受け継ぎて国の司と成れる身の忘る間敷くは民の父母:上杉鷹山公数え十七歳
hougakumasahiko.muragon.com/entry/146.html
【大橋君とライブ】立花孝志のターシーch【NHKの裏側】
youtube.com/watch?v=-guoEv97w_Q
豊岳正彦
黒川君のことはN党のためになると思ってるのかな?共闘すべき他党の党首を座談会の直前に人格攻撃する行為は敵を認識できてないことが明らかになったわけだが。
勿論貴重な戦力を切り捨てる必要はないが、この期に及んでのあの利敵行為はたしなめておくべきだろ。
戦場で最も恐ろしい敵は愚かな味方である。
豊岳正彦
ああいう議論は国会議員になってお互いに国会の中でバチバチガチンコの真剣勝負で討論すべき問題だよ。まずは共闘するときに一つの党になって比例票を稼ぐことが最優先だね。参政党という名は覚えやすく書きやすいので、全員が参政党の看板で大同団結して選挙で政府と戦うべきだよ。
豊岳正彦
今こそリーダーはアンチを本当の味方にするために一人も切り捨てずに清濁併せ呑む大きな度量を持つべきだ。自分と直接対立して出て行った人たちは優秀な戦士である。大橋君を除名せずに党員の同志として自分と対等に、田中角栄氏の「よっしゃよっしゃ」の笑顔でもって大橋君も黒川君も立花君も対等の大和魂で参政党に参加して、比例の票を巨大になるようにすれば、名簿の順位が遅くても国会議員になる道が開ける。そうすれば国会の中で対等にやりあうことができる。国会の中は魔物が住んでいる。魔物を打ち破るには、弁論の戦いに立花君と同じくらい強い大橋君やその他の論客の金剛力が何よりも必要だよ。
同じことが参政党の神谷君にも言えると思う。やはりチャンネル桜に出てにこやかに黒川君江尾弁論でやさしく解き明かして、握手して大同団結するほうが、アンチとして切り捨てるより何億倍も世界中の人々から賞賛されて、それを行えば参政党の旗印のもとにみんなが大同団結すると思う。リーダーたるもの、田中角栄氏のようにあらゆる論敵を自分と対等の大和魂であると認識してすべてのアンチと共闘して巨悪と戦う同志にならなければ、選挙に勝てないと思う。自分から去罪すれば相手も必ず謝罪して、和解と団結が強まるのです。雨降って地固まる。
豊岳正彦
いずれ劣らぬ論客たちが国会の中で巨悪に対して共闘するためには、
選挙前から大同団結してあらかじめ自分たちの旗印を一つに統一することが大事で、
選挙で田中角栄氏のように握手して投票してもらうどぶ板選挙で勝ち抜く行いこそ、
選挙勝利の唯一の道だと思う。
選挙で大勝した田中派も後に分裂したが、
田中角栄総理時代に中国へ単身出向いて周恩来や毛沢東と手と手を合わせて握手して、
お互いの心に井戸を掘って日中友好の道を開いた偉大なる握手の大菩薩に倣って、
みんな選挙前にあらかじめ参政党に入って、
投票日まで党員も候補者も参政党のたすきをかけて街に出て誰かれ構わず握手して、
握手だけにっこりと目と目をあわせて何も言わない「俺の目を見ろ何にも云うな」で、
大和魂のめいめいが心を込めてたくさんの大和国民と握手してください。
「おててとおててを合わせて幸せ(お仏壇の長谷川)」
「象さんが好きです。でも、キリンさんはもっと好きです。(松本引越センター)」の、
小さな女の子たちの美しい瞳と美しい鈴を転がす響きのあの優しい声とまなざしが、
私の大和魂の心の琴線を限りなく強く深く優しくかき鳴らしたのです。
そして今もかき鳴らし続けています。
私はこの小さく優しい大和魂の子供たちを、この命を捨てても守り抜くぞ、
それこそがこの国に生まれて海より深く山より高い慈愛の心で育てられた私の、
母国の国土と母国のご先祖様達への、
報いても報いきれない報恩感謝の恩返しなのだ、と。
拈華微笑南無父母不二佛南無父母恩重経
豊岳正彦
国会議員になってみんなが一人一人田中角栄総理大臣と同じ総理大臣の椅子に座るために「和顔愛語」でにっこり笑って握手して大和魂一党独裁の国会を作り上げましょう。街に出てみんなと握手する銘々のその行いこそが、
世界を大和魂阿吽の以心伝心で握手で地球をぜんたい平和にできるのです。
第二章 永遠の仏
第一節 いつくしみと願い
一、仏の心とは大慈悲である。
あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、
人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。
ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救い取るのが仏の心である。
「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」と、かたときも捨てることがない。
仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。
それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心に触れて子が安らかとなるようなものである。
ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知からとらわれを起こして苦しみ、煩悩のままにふるまって悩む。
【罪業(ざいごう)】の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。
二、仏の慈悲をただこの世一生だけのことと思ってはならない。
それは久しい間のことである。
人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。
仏は常に人びとの前に、その人びとのもっとも親しみのある姿を示し、救いの手段を尽くす。
釈迦族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。
人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、
人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底がない。
だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。
一つには誓ってすべての人びとを救おう。
二つには誓ってすべての煩悩を断とう。
三つには誓ってすべての教えを学ぼう。
四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。
この四つの誓願をもととして仏は修行した。
仏の修行のもとがこの誓願であることは、そのまま
仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。
三、仏は、仏に成ろうとして殺生(せっしょう)の罪を離れることを修め、そしてその功徳によって人びとの長寿を願った。
仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを得られるようにと願った。
仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に害心がなく、また身に飢えや渇きがないようにと願った。
仏は、仏に成ろうとして、偽りの言葉を離れる行(ぎょう)を修め、その功徳によって人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。
二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に仲良くしてお互いに道を語るようにと願った。
また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が安らいでうろたえ騒ぐことがないようにと願った。
むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうようにと願った。
また仏は、仏に成ろうとして、貪(むさぼ)りを離れる行を修め、その功徳によって人びとの心に貪りがないようにと願った。
憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いがあふれるようにと願った。
愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を無視する誤った考えがないようにと願った。
このように、仏の慈悲はすべての人びとに向かうものであり、その本領はすべての人びとの幸福のため以外の何ものでもない。
仏はあたかも父母(ちちはは)のように人びとをあわれみ、人びとに迷いの海を渡らせようと願ったのである。
--------------------------------------------------------------------
仏教聖典237版昭和60年発行仏教伝道協会
hougakumasahiko.muragon.com/entry/146.html
0 件のコメント:
コメントを投稿