、それを聞いてそれぞれにふさわしい多彩な効果をゲットします。

    あなたが言っていることはひとつしかありませんが、それを聞いた人たちは、ビビったり喜んだり、嫌がったり疑ったりと、実に様々な反応をするのです。

    こんなことは、まさに仏ならではのことです。

    あなたは全知全能であり、しかも誰よりも努力家です。

    ありとあらゆる束縛を断ち切り、既にアチラ側に渡ってしまわれていますが、それでも我々全てを救おうとしてくださいます。

    あたなは既に、「死」も「生」も乗り越えられました。

    この世の中の事柄について知り尽くしながらも、あたかもハスの葉に水滴が落ちた時のように、まったくこだわらずにスルーされます。

    ああ、あなたこそまさにオールマイティ。

    そんなあなたを私は猛烈に尊敬しております!」

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  14. 第0-2話 パラダイスって、どんなところ?
    2009.2.14

    宝積くんはブッダを褒めちぎるだけ褒めちぎると、こうたずねました。

    「世尊さま!

    我々はみな、パラダイスに行きたいと願っています。
    菩薩や仏が治めているという美しく清らかな地、パラダイス。
    それは、いったいどのようなところなのでしょうか?」

    ブッダは言いました。

    「うむ、それはいい質問だ。
    オマエたちはひょっとして、「パラダイスはどこか遠いところにある」などと思っているんじゃないか?
    パラダイスは他のどこでもない、オマエたちの中にあるというのに。

    この際だからハッキリ言うぞ。
    「パラダイス」とはつまり、オマエたち自身のことなのだよ。

    この世界には、様々な性格を持つ多種多様な菩薩たちがいる。 
    そして彼らはみな仏になるために、どこかふさわしい修行の場はないかといつも探しまわっているのだ。

    宝積よ、よく聞きなさい。

    もしもオマエが「まっすぐな心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「へつらいのない人」が住むパラダイスが出現する。

    もしもオマエが「深く道を求める心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「徳を備えた人」が住むパラダイスが出現する。

    もしもオマエが「さとりを求める心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「生きとし生けるもの全てを救おうと願う人」が住むパラダイスが出現する。

    もしもオマエが「情け深い心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「「自分のもの」を全て捨て去った人」が住むパラダイスが出現する。

    もしもオマエが「おちつきを求める心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「心が乱れることのない人」が住むパラダイスが出現する。

    もしもオマエが「方便を使いたいという心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「自在に方便を駆使する人」が住むパラダイスが出現する。

    もしもオマエが「自分の得た利益を全部他人にあげてしまう心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
    そしてその菩薩が仏になった時、そこに「一切の功徳をそなえた人」が住むパラダイスが出現する。

    宝積よ、クドくなってきたのでこの辺でやめておくが、つまり、そういうことなのだ。

    人の中に清らかな「正しい心」が発生した時、そこで菩薩が動き出す。

    菩薩はその人に「行動」を起こさせ、「行動」は「願い」を引き起こす。

    「願い」は「決意」となってその人の「正しい行動」を強力にサポートし、「正しい行動」の結果として様々な「功徳」が獲得される。

    獲得された「功徳」は「方便」のチカラによって一切の生きとし生けるものを救済する活動に振り向けられる。

    そして一切の生きとし生けるものが救済された時、そこに「美しく清らかな地、パラダイス」がある。

    各人の心の清らかさこそが、パラダイスなのだよ。」
    超訳維摩経仏國本0-3 (豊岳正彦)
    2017-06-23 21:21:46
    第0-3話 シャーリプトラ、ブッダを疑う
    2009.2.14

    その話を聞いていたシャーリプトラは思いました。

    「ん? 菩薩の心が清らかになると世界が美しくなるだって?

    ちょっとまてよ・・・

    今、我々が住んでいるこの世界は、お世辞にも美しいとはいえない。
    というか、むしろキタナイしアブナイし、もうウンザリなところだ。

    でも、ここは世尊が仏として治めている世界。
    ・・・おかしい。 なんで美しくないんだ?

    まさか世尊は、菩薩時代に「清らかな心」を持てなかったのでは?
    ・・・いやいや、そんなバカな!」

    ブッダはシャーリプトラの疑惑をテレパシーで察知すると言いました。

    「こらこら、シャーリプトラよ、ナニを考えているんだ?(苦笑)
    眼の見えない人は太陽や月を見ることができないが、それは太陽や月のせいだとでも言うのかい?」

    シャーリプトラは答えました。

    「いやいや、なんですかそれは! 
    太陽や月が見えないのは、あくまでもその人の眼が見えないからであって、太陽や月には何の責任もありませんよ。」

    ブッダは言いました。

    「そうだろう、そうだろう。
    この世界が美しく見えないのも同じことだよ。
    オマエらが見ない、というかデキが悪くて見ることができないだけなのだ。
    いいか? この世界は充分に美しい。
    それがオマエらの眼には映らないだけだ。
    私のせいにするんじゃない!(笑)」

    その話を聞いていた螺髻梵王(らけいぼんのう)が口をはさみました。

    「こら、シャーリプトラ!
    この世界がキタナイなどと、よくも言えたもんだ!
    世尊のいらっしゃるこの世界は、もの凄く美しいところだぞ?
    オレ様の眼には、この世界はまるで飾り立てられた大王宮のように映っているというのに!」

    シャーリプトラ:「いや、そう思いたいのはヤマヤマなのですが、私の眼に映るこの世界は、デコボコしていてトゲトゲしていてあちこちに穴が開いています。
    とてもではありませんが、美しいといえるような状態ではないのですが・・・」

    螺髻梵王:「バカヤロウ!
    もしも「この世界がデコボコして見える」などというのであれば、それはオマエの心がデコボコしているからだ。
    いいか? 
    菩薩たるもの、ありとあらゆるものに対して「分け隔てなく平等」に接するという気持ちを忘れてはいけない。
    世尊になったつもりでこの世界を見てみろ!
    どうだ、きわめて清らかで美しいだろう?」

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  15. 第0-4話 大解決! そして物語は続く
    2009.2.14

    そのやりとりを聞いていたブッダは、足の指で地面をちょこちょこっと撫でさすりました。

    するとなんということでしょう!
    全世界、見渡す限りのあたり一面が、突然ありとあらゆる種類の宝石で飾り立てられたではありませんか!

    度肝を抜かれた聴衆たちがふと見ると、彼らは全員、ハスの上に座っていることに気がつきました。

    ブッダはシャーリプトラに言いました。

    「どうだ、もう一度たずねるぞ。 この世界はキタナイか?」

    シャーリプトラ:「と、とんでもない! この世界は美しいです!
    なんというか、もうサイコーです!
    しかしこれは、これは、なんということでしょう・・・
    こんな美しい光景は、今まで見たことがありません。
    まさか、これが我らが今まで散々嫌がって逃れたいと願っていた、この世界の本当の姿なのですか?」

    ブッダ:「わっはっは! そうだとも。
    この私が出現先として選んだ世界だ。 美しくないわけがないだろう。
    私の作戦のひとつとして、「レベルの低い連中には美しく見えない」ようにしているだけなのだよ。
    もしもそいつらのレベルが上がったならば、この世界はそのままで充分に美しいことが、ちゃんとわかるハズだ。
    たとえば、同じ料理を食べても、その時の体調次第で、おいしく感じたり、まずく感じたりするようなもんだな。」

    その有様を見て、宝積くん以下500人の金持ち息子たちは、全員「何も足さない、何も引かない」という悟りを得ました。

    そしてその場に居合わせた8万4千人の聴衆は、「よっしゃ、オレたちも頑張るぞ!」という誓いを新たにしました。

    ブッダがサイキックパワーをおさめると、あたりの景色は今までどおりに戻ったのですが、それを見た3万2千人の弟子たちや天人たちはみな、「ああ、作られたものは、やはり常にうつろいゆくのだ」ということを悟りました。

    そして8000人の修行僧たちは、「ああ、アレコレとこだわったところで、なんの役にも立ちはしないのだ」ということを知り、心が軽やかになりました。

    ちょうどその頃、ヴァイシャリー市の大富豪、維摩のオッサンは、とても素敵なアイデアを思いついていました。
    第1話へ続く


    超訳文庫華厳経より善財童子 (豊岳正彦)
    2017-06-23 21:27:18
    http://bunchin.com/choyaku/kegon/

    超訳【華厳経】

    2500年以上昔、インドのとある街に善財童子と呼ばれる少年(16歳ぐらい?)がおりました。
    彼はインド財界を支配する組合の理事長の息子であり、お金に一切不自由しないのはもちろんのこと、日々、最先端の情報に接し、当時の最高の教育を受け、青春を謳歌していました。
    彼がちょこっとアゴを動かしただけで自由に操れる子分は、500人以上いたということですから、それはもう大変な羽振りのよさです。
    ところがある時のこと、彼は巡回説法にやってきた文殊菩薩の口車に乗せられ、たった一人で南インドに向かって修行の旅に出るハメになってしまいました。

    文殊菩薩はこう言って善財くんを送り出したといいます。

    「なぁ、オボッチャン。
    「最高の悟りを得てみせる」というその心意気は立派だけど、言うだけだったら誰にだってできるぜ。
    もし本気でそう思っているのだったら、旅に出なよ。
    世の中は広い。いろんな人たちがいる。
    たくさんの人たちと出会い、別れ、その中から「最高の悟り」をつかみ取って来い!
    で、命があったら、また会おうじゃないか。」

    引っ込みがつかずに家を出るハメになった善財くんは、あちらこちらを彷徨いながら、当時評判の「立派な人」に関する口コミ情報を集めては、実際に突撃訪問する日々を送ります。
    修行僧や行者、仙人のたぐいはもちろん、国王、商人、大金持ち、熟練工、少年、少女、南方のドラヴィダ人、スラムの住人など、片っ端から会いまくる毎日・・・

    2008-10-04

    用語解説:華厳(けごん)、善財(ぜんざい)

    LinkIcon第17話 善財くん、残虐な刑罰にビビる
    LinkIcon第25話 風俗嬢と善財くん

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  16. 華厳経第17話 善財くん、残虐な刑罰にビビる (豊岳正彦)
    2017-06-23 21:29:02
    16人目のインタビューが終わった時、善財くんはこのような情報を得ました。

    「ここから南へいくと、「満幢」というお城があります。
    そこに「満足」という名の王様がいますので、是非、お会いになるといいですよ。」

    善財くんは言われたとおりに南へ向かい、いくつもの村や町を超えていくと、果たして立派なお城に到着しました。

    早速、歩いていたオッサンを呼び止めてたずねました。

    「ちょっとおたずねします。このお城には満足という名の王様がいると聞いてきたのですが、どこに行ったら会えるでしょうか?」

    オッサンは答えました。

    「王様なら今、仕事中だよ。ウチの王様はとてもオッカナイ裁判官だ。悪いヤツにガンガン厳罰を与えるので有名だぞ!」

    善財くんが執務スペースまで行ってみると、満足王はもの凄く立派なイスに腰掛けて裁判の真っ最中でした。

    王様の横には執務官が1万人も並んでバリバリと事務手続きを進めており、さらに1万人の屈強な兵士たちが武装して警備にあたっています。

    そして罪人たちが次々と引き立てられてきては、ビシビシと処罰されているのですが、その有様のあまりの凄まじさに善財くんは絶句しました。

    全身を縛り上げられた罪人たちは、みな容赦なく手足を切り落とされたり、鼻や耳を削ぎ落とされたり、眼をえぐり取られたり、胴体や首を切断されたり、火であぶられたりしています。

    あたりにはひっきりなしに罪人たちの絶叫が響き渡り、まさにこの世の地獄のような光景・・・

    善財くんは縮み上がりながら思いました。

    「こ、こいつはヤバイ!

    オレは立派な人の話をたくさん聞くことで知恵と経験を蓄積し、自分も立派な人になろうとしているというのに、この王様の悪逆非道なことといったらなんだ・・・

    こんなとんでもない悪人は初めてだ! 早く逃げないと・・・」

    王様は善財くんに目をとめると、こういって引き留めました。

    「こらこら、まぁそうビビるなよ。(苦笑)

    こっちへ来なさい。 城の中を案内してやるから。」

    善財くんが恐る恐るついていくと、城の中は見たこともないぐらい豪華な造りで、財宝は充ち溢れ、天女のような美女たちが10億人も控えているではありませんか!

    目を丸くしている善財くんに、満足王は言いました。

    「どうだ、たいしたもんだろう。 これらが悪逆な方法で得られると思うか?」

    善財くんは答えました。

    「い、いや、実に信じがたいことですが、これらは厖大な善行の結果として得られるものに間違いありません・・・

    いったいこれは、どういうわけなのでしょうか?」

    満足王は言いました。

    「なあ少年よ、私がマスターしているのはな、自在に「ヴァーチャルリアリティ」を駆使する能力なのだよ。

    人間を裁くというのは、とても難しいことだ。

    裁かれる側はもちろん辛いし、裁く側だって決して楽しくはない。

    できれば、そんなことはしたくないもんだ。

    そもそも裁きにかけられるようなことをさせないようにするのが一番なのだが、ちょこっと法律をいじったところで、もうどうにもならなくてな。

    どういう罪を犯したらどういう刑罰を受けるのか、公開処刑などのわかりやすい形で示すしかなかったのだ。

    少年よ、オマエはそれが残酷で非道な行いだと考えているだろう。

    オマエにだけは教えてやろう。

    あの罪人たちや処刑風景の数々は、全部私が作り出した「ヴァーチャルリアリティ」なのだ。

    よく出来ているだろう?(笑)

    少年よ、私はムシ一匹殺せない性格なのだ。
    本物の人間に危害など、加えるわけがない。

    ああやって、人々に本物ソックリの残虐な処刑シーンを繰り返し見せつけることで、「ああ、悪いことは絶対にやめておこう・・・」と思わせること。

    それが、私の犯罪の予防・抑止施策だ。

    いいか、人間は誰でも皆、素晴らしい可能性を持っているのだ。
    たとえ刑罰であっても、死なせてしまっては元も子もない。

    かといって、犯した罪を償わせないわけにもいかない。

    この悩みを解消するためには、最初から罪を犯させなければよい。

    全ての人々に、「罰せられるようなことは考えるのもイヤだ!」と思わせることができれば、それも決して実現不可能なことではないのだよ。」

    善財くんが呆気にとられているのを見て、満足王は言いました。

    「私はこの「ヴァーチャルリアリティ」駆使能力によって着実に成果を挙げている。

    しかし少年よ、知っているか?
    この世界そのものが、実は壮大な「ヴァーチャルリアリティ」なのだということを。

    私がやっていることなど、いわばマボロシにマボロシを重ねているだけに過ぎない。

    本当の「リアル」はどこにあるのか?

    そもそも「リアル」など実在するのか?

    それは私にもわからないのだよ。

    少年よ、答えが知りたければさらに南を目指せ!

    そこには「善光」という城がある。

    そしてそこの主は「大光」という名の王だ。

    是非、彼の話を聞くといいよ。」

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  17. 華厳経第25話 風俗嬢と善財くん (豊岳正彦)
    2017-06-23 21:30:35
    24人目のインタビューが終わった時、善財くんはこのような情報を得ました。

    「ここから南へいくと、ドルーガ(険難)という国があり、そこにはダクシナーパタ(宝荘厳)と呼ばれる大繁華街があります。
    そこに「ヴァスミトラ」という名の女性がいますので、是非、お会いになるといいですよ。」

    善財くんが言われたとおりに南へいくと、果たしてギンギラの大繁華街に到着しました。

    早速、街を歩いていたオッサンを呼び止めてたずねました。

    「ちょっとおたずねします。ヴァスミトラという名の女性に会いたいのですが、どこに行ったら会えるでしょうか?」

    オッサンは怪訝そうに善財くんを見つめました。

    「オマエさん、まだこどもじゃないか。
    しかも、なかなか賢そうだし、かなり良家の出と見た。
    そんなオマエが、あのヴァスミトラに会いたいだと?
    ふむ、どうしたものか・・・」

    そのやりとりを見ていた別のオッサンが話しかけてきました。

    「まぁまぁ、いいじゃないか。
    会いたいっていうんだから、何か事情があるんだろうよ。
    教えてやろうぜ。このボウヤなら大丈夫だよ。
    かなり賢そうだから、彼女に会ったぐらいで道を踏み外したりはしないさ。
    なぁ、ボウヤ?(笑)
    ヴァスミトラなら、北の街外れに住んでいるよ。」

    善財くんはオッサンに感謝すると、教えられた場所へ行ってみました。

    するとそこにあったのは、目もくらむような豪勢な屋敷でした。

    十の垣根と掘割に取り囲まれ、水面にはよい香りのする花が咲き乱れ、建物も蔵も無数にあり、どれもこれもとても立派な素材が惜しげもなく使用された、まさに大豪邸です。

    元々金持ちの家に生まれ育った善財くんですが、これにはちょっとビビリました。

    「こ、ここは、ひょっとして、シャレにならない高級風俗店では?・・・」

    恐る恐る入っていくと、奥の部屋の立派なベッドの上であぐらを組んで座っている女性と出会いました。

    その女性のルックスは、美しくまた愛らしく、瞳はやや黒味がかった紺色で、大きすぎもせず小さすぎもせず、髪も長すぎもせず短すぎもせず、そのピチピチした肌の色は黒すぎず白過ぎず、まさに輝くばかりの完璧なプロポーション・・・

    こんな美しい女性がいてよいのだろうか?・・・

    そんな彼女こそがヴァスミトラだったのです。

    善財くんはすっかりドギマギしながらも話しかけました。

    「あの・・・すみません。
    実は貴女がとても立派な人だから会うといい、と勧められまして・・・」

    ヴァスミトラは言いました。

    「あら?私が立派ですって?(笑)
    確かにそうかもね。
    私は相手をエクスタシーに導いて悩みから救う能力をマスターしているわけだし。」

    彼女の声がまた、実にあでやかで耳に心地よく響きます。

    善財くんはクラクラしながら言いました。

    「は、はぁ・・・エクスタシーですか?・・・」

    彼女は言いました。

    「そうよ。
    相手が神様なら私は天女になるし、相手が人間なら人間の女になるわ。
    相手がサラリーマンならOLに、学生なら学生に、無職なら無職の女になるの。
    つまり、相手が「なって欲しい」と願うような女を完璧に演じることができるというわけ。(笑)
    でもね、私がそうするのは、決して彼らの欲望をふくらましたいからではなくって、逆に彼らの欲望を取り去ってあげたいからなのよ。
    例えば、私の声を聞いたものは皆、耳で聞いたことを素直に理解できるようになるわ。
    もし、しばらく私の手を握ったならば、「もう何もいらない」という心境になれるハズよ。
    また、私の隣に並んで座ったならば、世の中の全てのことが光り輝いて見えるようになるの。
    私をじっと見つめたものは、「永遠の休息」とはどういうことなのかを理解できるわ。
    もしも私が辛そうな顔をしたり笑顔を見せたりすれば、それを見たものは皆、「外道を滅ぼしてやる!」という意気が盛んになるわ。
    私を抱きしめたなら、生きとし生けるものの全てに感謝の心が湧いてきて、優しい気持ちになれるハズ。
    そして私とキスした時、言葉にできない宇宙の真理を知ることができるというわけ。
    ・・・ちょっとムズカシかったかしら?(笑)」

    善財くんは言いました。

    「いやはや・・・何というか、ものすごいですね。
    恐れ入りました・・・
    それにしても、貴女はまたどういった経緯で、またどういった修行を積んで、その境地に達することができたのでしょうか?」

    ヴァスミトラは答えました。

    「ウフフ・・・それはね。
    大昔、常住という名の仏様が世に現れたことがあったの。
    この仏様は人々が悩み苦しんでいるのを見て哀れみの心を起こし、足踏みをなさったわ。
    すると、たちまち大地が激しく振動して、全てのお城が砕け散り、蓄えてあった無数の財宝が皆の頭上に等しく降り注いだではありませんか!
    私はその時ある資産家の妻だったのだけれども、この出来事を見て覚悟するところがあって、夫とともに家を捨て、最後に残った財産である宝冠を仏様に奉げたの。
    するとそこへ文殊菩薩がやってきて、今の境地を授けてくださったというわけ。」

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  18. 仏教聖典から (豊岳正彦)
    2017-06-24 08:42:59
    偽りの謝罪について、釈尊はこう教え給うた。↓
    ________________

    仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第一節 心のけがれ

     七、パーリ、本事經二四

    外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、

    内からくる毒矢は防ぐすべがない。

    貪りと

    瞋(いか)りと

    愚かさと

    高ぶりとは、

    四つの毒矢にもたとえられる

    さまざまな病を起こすものである。


     心に貪(むさぼ)りと

    瞋(いか)りと

    愚かさがあるときは、

    口には偽りと

    無駄口

    悪口と

    二枚舌を使い、

    身には殺生と

    盗みと

    よこしまな愛欲を犯すようになる。


     意の三つ、

    口の四つ、

    身の三つ、

    これらを十悪という。


     知りながらも偽りを言うようになれば、

    どんな悪事をも犯すようになる。

    悪いことをするから、

    偽りを言わなければならないようになり、

    偽りを言うようになるから、

    平気で悪いことをするようになる。

     
     人の貪(むさぼ)りも、

    愛欲も

    恐れも

    瞋(いか)りも、

    愚かさからくるし、

    人の不幸も

    難儀も、

    また愚かさからくる。

    愚かさは実に

    人の世の病毒にほかならない。

    ________________

    ↑↑

    このような人にもまた、仏性がある。

    そして『良心は人間だけが持つ仏性である』

    ゆえに、悪人を裁くときには慈悲の仏心で裁く

    先述の転輪王の裁きを適用せよと

    釈尊は教え給うたのである。



    →仏教聖典「罪を憎んで人を憎まず」


    →日本国憲法 第6章司法

    第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

    2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。

    3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

    ↑↑↑

    このように、日本国憲法は人間だけが持つ仏性である『良心』に従ってすべての法律を司ることを裁判官の責務であると定めた、大光王転輪王統治慈悲仏心仏法そのものなのである。

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