2020年8月30日日曜日

首相官邸、e-GOV、Whitehouseへ下記コメント全文を送信致仕ました。

首相官邸、e-GOV、Whitehouseへ下記コメント全文を送信致仕ました。 https://hougakumasahiko.hatenablog.com/entry/2020/08/30/024421 ____________ 和顔愛語親孝行親切親身忘己利他捨身施仏心無刀流武士道宇宙最勝無敵金剛菩薩宰相辞職慰労大宴会 http://hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-0e4a5d.html 【万人の親友家族安倍晋三総理大臣は空前絶後の笑顔の親身親切世界万国平和仏心和顔愛語菩薩さま。】 https://hougakumasahiko.muragon.com/entry/100.html 安倍総理は地球を股に掛けた全方位外交で出会った全世界各国の首脳と国民の皆様と、 一人残らず親友以上の家族同然に親身親切な心からのおつきあいを、 その常に変わらぬ正直で誠実な笑顔で成し遂げなさった、 戦っている際中の敵同士を我が身を捨ててその間に入って戦争を止めさせ、 双方に友人の平和和合の心を呼び起こすことで敵という存在を無くする、 人類史上空前絶後の大いなる平和の大和魂武士道不惜身命日本男児なる、 【万人の親友家族安倍晋三総理大臣は空前絶後の笑顔の親身親切世界万国平和仏心和顔愛語菩薩さま。】 願わくは総理の激務から解放ののちは、山口県の長門市の温泉で、 全世界の万国政府首脳の皆様と一堂に会してともに温泉に漬かって裸の付き合いで背中を流し合い、 日本酒と山海の珍味で皆一緒に歌って踊って大いに楽しむ全員笑顔の大宴会を催してもらいたいものです。 海の塩水に囲まれて塩分を多く美味しく食べて国民全員がお茶をたくさん飲む日本国の風土と衣食住では、 コロナウイルスもSARSもMERSもデングもエボラもAIDSもインフルエンザも、 ウイルスは全て消毒されて一人一人の体内で免疫白血球システムが活躍して無毒になるのであって、 特に日本の山口県はいまだにコロナ死者数ゼロという現実で証明されたごとく、 コロナパンデミックフリーのウイルスヘヴンの地に、 トランプさんも習近平さんもプーチンさんもサイさんも金さんも文さんも全大陸全島嶼各国首脳の皆様も、 誰もが安心してご来訪いただける安全無比の恒久平和日本国憲法立憲法治国日本国山口県の、 安倍晋三総理大臣退職記念慰労大宴会へ、 是が非でも万障繰り合わせて皆様奮って漏れなくご一斉に、おいでませ山口へ。 ♪「昨日の敵は今日の友」乃木希典将軍と安倍さんの故郷山口県は広うござあます、 酒は美味いし姉ちゃんはきれいだ♪ ____________ 令和二年八月卅日 下記動画のコメント欄へ「豊岳正彦」HNで投稿しました。 【武田邦彦チャンネル ニュースの虎の巻】 【武田邦彦】8/29特別解説。ついにこの時が来てしまいました。今まで言わなかった事洗いざらいお話しします。そして、こんな時代にしっかりと将来について語った政治家が一人だけいます。 https://www.youtube.com/watch?v=D8cmwdmgJBE

88 件のコメント:

  1. 文武両道武士道医道仏道

    仮面医師チャンネル
    [ 医師が語る567騒動の真実~567の茶番がばれてきた~ ]
    https://www.youtube.com/watch?v=iwDWqZrsyfU
    ___________

    豊岳正彦 (edited)武田先生の動画へ投稿しました。

    【武田邦彦】8/31いままで本当にありがとうございました。これまで関わってきた全てに深く深く感謝したいと思います。この国の存在がいかに奇跡か、目を瞑って想像すると感謝で涙が溢れてきます。
    https://www.youtube.com/watch?v=B1ldz-F00c4&t=412s

    豊岳正彦(edited)
    山岡鉄舟先生の「武士道」乃ち『父母恩重経』
    https://hougakumasahiko.muragon.com/entry/101.html
    ____________

    【武田邦彦】8/29特別解説。ついにこの時が来てしまいました。今まで言わなかった事洗いざらいお話しします。
    そして、こんな時代にしっかりと将来について語った政治家が一人だけいます。
    https://www.youtube.com/watch?v=D8cmwdmgJBE&t=63s

    豊岳正彦 (edited)

    山岡鉄舟先生の「武士道」乃ち『父母恩重経』
    https://hougakumasahiko.muragon.com/entry/101.html

    無我と無常とダルマ(宇宙が無始無終無窮の無有不二等正覚大慈悲であるという仏の教え)をお話し頂きましてありがとうございます。
    日本にムー大陸時代以前から親子相伝で武芸文芸二道不二成等正覚の悟りがあります。
    記紀に記された仁徳天皇「民のかまど」聖徳太子「十七条憲法」「三経義疏」幸若舞「敦盛」はじめ阿吽の不立文字日本語で著わされた日本国文学文芸はすべて、
    仏の教えそのものである仏法僧三宝帰依不惜身命修道成仏を説き教え弘める仏教無量法門五千巻正法眼蔵一切経文と同じものです。

    明治維新後の日本で一刀正伝無刀流始祖山岡鉄舟高歩大居士(東京都台東区谷中の普門山全生庵開祖)先生が「武士道」を義疏賜りました。
    国立国会図書館デジタルコレクション*に収載されており、ネットで読めます。
    「武士道」山岡鉄舟述話 
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758906

    山岡先生鉄舟高歩大居士は四恩へ報恩修身成道を説き最上の悟りが父母恩重経の等正覚であるとおっしゃいました。
    山岡先生は武士道の文武二道は仏道の等正覚と不二、とお示しなさったと心得ます。
    ぜひ山岡鉄舟述話「武士道」をご一読賜りますようお願い申し上げます。
    また折あらば谷中の全生庵を訪れになって武士道仏道不二成等正覚山岡鉄舟先生にご参禅ください。
    他に書誌IDダウンロードの「鉄舟随感録」も収載されております

    「鉄舟随感録 」- 国立国会図書館デジタルコレクション
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058262

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  2. 南無父母恩重経

    【バフェット】バークシャーが日本の5大総合商社株を大量保有!なぜ投資したのか?!2020年8月31日
    youtube.com/watch?v=RGWOo9u0sxU

    これこそが小泉竹中売国詐欺政権公務員憲法違反汚職内乱罪外患罪NHK政府の最終目標、
    「先祖代々手作り技術が常に同時代世界一優れた日本人の汗を流して築き上げた代々伝える忘己利他の財産を、
    怠惰無能で勤労できない傲慢無礼無為徒食利己他害拝金冷酷非道強盗犯ユダヤ金融外資に売り渡す」
    破廉恥詐欺師泥棒天国の実現なのである。
    自由主義とか資本主義とか、全部、エデンの蛇ルシファーと同体の造物主ヤハウェ・エホバ・太陽神ラーが、
    ひとびとを耳触りの良い口先だけの巧言令色契約でだまして身体ごと魂を天国という名の地獄へ送り込む、
    生きている魂すなわち生霊魂(いくたま)の奴隷売買契約詐欺なのだ。

    武士道仏国土日本人全国武士も特攻隊も幣原喜重郎も吉田茂も岸信介も佐藤栄作も田中角栄も安倍総理も、
    全員が悪魔一神教政教一致カルトの侵略攻撃を武士道すなわち無我無畏無門の仏法で笑って跳ね返してきたが、
    長きにわたって戦っていれば心迷って悪魔の軍門に降る者も日本人の中に出てくるけど、
    日本人の両親に抱かれ言霊で育てられた三つ子の大和魂で全員必ず迷いから覚めて、
    世界じゅう万国万人に平和と勤労と団欒を不惜身命親身親切に自分の手で配ってまわって、
    必ず地球全部を平和な親しき笑顔に満ちた仏国土にしてくれるから心配ない。
    平常心で静かに笑って静観しましょう、日本人らしく清く正しくあわてず騒がず。

    そして足元を見つめ照顧脚下していま日本と世界に必要なことを速やかに躊躇なく行いましょう。
    それは放送法と消費税法の2法を一括で廃止することです。
    考える必要は皆無です、ただ行うのみ。ブルースリー「考えるな、感じろ」
    なぜなら、この2つの法律は日本国憲法前文と最高法規98条の条規に真っ向から反する、
    がちがちの国民主権侵害基本的人権侵害現行犯の地球と人類を腐らせる違憲立法だからです。

    日本国憲法の司法
    「罪を憎んで人を憎まず」転輪王裁判
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html

    われらみな武士道日本人らしくただ平常心で前をまっすぐ見つめて、
    粛々と放送法を廃止し且つ消費税法を同時に廃止することこそが、
    ご先祖様の言いつけを完全に守るこの世で最も尊い親孝行です。
    父母の恩重きこと天の極まり無きが如し 南無父母恩重経
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/6.html

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  3. 世界中の人に一人残らず宛ててこのメールをご送信ください。
    『南無父母恩重経即ち転輪王大光王仏法即ち七不衰法即ち十七条憲法即ち日本国憲法』

    【バフェット】バークシャーが日本の5大総合商社株を大量保有!なぜ投資したのか?!2020年8月31日
    youtube.com/watch?v=RGWOo9u0sxU

    これこそが小泉竹中売国詐欺政権公務員憲法違反汚職内乱罪外患罪NHK政府の最終目標、
    「先祖代々手作り技術が常に同時代世界一優れた日本人の汗を流して築き上げた代々伝える忘己利他の財産を、
    怠惰無能で勤労できない傲慢無礼無為徒食利己他害拝金冷酷非道強盗犯ユダヤ金融外資に売り渡す」
    破廉恥詐欺師泥棒官僚天国の実現なのである。
    自由主義とか資本主義とか、全部、エデンの蛇ルシファーと同体の造物主ヤハウェ・エホバ・太陽神ラーが、
    ひとびとを耳触りの良い口先だけの巧言令色契約でだまして身体ごと魂を天国という名の地獄へ送り込む、

    生きている魂すなわち生霊魂(いくたま)の奴隷売買契約詐欺なのだ。

    武士道仏国土日本人全国武士も特攻隊も幣原喜重郎も吉田茂も岸信介も佐藤栄作も田中角栄も安倍総理も、
    全員が悪魔一神教政教一致カルトの侵略攻撃を武士道すなわち無我無畏無門の仏法で笑って跳ね返してきたが、

    長きにわたって戦っていれば心迷って悪魔の軍門に降る者も日本人の中に出てくるけど、

    日本人の両親に抱かれ言霊で育てられた三つ子の大和魂で全員必ず迷いから覚めて、

    世界じゅう万国万人に平和と勤労と団欒を不惜身命親身親切に自分の手で配ってまわって、

    必ず地球全部を平和な親しき笑顔に満ちた仏国土にしてくれるから心配ない。

    一刀正伝無刀流一切衆生悉有父母恩の平常心で静かに笑って静観しましょう、日本人らしく清く正しくあわてず騒がず。

    そして足元を見つめ照顧脚下していま日本と世界に必要なことを無畏無我無心に速やかに躊躇なく行いましょう。
    それは放送法と消費税法の2法を一括で廃止することです。
    考える必要は皆無です、ただ行うのみ。ブルースリー「考えるな、感じろ」

    なぜなら、この2つの法律は日本国憲法前文と最高法規98条の条規に真っ向から反する、
    がちがちの国民主権侵害基本的人権侵害現行犯として仏法を破り地球と人類を腐らせる、
    無慈悲冷酷ハムラビ法典条規の違憲立法だからです。

    日本国憲法の司法
    「罪を憎んで人を憎まず」転輪王裁判
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html

    この中に、憲法9条と同じ護国防衛の戦いで敵すらも救う転輪王の大慈悲の戦いが説かれています。

    われらみな先祖代々武勇武門の無有無門ムウムモン文武両道無我無畏最勝無敵仏道武士道日本人らしく、
    ただ平常心で前をまっすぐ見あげて、
    粛々と活人剣をふるい敵を傷つけることなく、
    放送法を廃止し且つ消費税法を同時に廃止することこそが、
    ご先祖様の言いつけ「武士道は死ぬことと見つけたり」を完全に守りぬく、
    この世で最も尊い捨身施の感恩行報恩行親孝行です。

    父母の恩重きこと天の極まり無きが如し 南無父母恩重経
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/6.html

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  4. 安倍総理は無知無能な慶応病院をすぐに脱出して消化管救急外科手術にたけた別の大病院へ救急車で転院せよ!
    【安倍首相に再び「吐血情報」持病の潰瘍性大腸炎が悪化か(日刊ゲンダイ)】

    21. 2020年9月11日 18:17:36 : XgpvjPYix6 : ZmpkYW9aZ1I0WUE=[8] 報告
    asyura2.com/20/senkyo275/msg/675.html#c21
    健啖家ぶりとは矛盾しているが、情報が本当だとしたら、潰瘍性大腸炎で、吐血は考えられないので、原因は、別な所にあると思う。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%A1%80#%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%82%84%E7%8A%B6%E6%85%8B
    _______

    25. 豊岳正彦[-5077] lkyKeJCzlUY 2020年9月11日 19:18:28 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-95] 報告
    asyura2.com/20/senkyo275/msg/675.html#c25
    >>21 潰瘍性大腸炎で、吐血は考えられない
    その通りだ。

    吐血は上部消化管外科救急疾患であり、内科で放置すれば死に至る危険な病態である。

    いかに慶応病院の主治医が無能な有害医者であるか、如実にわかるね。

    潰瘍性大腸炎の内科治療で吐血という上部消化管外科救急症状をきたすものは、ステロイドの過剰使用である。

    前回7月の吐血は激務の過大なストレスで胃十二指腸粘膜のどこかで潰瘍を生じた潰瘍出血が考えられるが、軽症の証拠があった。

    少量の吐血だったから安静で収まったが、今回はストレスから解放された辞任表明後の吐血だから、事態は前回とは比べ物にならないほど深刻な重症の吐血と思われる。

    昔脳梗塞初期のゴールデンタイムに慶応病院へ緊急入院した小渕首相が、

    無能な主治医のせいで全脳梗塞にまで重症化されて、

    落とすはずのない命を医者の手で密室で落とされた、

    慶応病院診断無能治療無能の巨大で真っ黒の前科があるから、

    吐血という上部消化管救急外科疾患を発症した安倍さんが、

    このまま無知無能医者だらけの慶応病院にいれば、

    たちまち生命の危険にさらされるのは火を見るより明らかである。

    大急ぎで慶応を脱出して外科手術にたけた救急病院へすぐに転院しなければなるまいよ。

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  5. 【桜咲き匂う大和魂不惜身命拈華微笑捨身施菩薩武士道】
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/102.html
    安倍首相【演説】涙腺崩壊「君たちは日本の誇りです」安倍総理が熱くスピーチ!自衛隊 防衛大学校 卒業式 2018年3月20日-侍News
    youtube.com/watch?v=UCoU_IRM62Q
    _______安倍さんの桜咲く大和魂あふれる名演説です。
    【日露戦争】世界に衝撃を与えた乃木希典の武士道!「水師営の会見」とは!【学校では教わらない歴史#12】【明治維新・明治天皇・日英同盟・大東亜戦争・太平洋戦争・靖国神社】
    youtube.com/watch?v=pfWzG9rUFqU

    はりーさん、武士道の動画ありがとうございます。
    武士道は人のために自分の仕事を命を懸けてやり遂げる不退転の勇気にあふれた無我の魂です。
    明治天皇の電報は山岡鉄舟居士が明治天皇に近習として仕えていた間に天皇に命を捨ててお伝えした天下のご政道すなわち武士道です。
    武士道は江戸時代上杉鷹山公が民の父母の大慈悲の徳を以て米沢藩を立て直したときに修身という目にみえる自己研鑽の努力となって現れて、
    日本中の武士と四民が上杉鷹山公を鑑として仰ぎ見ておのれを克己修身する武士道に勇猛邁進しました。
    それが忘己利他の報恩感恩菩薩行の親孝行と親身親切を一生涯尽くす徳を積んで仏道成就することと不二でありました。
    山岡鉄舟無刀流開祖高歩大居士が口話した「武士道」(国立国会図書館デジタルコレクション収載)に、
    鉄舟先生が鉄舟の武士道は父母恩重経の悟りと不二であると述べておられます。ぜひご一読のほど何卒お願い申し上げます。豊岳拝
    追伸:台東区谷中の普門山全生庵(ふもんざんぜんしょうあん)は鉄舟先生ご開山の禅寺です。一度ご参禅ください。
    _______

    山岡鉄舟先生の薫陶を受けた無刀流武士道直系弟子武士のお一人が自衛隊の五省をしたためました。
    呉市江田島の旧海軍兵学校現海上自衛隊江田島幹部候補生学校校舎に掲げられています。
    自衛隊が山岡鉄舟先生の武士道を脈々と受け継いでおります。
    五省
    一、至誠しせいに悖もとる勿なかりしか
    真心に反する点はなかったか
    一、言行げんこうに恥はづる勿なかりしか
    言動に恥ずかしい点はなかったか
    一、氣力きりょくに缺かくる勿なかりしか
    精神力は十分であったか
    一、努力どりょくに憾うらみ勿なかりしか
    十分に努力したか
    一、不精ぶしょうに亘わたる勿なかりしか
    最後まで十分に取り組んだか

    _______

    乃木大将が水師営でステッセル将軍に心から贈った武士道は、「武士の情け」と「武士は相身互い」です。
    これが山岡鉄舟先生が武士道で義疏した父母恩重経の感恩報恩仏心菩薩道であります。
    昨日の敵は今日の友。この言葉を生んだのは武士道の忘己利他の仏心「武士の情け」です。
    東日本大震災で無一物になった被災者の人たちが自分のことよりも人のために手を尽くし互いに思いやりあってともに難局を切り抜けた「情けは人の為ならず」も武士道仏心の言葉です。

    日本人はつねに花を歌って微笑んで手を取り合うのです。
    日本人は花薫る武士道民族ですね、先祖代々子々孫々。
    _______

    水師営講和も大和魂特攻隊も平和憲法自衛隊も東日本大震災の被災者和合もそのほかもすべて、
    「和を以て貴しとなし、篤く三宝を敬え」聖徳太子十七条憲法の教えの通りです。
    桜咲く自衛隊は日本国憲法第九条に完全に合憲です。
    なぜなら山岡先生「五省」武士道の無刀流は決して刀で相手を傷つけず心を以て勝ちを収める、
    「和を以て貴しとする「殺すなかれ」の仏様の教え「拈華微笑」そのものだからです。
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html
    ___
    医道即武士道なり
    【医者の本分は命の危機から
    「鬼手仏心で己の仕事診断と治療に不惜身命専念して」
    病人を治し国を救いだすこと】
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-1f02ca.html
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/102.html
    新型コロナと闘う沖縄の異色医師【報道特集】
    youtube.com/watch?v=NHT2EJSk_lM

    もともとコロナウイルス感染症で突然死に気を付けるべき病態はウイルス性急性心筋炎であるから、それだけは忘れないように。
    ECMOを導入すれば乳幼児や担病者や後期高齢者などには侵襲が大きすぎる危険性を考えて、
    やみくもにECMOを導入して医原性死亡を招くことがないように。
    日和見感染は必ず起こるので抗生剤の短期集中投与は必ず併用する。
    生食にメイロンとビタミンCビタミンB大量を加えて高濃度ビタミン液を水分総量に注意しながら持続点滴する。
    メイロンはビタミンC注射液の血管痛を軽減する目的で加えるので、痛みの程度を聞いて量を加減する。

    病院内も病院外も三密禁止は何の役にも立たないので、そちらに手間暇を奪われてコロナ心筋炎を見逃さぬよう。
    PCRは診断に役に立たないばかりか、無用な魔女狩りの混乱を社会に引き起こすので、
    体外分泌物を擦過抽出して検体に用いるin vitro迅速検査とPCRは絶対禁止とする。

    もともと塩を利かせてお茶を多分に常用する日本の風土と衣食住はウイルス感染に対して非常に強いので、
    科学検査AI万能妄想にとらわれた無知な医者が己を知らずに余計なことを言って、
    無駄に感染死の恐怖をでっちあげて社会をパニックに貶めてはならない。
    たとえ自分が感染死しても必ず患者を救うというのが、
    野口英世博士が命を捨ててこの世に打ち立てた日本人西洋医学医者の武士道である。
    今は重症のウイルス性心筋炎を見逃さないことに特化して、
    救急救命医の本分を守って病院を一歩も出ずに、
    コロナウイルス感染症患者さんの入院治療に24時間全身全霊注力せよ。

    故郷の人々を脅かす見えない外敵の侵入に対しては、
    普段から高給をいただいている医者が真っ先に母国と家族婦女子を守るために、
    拈華微笑し勇躍ウイルスの真中へ報恩特攻をかけて自ら国の盾となって日本を護れ、
    活き仏医王大和魂桜咲く花の武士たちよ。
    或いはもし散華したのちはいざともに国を安んじて桜花咲く靖国で相まみえん。
    _______
    転輪王護国の戦(仏教聖典)
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html
    正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、
    正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。

     それは、第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。
    自分は武力をもって民の苦しみを救おう。
     第二には、もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。
     第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。

    王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。
     このようにするとき、兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、
    また戦いの性質をさとって王を助け、そして
    王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、王の恩に報いるために戦いに従うから、
    その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。
    _______
    医道すなわち仏道なり。南無父母恩重経

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  6. Windows 10 版のメールから送信

    【LIVE】新代表選出 自民党総裁選挙

    FNNプライムオンライン

    youtube.com/watch?v=qfVthQzXDpQ&lc=UgzVr3YGlBH_7Rvyllp4AaABAg.9D_QPq0bhIs9D_yPkT47vS

    豊岳正彦

    1 秒前

    海底トンネル建設工事の最適任施工者は麻生建設です。他はその任に堪えられないでしょう。麻生建設以外のJVでは高品質低コストが達成できないから。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    これはかつての水師営で見られた二人の忠義な武士同士の阿吽の以心伝心と同じです。

    よってプーチン大統領という武士道武士と菅新総裁明日の新総理武士道武士の間にはすでに以心伝心がありますので、北方領土返還問題の議論中に海底パイプライン建設が遅滞なく進展するでしょう平和裡に。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    3 分前(編集済み)

    安宅関の武蔵坊弁慶と関守富樫政親武士同士相身互い武士の情けの阿吽の呼吸以心伝心です。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    フリーさん

    菅さんが先日消費税増税を口にしてすぐに撤回した理由は、安倍さんがコロナ不況の下で本心から消費税凍結を考えていたからです。安倍さんがやり残したことをどうして菅さんがやり遂げないでいられるでしょうか、いや必ずやりとげてくれるでしょう。これが安倍さんから菅さんへの阿吽の呼吸の以心伝心です。安宅関ですね。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    5 時間前(編集済み)

    まずコロナ対策として消費税徴収を来年度終了まで1年半ほどゼロ凍結するだろう。

    民のかまどがこれで1年以内にGDP10倍増まで急速に回復するから、

    不公平税制のふるさと納税も廃止できるよ。

    もちろん税収増加後は消費税を永久廃止できる。



    6





    フリー

    注目の返信

    フリー

    20 分前(編集済み)

    むしろ消費税は増えるかもしれ無くない?コロナ対策でいっぱい金使ったから。少なくともどこか増税されても仕方ないと思う。消費税減税は無いと思うなぁ







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 日前(編集済み)

    NHKは非営利のNHKじゃなくなってJBCというただの営利株式会社になり下がっているから、

    NHKあらためJBC社屋内に韓国と中国の国営テレビが同居して国家機密情報が駄々洩れだし、

    放送法も総理権限で廃止廃法するでしょう。

    仏教聖典の中でお釈迦さまもおっしゃっておられる通り、

    自宅の部屋の中から毒蛇を追い出して安眠できるようにするのは万人が選ぶ道である。





    豊岳正彦

    6 時間前

    山本太郎さんは防衛大臣を経験してからじゃないと総理大臣にはなれないね。

    東京都知事にはなれるだろうけど、国際的に通用しないよ。

    河野太郎さんは外務大臣で台湾国を世界平和を堅持しながら承認できる段取りをつけたら総理大臣当確でしょう。





    豊岳正彦

    5 時間前

    軍曹あしだかさん、塩水とほうじ茶でコロナはほぼ完封できるよ。三密は無関係だし有害無益。

    ただしコロナはウイルス性心筋炎に特段に注意することが大事だね。



    1



    豊岳正彦

    5 時間前

    菅総理の最初の内政は内閣人事局の初志貫徹改革断行である。

    _______________________________



    菅総理大臣誕生が抱える政権崩壊の弱点。菅首相なら安倍政権以上の強権的政治になるが、大きなリスクも抱えている。元朝日新聞記者ジャーナリスト烏賀陽弘道と一月万冊清水有高。

    youtube.com/watch?v=G4NotE4hcFM&pp=wgIECgIIAQ%3D%3D



    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    藤井二冠の手を前もって読める記者も棋士もいないのと同じことです。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    政治家がマスコミに行動を先読みされることなどありえませんよ。先読みされる程度の人は政治家になれないです。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    今日の朝日新聞の人は人を見る目が少し弱すぎるようですね。なんだか何も見えていないようです。

    石破さんも重要な役職に就きますよ、対中外交の。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    戦後日本に蔓延する三流政治日本病の病原菌はまさに泥棒官僚天国に巣くう官僚ども全員だからね。菅さんは戦後最高の名医だから病巣を完全に除去して日本病を完治させることができるでしょうわずか一年足らずの短期間で。

    解散総選挙は根治手術が完了するまで絶対にありませんよ。半年で手術がすんだら半年で解散するだろうけどね。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    官僚は三権で最下位の公務員だから第一位立法府衆議院議員総理大臣が言うことは一言一句たがえずに確実に行政執行する仕事に滅私奉公せよと憲法が定めていますからね。官僚ごときが国の政治をうんぬんしてはなりません。憲政の鉄則だからね。







    豊岳正彦

    豊岳正彦

    1 秒前

    菅さんはまず内閣人事局を徹底的に改革して創設時の初志を貫徹するでしょう。

    そのうえで来年の総裁任期期限切れいっぱいまで内政を徹底的に行政改革断行するでしょう。

    よって衆院解散はありませんね。

    安倍さんが総理をやめた今いま日本で一番仕事ができる政治家は菅さんだけですからね。


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  7. 【河野太郎のLIVE配信】河野太郎と語ろう
    youtube.com/watch?v=o4JfdPqIEvo
    2020/08/23 にライブ配信済み動画へ9月20日21日投稿しました。
    (新しい順)
    豊岳正彦
    1 秒前
    以上の行革要点情報をすべて、
    沖縄県知事玉城デニーさんへも速やかにお伝えください。
    私も試みますが、民間人なので連絡に時間がかかりそうですから。

    1 秒前
    未開で何の学識もない遺伝学者が厚労省医政局で束になって、
    コロナ感染症の診断に、
    全例遺伝子解析PCR検査を高価な費用をいとわず国庫から莫大な金を出して国民全員に
    定期的に繰り返し検査を強制せよ、と、
    国庫に莫大な損害を与える診断不能のPCRを国政に持ち込んで、
    国家予算から何兆円もだまし取ろうとしていますね。
    つまり、コロナ対策の最大の急所は、
    嘘八百遺伝子学ばかりわめきたてている現在の日本厚労省医政局官僚を全員首にすることです。
    これこそ行革担当大臣のまさに喫緊の職責ですね。
    菅総理に総理裁量で厚労省医政局を緊急閉鎖予算執行停止させてもらって、
    河野行革大臣自ら医政局官僚全員解雇して、
    医系技官を大学医局人事を完全に離れた現場のベテラン臨床医師と全員入れ替えてください。
    これで国内のコロナパンデミック完封対策は完璧です。


    1 秒前
    彦は日子です。
    女王卑弥呼は日巫女です。
    七夕の牽牛と織女は彦星と織姫星。
    日巫女が日めのこ(女の子)となって日女となりひめと読みます。
    よって七夕では彦星と織姫と呼ばれます。
    姫という字は女の臣と書きます。
    彦が神様で男なら、姫は男神様の内助の功を尽くす女性、
    いわゆる王に最も近い女房の臣下という意味で、
    これが彦と姫の言霊ですね。

    卑弥呼は天皇にあたる女王の地位につきました。
    中国五千年で女性の皇帝は唐の則天武后ただひとりですが、
    日本では天照大神の神話時代から奈良時代の終わりまで女性天皇は日常茶飯事でした。
    Y遺伝子など大和民族の日本国にとっては何の関係もない話ですよ。
    電子顕微鏡が世に出てきて初めて遺伝子学というちっぽけで未開の怪しげなジャンルができたのです。
    遺伝子学者のたわごとなど一片の信頼にも値しませんね。
    無視しましょう。

    8 時間前
    今度の内閣で沖縄担当大臣におなりですが、日本人は自分のことより他人のことを思いやる大和魂民族なので、尖閣問題よりも台湾独立問題を、決して戦争にならないように、沖縄担当大臣として丁寧に日台民間交流と民間相互支援の充実を図りながら交渉して戦争を防いでください。太郎さんならおできになれます、為せば成るの武士の魂で。

    8 時間前
    自衛隊装備増強には経費が掛かります。放送法を廃止すれば、NHKがマイナンバーで国民の知らぬうちに個人口座や国庫から抜き取っている受信料30兆円余りが真水で国庫に戻ってくるので、それを自衛隊国土防衛装備増強の原資にすればよいです。どうせ知らぬ間に盗まれても生活できるだけの勤勉な国民社会ですから、放送法廃止するだけで新たな国民負担を求める必要は全くないまま自衛隊装備を高度に充実できます。


    9 時間前
    女性には妊娠出産というこの世を保つために最も大切な役割がありますので、決して男と同じ不眠不休の過酷任務に従事させてはなりません。
    自衛隊に限らずどんな企業でもどんな職場でも同じです。
    あなたは自分の母親に軍人になって出征して戦闘してほしいと思いますか。そういうことです。
    戦場に保育園は作れないし。


    9 時間前(編集済み)
    俳優やタレントじゃないんだから質問に答えるのもほどほどにね。このライブ放送程度がちょうどよいですね。
    質問へ回答する節度が十分に保たれていて感服しました。


    9 時間前
    もともと日本人は本人の人格を問題にして、血縁が重要とは全然思っていませんからね。


    9 時間前
    男系天皇は側室を何人も持っていた時代の話だから、太郎さんの言う通り女系も即位できるとすればよいですね。
    日本が歴史上世界で一番女性天皇が多いという伝統があります。


    9 時間前
    太郎より男の子の名前にいい文字は、
    彦でしょう(笑い)日本の男の神様の名前だから。


    9 時間前
    ふるさと納税は、消費税の過酷負担からの緊急避難だから、消費税を全廃するまでの期間だけ有効に機能しますので、税負担の公平の観点から、ふるさと納税の廃止は消費税法廃止と同時一括で行われます。


    9 時間前
    共産主義も自由主義も主義が何であろうとみな同じ親があって生まれてきた人間が行為していることを忘れてはなりません。

    9 時間前
    自衛隊入隊後の就職はすでにいろいろな資格免許を取得しているので新卒ではなく有資格技術者としての採用を企業に対して求めなければなりません。

    9 時間前
    飛行機の背面降下では降下中無重力になるので、背面飛行で上になった下肢に血液を集めて、下肢の太い筋肉の筋収縮の力で心臓のポンプ作用を補完して、血流の全身循環を確保するためです。ブラックアウトを防止します。

    9 時間前
    河野さん,加来浩器防衛医大教授先生を全世界派遣海外医療援助自衛隊の総司令長官に任命して、
    皮内接種ワクチンと、
    ほうじ茶とみそ梅干し塩分強化発酵食品と、
    水溶性ビタミンB,Cおよびメイロンと生食、抗生物質で世界中のコロナを退治してあげてください。
    義を見てせざるは勇無きなり、山岡鉄舟先生武士道が自衛隊五省です。

    10 時間前
    安倍武士道平和外交大国主命内閣と菅武士道平和内政少彦男命内閣
    豊岳正彦の巖國豐嶽醫王第六坊
    blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/2aa6349d5852c6ec91d062ac32aceb43

    菅義偉総理は東北は秋田県の生まれで、
    幼少の時から隣の山形県米沢市に坐します上杉鷹山公の、
    民の父母伝国の辞仁徳修身政治の薫陶を三つ子の魂に、
    ご両親から躾で手から手へ伝えられはぐくまれた、
    大和魂忘己利他捨身施菩薩道武士の鑑かがみであられる。

    安倍晋三前総理はご先祖を東北の海人族統領安倍氏にいただく、
    大国主命と同じご先祖の大和魂文武二道の名人、
    東漢坂東武者の直系ご子孫であられる。

    大国主命と少彦男命が二人三脚で全国と海外を巡り歩いて、
    葦原瑞穂の大和嶋秋津国を手を合わせ力を合わせてこの世に築き上げたのである。
    これが東北地方に最も出雲大社が多いゆえんであり、
    東北の方言である東北弁と出雲の方言の出雲弁が言語学上現代においても同一であるゆえんでもある。

    安倍内閣と菅内閣が力を合わせて二人三脚で、
    現世に豊葦原瑞穂の大和嶋秋津の国を作り上げる大事業を、
    大和民族の最勝無敵無上の和魂ニギミタマをもって、
    必ずや成し遂げ玉いなさるでありましょう。

    島根県出雲市の雲太出雲大社本殿の後ろ正面に小ぶりのやしろが祭祀られており、
    主祭神おんみずから素鵞神社と名乗っておられて、
    用明天皇聖徳太子天武天皇文武天皇聖武天皇弓削道鏡菅原道真公弘法大師空海尊者を一族男系子孫に輩出した蘇我氏の、
    大和秋津嶋における氏姓発祥の本地であることからも、

    オオクニヌシとスクナビコナのお二人の尊ミコトの国見と国造りが、
    およそ五千年以上の日月光陰を経て、
    ふたたび始まったことがわかるのである。

    南無父母恩重経
    南無三宝

    補追
    大国主命→→武内宿祢↑(我蘇る)倭の五王讃珍済興武(武はワカタケル雄略天皇)武烈天皇→↑(再び我蘇る)用明天皇聖徳法皇大王天武天皇文武天皇聖武天皇弓削道鏡菅原道真弘法大師空海と仏天子仏教徒系譜がつづいてるのである。
    ちなみに平清盛はペルシャ系の母を持つペルシャ系仏天子ご落胤である。 

    大国主以前の蘇我氏系譜は任那王ローマ羅馬市民ペルシャ王族とさらに釈尊在世時以前までさかのぼって行けるね。
    聖徳太子すなわち久留米の紀氏王朝タリシホコ大王を生んだのは用明天皇と結婚した大分の満野長者一人娘般若姫である。
    山口県柳井市室積半島の山上に般若皇后陵墓と菩提寺真言宗御室派般若寺が用明天皇と弘法大師によって創建された。

    大分県国東半島にある奇祭ケベス祭りは古代ギリシャ神話時代の祭りであり、おそらくシルクロード経由で朝鮮半島を経由せず大分へ渡来したと考えられる。

    ニチユ同祖論には穴が多すぎる。
    徳島県剣山と諏訪神社との間が日ユ同祖であることは確実だが局所的である。
    徐福と秦氏はペルシャからイスラエルへ入植した可能性が高い。
    楊貴妃と同じ景教徒らしさが見受けられるから。
    日本にはユダヤ系よりもペルシャ系渡来民のほうが多数派である。
    ユダヤ教一神教は異教徒を排斥して政教一致のカルト政治するが、
    ペルシャ系仏教徒は異教徒を受容して政教分離で政治するからである。
    ペルシャとユダヤでは、先に仏教徒ペルシャ系が渡来して朝廷に入った故に、
    後にユダヤ教徒が渡来した時仏戒に従って排斥せず領地を与えたと考える。
    日本と世界をあわせた地球の歴史を、
    真理と真実からはるか遠くに偏差した学校教科書を読まずに、
    お経すなわち仏教聖典などに従って無心に虚心坦懐に読めば、
    宇宙の真理と真実の因果すなわち因縁がよくわかるのである。

    皆さん仏教聖典をはじめ、
    戦前生まれの日本人が明治以前の正しい仏教言霊日本語で書き著した多くの日本語仏典書籍を、
    青空文庫で大いに電気代以外無料で読みましょう、例えば新見南吉とか(笑い)

    ここではロシアの文豪レフ・トルストイが仏教に帰依して書いた生涯最高傑作「イワンのばか」を、
    菊池寛が江戸の正しい言霊で訳したものをご紹介します。
    そのページの中に青空文庫のアドレスがあります。

    青空文庫菊池寛訳「イワンのばか」レフ・トルストイ
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-e861.html




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  8. 【菅義偉総理大臣もJFKも山岡鉄舟報恩武士道至誠菩薩の師上杉鷹山公に心服する仏弟子である】
    行き過ぎた“官邸主導”の弊害【報道特集】
    youtube.com/watch?v=nNCO0KPI0ow&lc=UgwvfappWZWwBlVW0kR4AaABAg.9DorA5F2gSM9Dss5O-gySP
    豊岳正彦
    1 日前
    官僚とか公務員を裁判にかけるより、あっさり首にするほうがはるかに低コストで完全除去できるからね。
    コストパフォーマンスがわかっている人が仕事ができる人だよ、世界中万人が認める真理だ。

    注目の返信
    Kazhi 6
    5 時間前
    そうね、魔女裁判はいつも正しいもんからね。
    だって、真実なんていらないもんね。

    豊岳正彦がKazhi 6へ返信
    3 時間前(編集済み)

    魔女裁判は、
    政教一致カルト一神教政権の下で行われる、
    「人を憎んで罪を憎まず」冷酷無慈悲ハムラビ法典冤罪裁判のことです。

    魔女という罪人のレッテルを貼り付けて官憲が狩り捕えた人の体を、
    「目には目を、歯には歯を」の無道な言いがかりで切り刻む、
    過失であろうと故意であろうとお構いなしにただ人を切り刻んで痛めつけて十字架の上につるし上げ、
    民衆の面前で「火炙り」にかけ公開の見せしめに焼き殺すことだけが目的ですね。

    明治22年政教一致天皇現人神一神教建国大日本帝国が昭和20年8月15日無条件降伏の玉音放送した後、
    フィリピンロッジロックフェラーフリーメーソンマッカーサーが母国日本の国土に乗り込んできて、
    明治のロックフェラーフリーメーソンジョン万次郎創建開学東大法学部卒を集めて作った最高裁という戦後奇形司法が、
    GHQのWGIPのもとで、
    これもマッカーサーの肝いりでCIAが作った占領統治CIAプロパガンダ放送局NHKの命令通りに東大話法で、
    「罪を憎んで人を憎まず」の転輪王裁判政教分離仏法司法日本国憲法にすべて違反する公務執行汚職しながら、
    法務省司法官僚公務員全体一致で司法公務員汚職100%冤罪東大話法奇形司法政教一致カルト「魔女狩り裁判」を、
    現代地球上で唯一日本政府法務省東大話法「過失有罪」奇形司法だけが破廉恥に戦後75年間続けていますね。
    日本国政府三権第二位司法府最高裁は地上最低人類史上最悪の中世暗黒無法無道「魔女狩り火炙り」裁判所です。
    事実上真実の最低裁判所ですね。

    日本人法務省官僚と法務省公務員を全員首にして、
    これ以上公務員の身分で冤罪魔女狩り暗黒奇形司法裁判執行する罪を犯さないように、
    その身を特別司法公務員汚職の重罪から守ってやらねば、
    司法公務員の故郷で暮らす母親兄弟家族がみな悲しむことになりかねませんから、
    GHQのWGIPに騙されて奇形司法無法無道公務執行してきた「過失」を「故意ではない」として、
    これまでの公務員汚職の罪は過失無罪として刑事責任一切不問にして、
    ただ公務員職を懲戒で辞めさせる行政処分だけで公務員職から罷免してやれば、

    本人は、
    公民権停止5年間だけで両親からもらった五体無事で元気に、
    母国最高法規日本国憲法が万国万人平等に保障する基本的人権のもと、
    母国内のどこであれ母国外であれ、民間の自由人として起業も就職も個人の自由意志で何でもできますからね。

    これがJFKと菅義偉総理大臣が両親からもらった六尺の体に宿る魂で尊敬する、
    三宝帰依忘己利他捨身施武士道成等正覚「民の父母」上杉鷹山公の、
    伝国の辞政教分離大光王転輪王仏法言霊「罪を憎んで人を憎まず」です。

    南無父母恩重経
    南無悪人正機成等正覚聖徳太子親鸞上人阿弥陀如来 
    南無山岡鉄舟高歩無刀流活人剣術極意大居士不可思議解脱不二成等正覚維摩仏
    南無三世十方一切諸仏諸尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜

    返信削除
  9. 【菅義偉総理大臣もJFKも山岡鉄舟報恩武士道至誠菩薩の師上杉鷹山公に心服する仏弟子である】
    blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/29f5a549330b5e28fee37db42683ed01
    行き過ぎた“官邸主導”の弊害【報道特集】
    youtube.com/watch?v=nNCO0KPI0ow&lc=UgwvfappWZWwBlVW0kR4AaABAg.9DorA5F2gSM9Dss5O-gySP
    豊岳正彦
    1 日前
    官僚とか公務員を裁判にかけるより、あっさり首にするほうがはるかに低コストで完全除去できるからね。
    コストパフォーマンスがわかっている人が仕事ができる人だよ、世界中万人が認める真理だ。

    注目の返信
    Kazhi 6
    5 時間前
    そうね、魔女裁判はいつも正しいもんからね。
    だって、真実なんていらないもんね。

    豊岳正彦がKazhi 6へ返信
    3 時間前(編集済み)

    魔女裁判は、
    政教一致カルト一神教政権の下で行われる、
    「人を憎んで罪を憎まず」冷酷無慈悲ハムラビ法典冤罪裁判のことです。

    魔女という罪人のレッテルを貼り付けて官憲が狩り捕えた人の体を、
    「目には目を、歯には歯を」の無道な言いがかりで切り刻む、
    過失であろうと故意であろうとお構いなしにただ人を切り刻んで痛めつけて十字架の上につるし上げ、
    民衆の面前で「火炙り」にかけ公開の見せしめに焼き殺すことだけが目的ですね。

    明治22年政教一致天皇現人神一神教建国大日本帝国が昭和20年8月15日無条件降伏の玉音放送した後、
    フィリピンロッジロックフェラーフリーメーソンマッカーサーが母国日本の国土に乗り込んできて、
    明治のロックフェラーフリーメーソンジョン万次郎創建開学東大法学部卒を集めて作った最高裁という戦後奇形司法が、

    GHQのWGIPのもとで、

    これもマッカーサーの肝いりでCIAが作った占領統治CIAプロパガンダ放送局NHKの命令通りに東大話法で、
    「罪を憎んで人を憎まず」の転輪王裁判政教分離仏法司法日本国憲法にすべて違反する公務執行汚職しながら、
    法務省司法官僚公務員全体一致で司法公務員汚職100%冤罪東大話法奇形司法政教一致カルト「魔女狩り裁判」を、
    現代地球上で唯一日本政府法務省東大話法「過失有罪」奇形司法だけが破廉恥に戦後75年間続けていますね。

    日本国政府三権第二位司法府最高裁は地上最低人類史上最悪の、
    中世暗黒無知無法無道「魔女狩り火炙り」100%冤罪悪魔黒魔術奇形司法詭弁司法偽計冤罪裁判所です。
    事実上真実にこの世の最低裁判所ですね。

    日本人法務省官僚と法務省公務員を全員首にして、
    これ以上公務員の身分で冤罪魔女狩り暗黒奇形司法裁判執行する罪を犯さないように、
    その身を特別司法公務員汚職の重罪から守ってやらねば、
    司法公務員の故郷で暮らす母親兄弟家族がみな悲しむことになりかねませんから、
    GHQのWGIPに騙されて奇形司法無法無道公務執行してきた「過失」を「故意ではない」として、
    これまでの公務員汚職の罪は過失無罪として刑事責任一切不問にして、
    ただ公務員職を懲戒で辞めさせる行政処分だけで公務員職から罷免してやれば、

    本人は、
    公民権停止5年間だけで両親からもらった五体無事で元気に、
    母国最高法規日本国憲法が万国万人平等に保障する基本的人権のもと、
    母国内のどこであれ母国外であれ、民間の自由人として起業も就職も個人の自由意志で何でもできますからね。
    ふるさとの母父家族同朋がみな誇りに思う報恩で飾る錦を自分の手で織り上げることができます。

    これがJFKと菅義偉総理大臣が両親からもらった六尺の体に宿る魂で尊敬する、
    三宝帰依忘己利他捨身施報恩武士道成等正覚「民の父母」上杉鷹山公の、
    伝国の辞政教分離大光王転輪王仏法言霊「罪を憎んで人を憎まず」です。

    南無父母恩重経
    南無悪人正機成等正覚聖徳太子親鸞上人阿弥陀如来 
    南無山岡鉄舟高歩無刀流活人剣術極意大居士不可思議解脱不二成等正覚維摩仏
    南無三世十方一切諸仏諸尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜

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  10. 政権を崩壊させる爆弾。安倍晋三前総理と菅義偉総理のアキレス腱!河井克行・案里夫妻事件。元受刑者に聞く刑事裁判の流れ。元博報堂作家本間龍さんと一月万冊清水有高。
    youtube.com/watch?v=_7vxqaME9pM

    豊岳正彦
    11 分前(編集済み)
    日本の東大法学部卒東大話法奇形司法が戦後ずっと冤罪で日本人を殺し続けていることを君らも知ってるはずだけど、
    そんな奇形司法の東大話法を自分の味方にしてものをいうなら、君らも奇形司法の一味同心になってしまうよ。
    お釈迦さまも自分より心が劣ったものと道連れになってはいけないとおっしゃった。
    弁護士は全員東大法学部卒東大話法奇形司法が選抜する司法試験合格後に、司法修習で判検癒着してできていることを忘れちゃいかんよ。
    広島地検が河井夫妻だけを起訴して金を受け取ったほうを全員不起訴にしたこと自体、
    ロッキード事件、高知白バイ自爆事故バス運転手業務上過失致死有罪冤罪事件と全く馬鹿の一つ覚えの同一構図の、
    検察裁判所判検癒着談合法務省憲法違反人質司法テロクーデターと同じだということに気が付かないのが、
    聡明な大和魂を受け継いだ清水君としてはちょっと残念な感じがするよ。

    縦割り110番して、法務省を根っこから改革する必要があるね。
    まず最高裁の東大法学部卒はじめ最高裁判事全員総理の行政判断で全員首にして、
    若くて正義感が強い地裁判事を抜擢して総入れ替えしてから、
    検察庁も全員首で検事全員総入れ替えすることだね。

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  11. 「行革はまず放送法即時廃止と消費税法廃止もしくは凍結から」
    UKバズビーさんは大げさだらけ言うサギシでねーか?
    youtube.com/watch?v=Z9VyOxl6lg4&t=5s
    豊岳正彦2 時間前(編集済み)

    カールさんいつも日本の国で日本人のためにお心遣いいただき日本人同朋兄弟家族同然に粉骨砕身いただきまして衷心より厚くお礼申し上げます。
    東大卒原子力村保安院は戦後ABCCがそのまま東大卒731部隊を接収移行し、その後偽装して原子力村とミドリ十字に変身して、
    戦後75年ずっと東大卒奇形司法と共犯で冤罪と医薬品偽装毒薬で日本人を殺してきました。
    311でも東大卒原子力村保安院は「原発爆発で大気中に拡散した原子炉生成核物質は無主物だから東電には放射能被害を賠償する責任は1ミリもない」という破廉恥極まる奇形司法違憲判決で、
    東大卒GHQNHKの指揮下で日本国憲法違反内乱罪共謀共同正犯現行犯国民無差別殺害放能テロ実行犯に成り下がっています。
    東大卒中部大学教授武田邦彦氏の2012年長周新聞論説「善良でなかった日本の指導者」をお読みください。
    c3plamo.ddns.net/blog/archives/2012/01/post_2275.html
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/2012-f6e7.html
    _______
    政権を崩壊させる爆弾。安倍晋三前総理と菅義偉総理のアキレス腱!河井克行・案里夫妻事件。元受刑者に聞く刑事裁判の流れ。元博報堂作家本間龍さんと一月万冊清水有高。
    youtube.com/watch?v=_7vxqaME9pM
    豊岳正彦11 分前(編集済み)

    日本の東大法学部卒東大話法奇形司法が戦後ずっと冤罪で日本人を殺し続けていることを君らも知ってるはずだけど、
    そんな奇形司法の東大話法を自分の味方にしてものをいうなら、君らも奇形司法の一味同心になってしまうよ。
    お釈迦さまも自分より心が劣ったものと道連れになってはいけないとおっしゃった。
    弁護士は全員東大法学部卒東大話法奇形司法が選抜する司法試験合格後に、司法修習で判検癒着してできていることを忘れちゃいかんよ。
    広島地検が河井夫妻だけを起訴して金を受け取ったほうを全員不起訴にしたこと自体、
    ロッキード事件、高知白バイ自爆事故バス運転手業務上過失致死有罪冤罪事件と全く馬鹿の一つ覚えの同一構図の、
    検察裁判所判検癒着談合法務省憲法違反人質司法テロクーデターと同じだということに気が付かないのが、
    聡明な大和魂を受け継いだ清水君としてはちょっと残念な感じがするよ。

    縦割り110番して、法務省を根っこから行政改革する必要があるね。
    youtube.com/watch?v=o4JfdPqIEvo
    まず最高裁の東大法学部卒はじめ最高裁判事全員総理の行政判断で全員首にして、
    若くて正義感が強い地裁判事を抜擢して総入れ替えしてから、
    検察庁も全員首で検事全員総入れ替えすることだね。
    法務省は河野太郎さん前任の防衛省のような現場経験中心の任官体制へ改革する必要がある。
    なぜなら犯罪から社会を警察技術で防衛する役割が法務省だから。
    _______________

    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-4d1a.html

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  12. 「縦割り110番へ消費税法廃止放送法廃止」
    【政治】少子化の本当の原因とは!? 少子化社会対策白書について
    youtube.com/watch?v=H8-Nvruer5Y&t=1s
    豊岳正彦
    1 日前(編集済み)
    少子化の本当の原因は消費税である。
    竹下内閣で消費税導入してから医療費の増大とNHKの横暴と生活の困窮と学歴格差社会が貧富格差に直結して増大した。
    若い人の収入すなわち可処分所得が減れば貯金もできず結婚に踏み切れない人が増えるのは当然である。
    ゆえに、まず消費税法を国会で全廃することが絶対命題であるが、
    とりあえず総理のコロナ緊急事態対応で総理独裁で消費税ゼロ凍結2年間を独裁してよい。
    菅内閣の至上命題は菅さんも知っているけど「消費税法廃止放送法廃止一括総理大臣決済もしくは立法府国会で一括廃止決議」を行うこと。
    しかし必ずしも一括廃止である必要はない。一括廃止には国会開催が必要になる。
    先行して国会無しで総理独裁で放送法だけ廃止するほうが早い。

    マイナンバー法施行以来NHKは人目を避けてひそかに、
    全国民の個人口座から自動引き落としで受信料を抜き取ることが出きるようになった。
    この受信料は一台年間6万円以上だが、
    テレビ電気代やテレビ関連機器代金や電気代で増大して家計を急速に貧困化する。
    ざっと概算してもテレビ一台置いているだけで家計簿から年間12万円が出てゆく。
    半分の6万円は受信料で、
    マイナンバーの口座引き落としでATM手数料すべて個人の口座から自動で銀行がもらっている。
    最近は遠隔操作AI家電の普及でさらに電力消費が上がっているから、
    結局カラーテレビ一台の維持費が年15万円(うち6万円がNHK)となって、
    これだけで4人家族が三泊四日温泉ツアーで御馳走食べて遊べる金額だね。
    遊ばなくても、
    放送法破棄でいままでNHKにだけでもテレビ一台当たり12万円抜かれて、
    スマホやカーナビからも5~6万円抜かれていたのが個人口座に残れば、
    家計簿が断然楽になって、
    家計簿が楽になれば母親兼主婦がいちばん喜ぶ。
    喜べば元気になってきれいになるのが女性である。

    放送法廃止は少子化対策として最も効果がある。
    理由を以下に述べる。
    生活のため電気代を節約すれば主婦はまずテレビを消すからであり、
    テレビがなければ家庭で夫婦が子作りする暇がたっぷりできるからね。
    テレビを見なければ子供はさっさと寝てしまって、いったん寝たら子供は起きないのです。
    大人もテレビを見なければ健康になって体力が男女とも充実するから、
    子供が寝た後は夫婦水入らずでせっせと仲良くできる。
    家庭での夜は大昔から大人の時間なのだ。
    放送法は総務省の行政法だから、
    行政府の長総理大臣の一言で放送法執行凍結即廃止ですなわち受信料ゼロが実現する。
    放送法は戦後憲法以前から存在するがゆえに国会で決められた法律じゃないから、
    総理の一存で廃止できるのだ。
    放送法廃止に国会決議不要です。
    そしてこれが最も迅速で有効な行政コストゼロ少子化対策である。
    実際、世界中どこの国でも停電が続けば夫婦の夜の営みが増えて国中で子供がたくさん生まれるからね。
    自然の摂理です。


    本当の少子化対策には消費税廃止が必要不可欠であるが、
    こちらについても国会で破棄決議せずとも、
    税の徴収は総理の行政判断でゼロ凍結できる。
    2年間の時限行政で消費税ゼロ凍結すればよい。
    これで今年度末までにGDPが5~10倍になる。ほかの理由は別稿で。

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  13. 【大悲報】朝倉未来と激闘の矢地祐介が大原樹里に負けた理由 (ジークンドやめろという声多数)
    youtube.com/watch?v=lfCdFwh-oVM&pp=wgIECgIIAQ%3D%3D

    豊岳正彦
    12 分前(編集済み)
    ジークンドー修得と並行して、
    大相撲不世出の大横綱貴乃花道場でしこを踏めば、
    体幹が完成して無敵になるでしょう。
    朝倉兄弟も相撲で体幹を強くしたのだから。
    SHICORESIZA
    youtube.com/watch?v=EReURWY-7nc

    返信削除
  14. NHKイスラエルモサドの日本民族無差別虐殺略奪専門黒魔術【医は算術】テロ
    【武田邦彦】※信じたくないけど事実です※ 政府は嘘をついている!

    youtube.com/watch?v=I5h67O9P04U&pp=wgIECgIIAQ%3D%3D
    豊岳正彦1 時間前

    内閣人事局で防衛省を除く全省庁の課長級以上の人事を全員懲戒解雇して、一番下から昇進させて総入れ替えする。
    そして今後ウソの統計を国会や大臣に対して出した官僚は全員、
    憲法15条違反公務員汚職の重罪で即現行犯逮捕する旨言い渡して公務に就かせる。
    こうすれば政府統計からウソが無くなるね。
    嘘つきは公務員汚職のうちでもっとも重い刑事犯罪だから、刑法内乱罪相当だからね。
    日本国の統治者は我々勤労納税主権者国民であり、公とは我々主権者国民国王のことである。
    公務とは国王である我々主権者国民に不惜身命全体奉仕する職務のことである。
    現在政府発表統計は防衛省を除き総て100%嘘八百だから、
    防衛省以外の全省庁の上級公務員は全員をニセの統計でウソをついて国民国王を欺いたという汚職の罪で告発できるが、
    とりあえず懲戒解雇して霞ヶ関でこれ以上汚職できないように全員排除して追って沙汰するまで自宅待機とする。


    【武田邦彦】99%の日本人が目を背けている「現代の闇」 今回はそのタブーに触れます。
    youtube.com/watch?v=JWbp4yd6Lh8&lc=z22dxxugpr3rsb2qt04t1aokgaarqihodlaull4s4b00rk0h00410
    豊岳正彦1 時間前(編集済み)

    NHKにだけ全責任があるのです。
    何故ならNHKを作ったのはGHQマッカーサーだから、
    日本国憲法が昭和22年施行された後も米軍治外法権で憲法違反の放送法を振り回して日本の放送を全部指揮下において、
    GHQが東大法学部卒を集めて作った奇形司法最高裁と共謀して日本人を全員婦女子相手に根切りで殺害するために、
    マッカーサーのWGIPをNHKがGHQコードという憲法違反凶器を振るって実行犯の首領に成って犯行し続けているのだからね。
    GHQが帰国した後は外交官治外法権を持ったイスラエルモサドが日本にやってきてマッカーサーと交替し、
    非営利の総務省特別放送法人だったNHKを憲法15条に違反して営利企業のJapanBroadcastingCorporationに作りかえて、
    NHKが制作したものすべてに隈無く著作権を適用するという、憲法99条違反内乱罪汚職を現行犯で犯行しつづけていますよ。
    最高裁奇形司法はNHKと生まれたときから一味同心だからNHKと放送法の真っ赤な憲法違反に総て知らん顔してます。
    だからこそ、日本国と日本国民を外国の攻撃から守る総大将の大和魂武士道武将【民の父母伝国の辞】菅義偉総理は、
    内閣総理大臣職務権限で放送法を直ちに執行停止して廃法処分NHK組織全解体破棄断行しなければならないのです。

    NHKもといJBCの外患罪については別稿で。
    NHKもといJBCを内閣総理大臣職務権限で放送法執行停止して破棄すればただちに外患による危険はすべて去るので。

    これに反論あれば国会議事堂に国会議員700人集めてテレビカメラで全世界同時中継しながらマスク無しで相手になってあげます。
    いつでもどうぞ。六法全書だけ持参して他は一切議事堂内持ち込み禁止です。
    私は身分出生と生育歴を偽る卑怯者が嫌いなんで、嘘をつけば即逮捕の国会議事堂以外では相手してあげません。



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  15. 明治東大医学部西洋ニセ医者の日本民族無差別虐殺略奪専門黒魔術【医は算術】テロ
    【武田邦彦】※緊急特別配信※ これはマスコミが一切報じない超重要核心情報です 誰も言わないから、現代日本人が“旅立つ原因”について批判覚悟でお話しします
    youtube.com/watch?v=lrSfXqp4mHc&pp=wgIECgIIAQ%3D%3D
    豊岳正彦18 分前
    「人間五十年は餓死である」豊岳正彦の無有万機公論
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-3301cd.html
    がんは明治時代岩倉具視以前には日本に皆無である。
    うつ病自殺は明治時代藤村操が日本人で初めてである。
    インフルエンザも天然痘もウイルス単独で死ぬ動物は皆無である。

    豊岳正彦38 分前(編集済み)
    【親孝行親切忘己利他捨身施大和魂武士道野球菩薩新庄剛志選手がコロナとコロナうつ病ほかを総て完封】
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/111.html
    【新庄剛志さんコラボ】カリスマの極意と驚異のメンタルを学ぶ!
    youtube.com/watch?v=cL-Xn2Hwlmw
    【新庄剛志さんコラボ第2段】 スーパースターならではの驚愕エピソード続出
    youtube.com/watch?v=Onm7wB1uNf8

    ミノル君が新庄さんとコラボしたこの動画で、
    日本中のあらゆる年齢のあらゆる病気の人が全員元気になりますね。
    ありがとうございます。
    おかげさまで全世界のコロナとコロナうつ病を治せますよ(大感謝)

    【デーブ緊張】江夏豊さんに聞く!カーブ誕生秘話
    youtube.com/watch?v=Yw3CWKHnj8g&t=80s

    新庄君のコロナ越えを意味する背番号568には実証された裏付けがあります。
    彼が昨年暮れにプロ野球復帰を決意してからバリ島で家屋敷売り払って極貧生活に入ったすぐ後に、
    バリ島でコロナウイルスの感染が爆発して大流行が始まった。
    日本ではすべてのイベントが三密禁止で中止になったちょうどそのころ、
    新庄選手はコロナだらけのバリ島で三密禁止どころか屋外でずっと粗食を外食して、
    寝る間も惜しんで厳しい野外トレーニングやジムやプールのトレーニングを一日中毎日毎日続けていたのですが、
    バリ島じゅうにコロナ感染者が拡大しても新庄選手だけまったくコロナに感染しませんでした。

    先日日本に帰国した際2週間の外出禁止制限を受けましたが、まったくコロナが検出されなかったのです。
    そして皇治くんと対談した時に、
    金持ちの生活と貧乏生活のどっちを選ぶかと言えば、今なら絶対極貧生活を選ぶと断言していましたが、
    この極貧生活こそが新庄選手の免疫を最高度に強化してコロナウイルスを寄せ付けなかった真の理由です。

    日本人は全員新庄剛志選手にバリ島での衣食住を教えてもらってその通りの生活をすれば、
    コロナ感染爆発を一人一人が自分の生活態度で免疫を強化することで、日本全体で完封できる、
    最も大切な実践で証明された治療法予防法完封法の元気ピンピンの生きた証拠です。

    新庄選手は親から受け継いだ持ち前の大和魂で厳しく自分と戦って我が身を修めて、
    コロナを含め一切の病気を自分の衣食住だけで治して元気いっぱい帰国して、
    バリ島で鍛えて身に着けた技術の粋をすべて尽くしてプロ野球のトライアウトに挑戦します。
    親孝行な大和魂文武両道名人菩薩が敵を知り己を知って平常心で戦いに臨めば、
    百戦して百勝することは疑いの余地ありません。

    背番号568が大和魂の平常心で日本プロ野球のグラウンドに立った時、
    コロナは大和魂の母国日本の国土のみならず地球上からすべて完封されるでしょう。
    youtube.com/watch?v=13DUyAxe85w&t=14s
    youtube.com/watch?v=gWpe-4tpzXA&t=132s

    返信削除
  16. 政権を崩壊させる爆弾。安倍晋三前総理と菅義偉総理のアキレス腱!河井克行・案里夫妻事件。元受刑者に聞く刑事裁判の流れ。元博報堂作家本間龍さんと一月万冊清水有高。
    youtube.com/watch?v=_7vxqaME9pM

    豊岳正彦
    11 分前(編集済み)
    日本の東大法学部卒東大話法奇形司法が戦後ずっと冤罪で日本人を殺し続けていることを君らも知ってるはずだけど、
    そんな奇形司法の東大話法を自分の味方にしてものをいうなら、君らも奇形司法の一味同心になってしまうよ。
    お釈迦さまも自分より心が劣ったものと道連れになってはいけないとおっしゃった。
    弁護士は全員東大法学部卒東大話法奇形司法が選抜する司法試験合格後に、司法修習で判検癒着してできていることを忘れちゃいかんよ。
    広島地検が河井夫妻だけを起訴して金を受け取ったほうを全員不起訴にしたこと自体、
    ロッキード事件、高知白バイ自爆事故バス運転手業務上過失致死有罪冤罪事件と全く馬鹿の一つ覚えの同一構図の、
    検察裁判所判検癒着談合法務省憲法違反人質司法テロクーデターと同じだということに気が付かないのが、
    聡明な大和魂を受け継いだ清水君としてはちょっと残念な感じがするよ。

    縦割り110番して、法務省を根っこから改革する必要があるね。
    まず最高裁の東大法学部卒はじめ最高裁判事全員総理の行政判断で全員首にして、
    若くて正義感が強い地裁判事を抜擢して総入れ替えしてから、
    検察庁も全員首で検事全員総入れ替えすることだね。

    返信削除
  17. 【菅義偉総理大臣もJFKも山岡鉄舟報恩武士道至誠菩薩の師上杉鷹山公に心服する仏弟子である】
    blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/29f5a549330b5e28fee37db42683ed01
    行き過ぎた“官邸主導”の弊害【報道特集】
    youtube.com/watch?v=nNCO0KPI0ow&lc=UgwvfappWZWwBlVW0kR4AaABAg.9DorA5F2gSM9Dss5O-gySP
    豊岳正彦
    1 日前
    官僚とか公務員を裁判にかけるより、あっさり首にするほうがはるかに低コストで完全除去できるからね。
    コストパフォーマンスがわかっている人が仕事ができる人だよ、世界中万人が認める真理だ。

    注目の返信
    Kazhi 6
    5 時間前
    そうね、魔女裁判はいつも正しいもんからね。
    だって、真実なんていらないもんね。

    豊岳正彦がKazhi 6へ返信
    3 時間前(編集済み)

    魔女裁判は、
    政教一致カルト一神教政権の下で行われる、
    「人を憎んで罪を憎まず」冷酷無慈悲ハムラビ法典冤罪裁判のことです。

    魔女という罪人のレッテルを貼り付けて官憲が狩り捕えた人の体を、
    「目には目を、歯には歯を」の無道な言いがかりで切り刻む、
    過失であろうと故意であろうとお構いなしにただ人を切り刻んで痛めつけて十字架の上につるし上げ、
    民衆の面前で「火炙り」にかけ公開の見せしめに焼き殺すことだけが目的ですね。

    明治22年政教一致天皇現人神一神教建国大日本帝国が昭和20年8月15日無条件降伏の玉音放送した後、
    フィリピンロッジロックフェラーフリーメーソンマッカーサーが母国日本の国土に乗り込んできて、
    明治のロックフェラーフリーメーソンジョン万次郎創建開学東大法学部卒を集めて作った最高裁という戦後奇形司法が、

    GHQのWGIPのもとで、

    これもマッカーサーの肝いりでCIAが作った占領統治CIAプロパガンダ放送局NHKの命令通りに東大話法で、
    「罪を憎んで人を憎まず」の転輪王裁判政教分離仏法司法日本国憲法にすべて違反する公務執行汚職しながら、
    法務省司法官僚公務員全体一致で司法公務員汚職100%冤罪東大話法奇形司法政教一致カルト「魔女狩り裁判」を、
    現代地球上で唯一日本政府法務省東大話法「過失有罪」奇形司法だけが破廉恥に戦後75年間続けていますね。

    日本国政府三権第二位司法府最高裁は地上最低人類史上最悪の、
    中世暗黒無知無法無道「魔女狩り火炙り」100%冤罪悪魔黒魔術奇形司法詭弁司法偽計冤罪裁判所です。
    事実上真実にこの世の最低裁判所ですね。

    日本人法務省官僚と法務省公務員を全員首にして、
    これ以上公務員の身分で冤罪魔女狩り暗黒奇形司法裁判執行する罪を犯さないように、
    その身を特別司法公務員汚職の重罪から守ってやらねば、
    司法公務員の故郷で暮らす母親兄弟家族がみな悲しむことになりかねませんから、
    GHQのWGIPに騙されて奇形司法無法無道公務執行してきた「過失」を「故意ではない」として、
    これまでの公務員汚職の罪は過失無罪として刑事責任一切不問にして、
    ただ公務員職を懲戒で辞めさせる行政処分だけで公務員職から罷免してやれば、

    本人は、
    公民権停止5年間だけで両親からもらった五体無事で元気に、
    母国最高法規日本国憲法が万国万人平等に保障する基本的人権のもと、
    母国内のどこであれ母国外であれ、民間の自由人として起業も就職も個人の自由意志で何でもできますからね。
    ふるさとの母父家族同朋がみな誇りに思う報恩で飾る錦を自分の手で織り上げることができます。

    これがJFKと菅義偉総理大臣が両親からもらった六尺の体に宿る魂で尊敬する、
    三宝帰依忘己利他捨身施報恩武士道成等正覚「民の父母」上杉鷹山公の、
    伝国の辞政教分離大光王転輪王仏法言霊「罪を憎んで人を憎まず」です。

    南無父母恩重経
    南無悪人正機成等正覚聖徳太子親鸞上人阿弥陀如来 
    南無山岡鉄舟高歩無刀流活人剣術極意大居士不可思議解脱不二成等正覚維摩仏
    南無三世十方一切諸仏諸尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜

    返信削除
  18. 安倍武士道平和外交大国主命内閣と菅武士道平和内政少彦男命内閣
    豊岳正彦の巖國豐嶽醫王第六坊
    blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/2aa6349d5852c6ec91d062ac32aceb43

    菅義偉総理は東北は秋田県の生まれで、
    幼少の時から隣の山形県米沢市に坐します上杉鷹山公の、
    民の父母伝国の辞仁徳修身政治の薫陶を三つ子の魂に、
    ご両親から躾で手から手へ伝えられはぐくまれた、
    大和魂忘己利他捨身施菩薩道武士の鑑かがみであられる。

    安倍晋三前総理はご先祖を東北の海人族統領安倍氏にいただく、
    大国主命と同じご先祖の大和魂文武二道の名人、
    東漢坂東武者の直系ご子孫であられる。

    大国主命と少彦男命が二人三脚で全国と海外を巡り歩いて、
    葦原瑞穂の大和嶋秋津国を手を合わせ力を合わせてこの世に築き上げたのである。
    これが東北地方に最も出雲大社が多いゆえんであり、
    東北の方言である東北弁と出雲の方言の出雲弁が言語学上現代においても同一であるゆえんでもある。

    安倍内閣と菅内閣が力を合わせて二人三脚で、
    現世に豊葦原瑞穂の大和嶋秋津の国を作り上げる大事業を、
    大和民族の最勝無敵無上の和魂ニギミタマをもって、
    必ずや成し遂げ玉いなさるでありましょう。

    島根県出雲市の雲太出雲大社本殿の後ろ正面に小ぶりのやしろが祭祀られており、
    主祭神おんみずから素鵞神社と名乗っておられて、
    用明天皇聖徳太子天武天皇文武天皇聖武天皇弓削道鏡菅原道真公弘法大師空海尊者を一族男系子孫に輩出した蘇我氏の、
    大和秋津嶋における氏姓発祥の本地であることからも、

    オオクニヌシとスクナビコナのお二人の尊ミコトの国見と国造りが、
    およそ五千年以上の日月光陰を経て、
    ふたたび始まったことがわかるのである。

    南無父母恩重経
    南無三宝

    補追
    大国主命→→武内宿祢↑(我蘇る)倭の五王讃珍済興武(武はワカタケル雄略天皇)武烈天皇→↑(再び我蘇る)用明天皇聖徳法皇大王天武天皇文武天皇聖武天皇弓削道鏡菅原道真弘法大師空海と仏天子仏教徒系譜がつづいてるのである。
    ちなみに平清盛はペルシャ系の母を持つペルシャ系仏天子ご落胤である。 

    大国主以前の蘇我氏系譜は任那王ローマ羅馬市民ペルシャ王族とさらに釈尊在世時以前までさかのぼって行けるね。
    聖徳太子すなわち久留米の紀氏王朝タリシホコ大王を生んだのは用明天皇と結婚した大分の満野長者一人娘般若姫である。
    山口県柳井市室積半島の山上に般若皇后陵墓と菩提寺真言宗御室派般若寺が用明天皇と弘法大師によって創建された。

    大分県国東半島にある奇祭ケベス祭りは古代ギリシャ神話時代の祭りであり、おそらくシルクロード経由で朝鮮半島を経由せず大分へ渡来したと考えられる。

    ニチユ同祖論には穴が多すぎる。
    徳島県剣山と諏訪神社との間が日ユ同祖であることは確実だが局所的である。
    徐福と秦氏はペルシャからイスラエルへ入植した可能性が高い。
    楊貴妃と同じ景教徒らしさが見受けられるから。
    日本にはユダヤ系よりもペルシャ系渡来民のほうが多数派である。
    ユダヤ教一神教は異教徒を排斥して政教一致のカルト政治するが、
    ペルシャ系仏教徒は異教徒を受容して政教分離で政治するからである。
    ペルシャとユダヤでは、先に仏教徒ペルシャ系が渡来して朝廷に入った故に、
    後にユダヤ教徒が渡来した時仏戒に従って排斥せず領地を与えたと考える。
    日本と世界をあわせた地球の歴史を、
    真理と真実からはるか遠くに偏差した学校教科書を読まずに、
    お経すなわち仏教聖典などに従って無心に虚心坦懐に読めば、
    宇宙の真理と真実の因果すなわち因縁がよくわかるのである。

    皆さん仏教聖典をはじめ、
    戦前生まれの日本人が明治以前の正しい仏教言霊日本語で書き著した多くの日本語仏典書籍を、
    青空文庫で大いに電気代以外無料で読みましょう、例えば新見南吉とか(笑い)

    ここではロシアの文豪レフ・トルストイが仏教に帰依して書いた生涯最高傑作「イワンのばか」を、
    菊池寛が江戸の正しい言霊で訳したものをご紹介します。
    そのページの中に青空文庫のアドレスがあります。

    青空文庫菊池寛訳「イワンのばか」レフ・トルストイ
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-e861.html

    返信削除
  19. 横田早紀江さん「本気でやっていただきたい」菅新総裁について
    youtube.com/watch?v=YA6Ouco3KeA
    豊岳正彦
    安倍さんの時から拉致問題解決を妨害していたのは全部NHKと霞が関泥棒官僚たちであるよ。
    証拠もあります。

    菅総理大臣誕生が抱える政権崩壊の弱点。菅首相なら安倍政権以上の強権的政治になるが、大きなリスクも抱えている。元朝日新聞記者ジャーナリスト烏賀陽弘道と一月万冊清水有高。
    youtube.com/watch?v=G4NotE4hcFM&lc=UgyJJfI0W1gdGTYNoxB4AaABAg.9D_sxdxbIph9DaK00oT2bg

    豊岳正彦
    2 分前(編集済み)
    新見南吉は青空文庫や青空図書館えあ草紙で世界中の誰でも本を買わないでも読めます。
    インターネットはありがたいほとけさまみたいだね。
    青空文庫
    aozora.gr.jp
    青空図書館
    satokazzz.com/books/#

    豊岳正彦
    1 秒前
    tatsuyaさん
    簡単です。
    あなたの心から自民党を消し去ろうという考えそのものを消し去れば、あなたの前から自民党が消えうせますから。

    tatsuya s
    9 時間前
    こんな自民党を消し去るにはどうしたらいいんですかね?

    豊岳正彦
    1 秒前
    よい子は新見南吉だけを何度も繰り返して毎日読んでその文章を手で書き写して覚えて暗唱すれば全員世界一立派な尊い人になれるよ。
    ごんぎつね
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/12.html
    牛をつないだ椿の木
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/13.html
    花のき村と盗人たち
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/14.html

    豊岳正彦
    2 分前(編集済み)
    東大話法は東大医学部精神科と東大法学部最高裁と東大卒NHKが喋れる唯一の発達遅滞片言だね。
    よい子は絶対マネしちゃだめだよ、嘘つきは泥棒の始まりだからね。

    豊岳正彦
    1 時間前(編集済み)
    Hiro Ugayaさん
    国を動かそうと思ったらまず村を治める力がなければならない。村を治めようと思ったらまず家を治めなければならない。家を治めるにはまず己を修めなければならない。貴殿は菅さんがなぜ貴殿が足元にも及ばない高い官位についたのか理由がわかるのか?官僚とか新聞記者とか、なぜ職業としてさげすまれているのか、知ってるのか?ふみは人なり、という言葉を知ってるか?朝日新聞の君が垂れ流す卑しい日本語則ち文はすべて官僚が垂れ流す愚にもつかない教養のない下卑な便所の落書き駄文東大話法官僚作文ばかりだから、新聞記者も官僚も賢い日本人のみんなから卑しい売文業としてさげすまれるのさ。東大話法はAIバカの壁変換二進法アルゴリズムだが、この言葉の意味がわかるかい?知恵がないとわからないよ、知恵は知識じゃないからね。知恵は知識という汚物で脳をいっぱいにすればごみ屋敷と同じでどこにあるかわからなくなって必要なときに出してくることができなくなるのさ。知識は心を汚す煩悩だよ。君はモノを書くとき鏡を目の前に置いて書くとよい。君はモノをいうとき鏡を目の前においてものをいうとよい。毎日繰り返していればひと月で菅さんに文も姿も顔つきも半分くらい近づけるだろう。恫喝はしないよ、必要ないから。官僚も記者も何の知恵もないAI変換でくの坊だから、無視して電源を切って入れ替えたらよい、それだけの価値しかない卑賎で粗悪な安物製品だから。Made In Japanに値しない。

    豊岳正彦
    8 時間前
    戦後日本に蔓延する三流政治日本病の病原菌はまさに泥棒官僚天国に巣くう官僚ども全員だからね。菅さんは戦後最高の名医だから病巣を完全に除去して日本病を完治させることができるでしょうわずか一年足らずの短期間で。
    解散総選挙は根治手術が完了するまで絶対にありませんよ。半年で手術がすんだら半年で解散するだろうけどね。

    注目の返信
    1964 teto
    3 時間前
    うざい

    Hiro Ugaya
    一月万冊 さんによって固定されています
    Hiro Ugaya
    5 時間前
    菅さんが官僚を恫喝するのは、それだけ官僚を操縦する力量に自信がないことの現れに過ぎません。

    豊岳正彦
    7 時間前
    藤井二冠の手を前もって読める記者も棋士もいないのと同じことです。

    豊岳正彦
    7 時間前
    政治家がマスコミに行動を先読みされることなどありえませんよ。先読みされる程度の人は政治家になれないです。



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  20. 日本国憲法の三権分立では最下位の行政公務員官僚が最上位立法府衆議院議員で構成された首相官邸の行政命令に一言でも逆らえば、
    官邸はもともとすべての官僚の任免権を持つ公務員の使役者すなわち会社組織でいえば官僚が社員で官邸が取締役社長だから、
    自分の国家経営判断で官邸の命令と違う行政を実行した官僚汚職実行犯を警察に突き出す業務権限があるのです。
    官邸が官僚を主導する、これこそが民主主義政治そのものですよ、間違えないでください。
    基本を間違えるとやることなすことすべて間違ったことばかりするようになってしまいますから。
    そして憲法15条公務員が公務執行上間違えたらその行為は直ちに憲法最高法規99条に違背した公務員汚職という刑事犯罪になってしまうのです。
    これが官邸が官僚の行為が犯罪であると思料したら直ちに告発して官僚を警察に逮捕させる憲法上の根拠です。
    また刑訴法も憲法に条文がありますが、刑訴法239条では何人も犯罪があると思料したら警察にこれを告発できるとありますが、
    公務員に対してはさらに厳しく、239条の第2項で
    「公務員が公務執行において犯罪があると思料したら「直ちに告発しなければならない」刑罰付きの義務があるのです。
    友達の公務員が犯罪を行ったと思料したら同僚の公務員は直ちに警察に告発しなければならない「神聖な責務」を主権者国民に対して負っている。
    官僚であれば忖度も汚職、国会議員が請求した資料の勝手な国会での隠蔽も汚職、
    官邸からの行政命令に背く行為も汚職、また命令をわざと不作為で放置することもすべて汚職刑事犯罪です。
    国会議員や大臣には何の犯罪もありません。世の中に仕事をさぼって会社に損害を与えて社長に怒られた社員が、
    怒った社長に慰謝料を請求して裁判を起こしてもどこの誰が社員を正しいなんて思うでしょうか。それは完全に誣告詐欺という刑事犯罪です。
    官僚が自分の怠慢汚職を棚に上げて官僚の人事と去就は何があろうと自分で決める、官邸の命令は聞く耳持たないと言ったら、
    官僚と官邸のいずれがクーデターテロの犯人ですか。
    憲法に違反しているのは完全にまぎれもなく官僚です。
    世界中どんな国でも人間社会ではこれを官僚のクーデターとしか呼びません。
    マスコミがマスク警察の先棒担いで主権者国民を特定して誹謗中傷していますがマスコミに警察の権限などかけらもない。
    第四権力などどこの世界にも存在しない妄想です。
    第四権力とマスコミが呼んでいるものは、日本国憲法を破壊するただの無法な暴力そのものです。
    これをちゃんと憲法に照らして完全に理解しているからこそ、菅総理は官房長官時代に憲法を勉強してない憲法無知の無法なマスコミに対して、
    いい大人に今更義務教育でもないから普通に放置で当たっただけです。
    官僚の無法は国に大きな実害を与えるから内閣人事局で人事という民事の法力を使って親からもらった大事な身体を痛めずに断罪するのみです。
    これで日本の官僚とマスコミがいかに無知で無法な暴力ばかり振り回している反人道社会勢力であるかを完全に正確にくまなく証明しました。
    これが泥棒官僚とマスコミが病原菌の日本病の真実です。即時に手術侵襲無しで治す処方箋は「放送法消費税法一括破棄」です。
    さあ首相官邸にこの正しい憲法処方を送信しておきましょう。日本国内クーデター憲法破壊テロの犯人を直ちに特定できるように。
    反論があれば、首相官邸で反論を聞いてあげますテレビカメラで世界中に中継して。



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  21. 行き過ぎた“官邸主導”の弊害【報道特集】
    youtube.com/watch?v=nNCO0KPI0ow&lc=UgwvfappWZWwBlVW0kR4AaABAg.9DorA5F2gSM9Dss5O-gySP
    豊岳正彦3 時間前(編集済み)

    魔女裁判は、
    政教一致カルト一神教政権の下で行われる、
    「人を憎んで罪を憎まず」冷酷無慈悲ハムラビ法典冤罪裁判のことです。

    魔女という罪人のレッテルを貼り付けて官憲が狩り捕えた人の体を、
    「目には目を、歯には歯を」の無道な言いがかりで切り刻む、
    過失であろうと故意であろうとお構いなしにただ人を切り刻んで痛めつけて十字架の上につるし上げ、
    民衆の面前で「火炙り」にかけ公開の見せしめに焼き殺すことだけが目的ですね。

    明治22年政教一致天皇現人神一神教建国大日本帝国が昭和20年8月15日無条件降伏の玉音放送した後、
    フィリピンロッジロックフェラーフリーメーソンマッカーサーが母国日本の国土に乗り込んできて、
    明治のロックフェラーフリーメーソンジョン万次郎創建開学東大法学部卒を集めて作った最高裁という戦後奇形司法が、
    GHQのWGIPのもとで、
    これもマッカーサーの肝いりでCIAが作った占領統治CIAプロパガンダ放送局NHKの命令通りに東大話法で、
    「罪を憎んで人を憎まず」の転輪王裁判政教分離仏法司法日本国憲法にすべて違反する公務執行汚職しながら、
    法務省司法官僚公務員全体一致で司法公務員汚職100%冤罪東大話法奇形司法政教一致カルト「魔女狩り裁判」を、
    現代地球上で唯一日本政府法務省東大話法「過失有罪」奇形司法だけが破廉恥に戦後75年間続けていますね。
    日本国政府三権第二位司法府最高裁は地上最低人類史上最悪の中世暗黒無法無道「魔女狩り火炙り」裁判所です。
    事実上真実の最低裁判所ですね。

    日本人法務省官僚と法務省公務員を全員首にして、
    これ以上公務員の身分で冤罪魔女狩り暗黒奇形司法裁判執行する罪を犯さないように、
    その身を特別司法公務員汚職の重罪から守ってやらねば、
    司法公務員の故郷で暮らす母親兄弟家族がみな悲しむことになりかねませんから、
    GHQのWGIPに騙されて奇形司法無法無道公務執行してきた「過失」を「故意ではない」として、
    これまでの公務員汚職の罪は過失無罪として刑事責任一切不問にして、
    ただ公務員職を懲戒で辞めさせる行政処分だけで公務員職から罷免してやれば、

    本人は、
    公民権停止5年間だけで両親からもらった五体無事で元気に、
    母国最高法規日本国憲法が万国万人平等に保障する基本的人権のもと、
    母国内のどこであれ母国外であれ、民間の自由人として起業も就職も個人の自由意志で何でもできますからね。

    これがJFKと菅義偉総理大臣が両親からもらった六尺の体に宿る魂で尊敬する、
    三宝帰依忘己利他捨身施武士道成等正覚「民の父母」上杉鷹山公の、
    伝国の辞政教分離大光王転輪王仏法言霊「罪を憎んで人を憎まず」です。

    南無父母恩重経
    南無悪人正機成等正覚聖徳太子親鸞上人阿弥陀如来 
    南無山岡鉄舟高歩無刀流活人剣術極意大居士不可思議解脱不二成等正覚維摩仏
    南無三世十方一切諸仏諸尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜

    豊岳正彦
    1 日前
    官僚とか公務員を裁判にかけるより、あっさり首にするほうがはるかに低コストで完全除去できるからね。
    コストパフォーマンスがわかっている人が仕事ができる人だよ、世界中万人が認める真理だ。
    Kazhi 6
    注目の返信
    Kazhi 6
    5 時間前
    そうね、魔女裁判はいつも正しいもんからね。
    だって、真実なんていらないもんね。



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  22. 杉田水脈が自民党の“性暴力”議論で「女性はいくらでも嘘をつける」と暴言! 伊藤詩織さん攻撃でも被害女性を貶める差別思想が(リテラ)
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c151

    >>149続きは9月15日に阿修羅投稿から持ってこようと思ったが、

    ばかかぶがブロックするのは確実だから、

    アドレスと一部だけ抜き書きしといてやるか。

    どうせ首相官邸に送信するときは全文隈無く詳細に書けるから。

    asyura2.com/20/senkyo275/msg/749.html#c3

    3. 豊岳正彦[-5091] lkyKeJCzlUY 2020年9月15日 13:43:43 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-100] 報告
    ▲△▽▼
    【拉致問題解決妨害真犯人】

    横田早紀江さん「本気でやっていただきたい」菅新総裁について
    youtube.com/watch?v=YA6Ouco3KeA


    安倍さんの時から拉致問題解決を妨害していたのは全部、

    NHKと霞が関泥棒官僚たちであるよ。

    証拠もあります。


    菅総理大臣誕生が抱える政権崩壊の弱点。菅首相なら安倍政権以上の強権的政治になるが、大きなリスクも抱えている。元朝日新聞記者ジャーナリスト烏賀陽弘道と一月万冊清水有高。
    youtube.com/watch?v=G4NotE4hcFM&lc=UgyJJfI0W1gdGTYNoxB4AaABAg.9D_sxdxbIph9DaK00oT2bg

    豊岳正彦2 分前(編集済み)

    新見南吉は青空文庫や青空図書館えあ草紙で世界中の誰でも本を買わないでも読めます。

    インターネットはありがたいほとけさまみたいだね。

    青空文庫
    aozora.gr.jp

    青空図書館
    satokazzz.com/books/#

    豊岳正彦1 秒前

    よい子は新見南吉だけを何度も繰り返して毎日読んで、

    その文章を手で書き写して覚えて暗唱すれば、

    全員世界一立派な尊い人になれるよ。

    ごんぎつね
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/12.html

    牛をつないだ椿の木
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/13.html

    花のき村と盗人たち
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/14.html



    豊岳正彦2 分前(編集済み)

    東大話法は東大医学部精神科と東大法学部最高裁と東大卒NHKが喋れる唯一の発達遅滞片言だね。

    よい子は絶対マネしちゃだめだよ、東大卒官僚は100%嘘つきだし、

    嘘つきは泥棒の始まりだからね。


    豊岳正彦1 時間前(編集済み)

    Hiro Ugayaさん

    国を動かそうと思ったらまず村を治める力がなければならない。

    村を治めようと思ったらまず家を治めなければならない。

    家を治めるにはまず己を修めなければならない。

    貴殿は菅さんがなぜ貴殿が足元にも及ばない高い官位についたのか理由がわかるのか?

    官僚とか新聞記者とか、なぜ職業としてさげすまれているのか、知ってるのか?

    ふみは人なり、という言葉を知ってるか?

    朝日新聞の君が垂れ流す卑しい日本語則ち文はすべて、

    官僚が垂れ流す愚にもつかない教養のない下卑な便所の落書き駄文東大話法【天声人語】官僚作文ばかりだから、

    新聞記者も官僚も一緒くたに、

    賢い日本人のみんなから卑しい売文業としてさげすまれるのさ。

    東大話法はAIバカの壁変換二進法アルゴリズムだが、この言葉の意味がわかるかい?

    知恵がないとわからないよ、知恵は知識じゃないからね。

    知恵は知識という汚物で脳をいっぱいにすればごみ屋敷と同じでどこにあるかわからなくなって、

    必要なときに出してくることができなくなるのさ。

    知識は心を汚す煩悩だよ。

    君はモノを書くとき鏡を目の前に置いて書くとよい。

    君はモノをいうとき鏡を目の前においてものをいうとよい。

    毎日鏡を目の前におくと決めて行住坐臥繰り返していれば、

    ひと月で菅さんに文も姿も顔つきも半分くらい近づけるだろう。

    菅さんは記者や役人を恫喝はしないよ、必要ないから。

    官僚も記者も何の知恵もないAI変換でくの坊だから、

    無視して電源を切って入れ替えたらよい、

    それだけの価値しかない卑賎で粗悪な安物製品だから。

    Made In Japanに値しない。


    豊岳正彦8 時間前

    戦後日本に蔓延する三流政治日本病の病原菌は、

    まさに泥棒官僚天国に巣くう官僚ども全員だからね。

    菅さんは戦後最高の名医だから、

    病巣を完全に除去して日本病を完治させることができるでしょう、

    それもわずか一年足らずの短期間で。


    解散総選挙は根治手術が完了するまで絶対にありませんよ。


    半年で手術がすんだら半年で解散するだろうけどね。


    Hiro Ugaya
    一月万冊 さんによって固定されています
    Hiro Ugaya

    菅さんが官僚を恫喝するのは、それだけ官僚を操縦する力量に自信がないことの現れに過ぎません。


    豊岳正彦

    藤井二冠の手を前もって読める記者も棋士もいないのと同じことです。

    政治家がマスコミに行動を先読みされることなどありえませんよ。

    先読みされる程度の人は政治家になれないです。



    ___「日本国泥棒官僚違憲汚職内乱罪常習の現行犯証拠」___

    【総裁選圧勝予想の菅義偉氏、河井前法相事件との関係を忘れてはならない!】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」
    youtube.com/watch?v=Fij0dCwqZpw


    豊岳正彦
    『ジョン万次郎東大三毒文一理三NHK【日本病】を、

    仏法日本国憲法武士道医道で根治する』

    ameblo.jp/hougaku-masahiko/entry-12620469879.html


    豊岳正彦の無有万機公論

    「病院へ行けば病気にされて入院すればコロナ死亡者に算入される厚労省医療費毎年50兆円保険医療のカラクリ」コメント

    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-1f02ca.html#comment-118294311

    名前:通りがけは東大奇形司法日本病を治し国を治す国手仏弟子医王医者でござる

    タイトル:GHQ奇形司法内乱罪現行犯地検検察官は直ちに全員自首自白しなさい。

    本文:
    阿修羅「河井克行・案里が初公判で無罪主張もこれから120人が証人出廷!

    安倍事務所の買収関与を物語る決定的証言が飛び出す可能性(リテラ)」

    に投稿しました。

    asyura2.com/20/senkyo275/msg/324.html#c26

    贈収賄は贈賄と収賄の両者が等しく刑事責任を負う。

    共謀共同正犯だよ。

    選挙で当選するために地方議員に違法な現金を配ったのは刑法上贈収賄罪に相当するので、

    刑法をつかさどる検察が捜査して、

    収賄側が全員不起訴になったらば証拠によって刑事犯罪事実がなかったということを表すのであって、

    贈賄側も当然証拠主義の刑法に従って不起訴でなければならないね。

    最高法規憲法に従う責務を負う特別司法公務員検察にあっては、

    贈収賄の共謀共同正犯の容疑者を、

    収賄側を証拠を調べて犯罪事実なしの不起訴としたのであれば、

    法の公正の見地から贈賄側のみを同じ罪で起訴することは決してできない。


    よって今回の河井議員夫妻の贈賄=政治資金規正法違反での検察起訴は、

    憲法35条なんびとも法律によらなければ刑罰をくわえられない。

    によって厳重に禁じられた刑訴法の起訴権限乱用汚職、

    すなわち検察による法の不正執行起訴権乱用の、

    事実無根の冤罪証拠捏造に基づいた特別司法公務員検察起訴権濫用汚職、

    憲法最高法規99条違反内乱罪「冤罪起訴」

    日本国体破壊テロそのものであることが明白となる。


    つまり、証拠を調べて収賄の事実がないのに、

    共同正犯の一方に過ぎない贈賄容疑の河井夫妻のみを、

    証拠がないまま起訴したことがそのまま、

    憲法15条公務員検察自体の憲法99条違反であり、

    その憲法最高法規違反「基礎権濫用」は即、

    憲法下位の日本国刑法における汚職の罪

    「特別司法公務員職権乱用罪」重大刑事犯罪現行犯の動かぬ証拠となる。


    検察は憲法15条公務員であるから、

    公務員の汚職は、

    最高法規第99条で条規された「日本国憲法を擁護し遵守せねばならない」神聖な責務に違背して、

    最高法規違反の罪を犯した最も重大な刑事犯罪者に相当し、

    この場合広島地検に属する検察官が全員、

    日本国憲法に違反する日本国刑法極刑「内乱罪」の現行犯人となる。

    極刑の内乱罪外患罪においては、

    情状酌量は自分の罪を認めて自首した場合以外は認められない。

    内乱罪の量刑は刑法の極刑だから無期懲役以上死刑までである。

    情状酌量がなければ広島地検の検察官全員に極刑刑罰が科されるよ。

    憲法に違反して河井夫妻のみを職権乱用起訴した広島地検検察官は、

    直ちに全員自首しなさい。

    自首自白のみが情状酌量を受けられ、

    極刑の減免として執行猶予を受けられる唯一の道である。

    これが立憲法治主義を世界に対して表明した、

    国民主権日本国憲法三権分立日本国である。

    [18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

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  23. 那須川天心戦~皇治が語る。
    youtube.com/watch?v=RXPB_JisQas&lc=z22dxxugpr3rsb2qt04t1aokg34bszbzj4o3dnerftwsbk0h00410
    豊岳正彦
    6 時間前(編集済み)
    てんちむとこに書いたコメントを不倒不屈帝王皇治選手におくります。新庄選手を従えて入場したことで勝ちました。
    応援してくださっている皆様へ
    youtube.com/watch?v=iHQx8x4JAwg&t=214s
    豊岳正彦2 時間前(編集済み)

    ひとが抱くあらゆる感情のうちで、期待だけは必ず他人に対して抱いてはならない。
    期待を抱いてよい相手は必ず自分自身だけである。
    あなたが他人から期待してるよと云われればすごく重荷になるでしょ。
    他人から期待されなければ自分で自分に期待し続けて生きていくことが出来るが、
    自分で自分に満足できたときに他人から【期待外れだ】と云われたらものすごく自尊心が傷ついて血が流れるほど心が痛くなります。
    だから人は他の人と一緒に生活している間はずっと【期待してる】とか【期待外れだ】という言葉を他者に対して絶対に言ってはならない。
    唯自分自身に対しては自分で自分に【期待してる】とも【期待外れだ】ともどんどん言ってください。
    頑張る気持ちがもりもり湧いてきますから、いつでもどんな時でも生きている限り自分自身に絶大な期待を抱き続けて、
    他人に期待する気持ちを自分の全身全霊からすべて残らず捨て去ってゼロにして下さい。
    それがスーパースター新庄剛志選手と寸分違わず同じ自尊心です。
    自尊心はお釈迦様が生まれたとき七歩歩んでから言った【天上天下唯我独尊】の心ですね。
    _______

    後は貴乃花道場で四股踏んで体幹を鍛えて下さい。
    顔を怪我していても四股は踏めるし、
    今回減量のせいで上半身に力が入りすぎて踏み込みが悪かったのを劇的に改善できるでしょう。
    SHICORESIZA
    youtube.com/watch?v=EReURWY-7nc

    返信削除
  24. K-1を出てライジンへ移籍した皇治君とこへ書いたコメントを貼ります。
    -------「那須川天心戦~皇治が語る。」
    youtube.com/watch?v=RXPB_JisQas&lc=z22dxxugpr3rsb2qt04t1aokg34bszbzj4o3dnerftwsbk0h00410
    豊岳正彦
    6 時間前(編集済み)

    てんちむとこに書いたコメントを不倒不屈帝王皇治選手におくります。新庄選手を従えて入場したことで勝ちました。
    「応援してくださっている皆様へ

    youtube.com/watch?v=iHQx8x4JAwg&t=214s
    豊岳正彦2 時間前(編集済み)

    ひとが抱くあらゆる感情のうちで、期待だけは必ず他人に対して抱いてはならない。
    期待を抱いてよい相手は必ず自分自身だけである。
    あなたが他人から期待してるよと云われればすごく重荷になるでしょ。
    他人から期待されなければ自分で自分に期待し続けて生きていくことが出来るが、
    自分で自分に満足できたときに他人から【期待外れだ】と云われたらものすごく自尊心が傷ついて血が流れるほど心が痛くなります。
    だから人は他の人と一緒に生活している間はずっと【期待してる】とか【期待外れだ】という言葉を他者に対して絶対に言ってはならない。
    唯自分自身に対しては自分で自分に【期待してる】とも【期待外れだ】ともどんどん言ってください。
    頑張る気持ちがもりもり湧いてきますから、いつでもどんな時でも生きている限り自分自身に絶大な期待を抱き続けて、
    他人に期待する気持ちを自分の全身全霊からすべて残らず捨て去ってゼロにして下さい。
    それがスーパースター新庄剛志選手と寸分違わず同じ自尊心です。
    自尊心はお釈迦様が生まれたとき七歩歩んでから言った【天上天下唯我独尊】の心ですね。
    _______

    後は貴乃花道場で四股踏んで体幹を鍛えて下さい。
    顔を怪我していても四股は踏めるし、
    今回減量のせいで上半身に力が入りすぎて踏み込みが悪かったのを劇的に改善できるでしょう。
    SHICORESIZA
    youtube.com/watch?v=EReURWY-7nc

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  25. K-1を出てライジンへ移籍した皇治君とこへ書いたコメントを貼ります。
    -------「那須川天心戦~皇治が語る。」
    youtube.com/watch?v=RXPB_JisQas&lc=z22dxxugpr3rsb2qt04t1aokg34bszbzj4o3dnerftwsbk0h00410
    豊岳正彦
    6 時間前(編集済み)

    てんちむとこに書いたコメントを不倒不屈帝王皇治選手におくります。新庄選手を従えて入場したことで勝ちました。
    -------「応援してくださっている皆様へ」
    youtube.com/watch?v=iHQx8x4JAwg&t=214s
    豊岳正彦2 時間前(編集済み)

    ひとが抱くあらゆる感情のうちで、期待だけは必ず他人に対して抱いてはならない。
    期待を抱いてよい相手は必ず自分自身だけである。
    あなたが他人から期待してるよと云われればすごく重荷になるでしょ。
    他人から期待されなければ自分で自分に期待し続けて生きていくことが出来るが、
    自分で自分に満足できたときに他人から【期待外れだ】と云われたらものすごく自尊心が傷ついて血が流れるほど心が痛くなります。
    だから人は他の人と一緒に生活している間はずっと【期待してる】とか【期待外れだ】という言葉を他者に対して絶対に言ってはならない。
    唯自分自身に対しては自分で自分に【期待してる】とも【期待外れだ】ともどんどん言ってください。
    頑張る気持ちがもりもり湧いてきますから、いつでもどんな時でも生きている限り自分自身に絶大な期待を抱き続けて、
    他人に期待する気持ちを自分の全身全霊からすべて残らず捨て去ってゼロにして下さい。
    それがスーパースター新庄剛志選手と寸分違わず同じ自尊心です。
    自尊心はお釈迦様が生まれたとき七歩歩んでから言った【天上天下唯我独尊】の心ですね。
    _______

    後は貴乃花道場で四股踏んで体幹を鍛えて下さい。
    顔を怪我していても四股は踏めるし、
    今回減量のせいで上半身に力が入りすぎて踏み込みが悪かったのを劇的に改善できるでしょう。
    SHICORESIZA
    youtube.com/watch?v=EReURWY-7nc

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  26. 【ディズニーが中国に取り込まれる!】ディズニーが危ない!ディズニー新作映画製作に中国のプロパガンダ機関の関与が判明!SNSでボイコット運動が加速し新作映画は大損害!不買運動にまで発展する可能性も
    youtube.com/watch?v=Lq5xgILT6hA
    豊岳正彦
    2 分前(編集済み)
    もともと日露戦争後に欧米諸国に滅ぼされた清朝皇帝溥儀を保護して溥儀の満州国建国を手助けした日本陸軍に対して攻撃してきた張学良蒋介石国民党軍に莫大な軍事資金援助していたのが合衆国だし、その後アメリカは軍資金援助を共産党へ乗り換えて国民党を中国本土から台湾島へ追い払った深いつながりがある。
    だからディズニーが中国資本から援助を受けるのをアメリカ政府は止めることが出來ない事情があるのだよ。
    それからウイグルの人を民族浄化で切り刻んでいる実行犯は全員西洋医学の医者どもであり、アメリカで生まれた西洋医学の精神科医がでっち上げた遺伝子病の手術による排除すなわち優性殺人理論を免罪符にして魔女狩り火焙りしているのであって、ここでもアメリカの人の血で汚れた手が中国政府の内部の奥深くまで入り込んでいることがわかるね。
    自由主義も共産主義も皆フリーメーソンがでっち上げた政教一致カルト不平等弾圧戦争政治である。
    一神教は異教徒を総て根絶するまで虐殺するが、仏教は総ての異教徒を受け入れて決して殺さない。
    日本だけがムー大陸時代から不変不動の仏教国であり、政教分離で統治するこの世で唯一の人道平等国家である。
    そして総ての一神教は必ず仏教の輩下に入る。釈尊は人天の師だから。

    返信削除
  27. 「自転車でひき逃げ」疑い 男逮捕 信号無視で自転車同士衝突 男性が一時重体、衝突した男は逃げた
    youtube.com/watch?v=sPXqAeyPL0w

    豊岳正彦
    8 分前(編集済み)
    道交法も行政法に過ぎないからね。道交法で処罰すれば最高法規憲法99条違反の法務省公務員職権乱用汚職である。
    第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」
    官憲による処罰は刑法でのみ公務執行され必ず司法公務員判事が裁判所で下した判決で決めた量刑が行われなければならぬと、
    日本国最高法規憲法に書いてある。
    憲法31条「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」
    だから刑法でない行政法の道交法違反の反則金を警官が徴収しているのも憲法31条違反の特別司法公務員職権乱用汚職現行犯だね。
    行政法に過ぎない道交法を刑法であるかのごとく特別刑法と官僚が偽装して、判決を下す資格のないものが刑罰を執行すれば完全に私刑であり、
    憲法31条に違背した私人の処罰行為は絶対に公務執行であるとは認められずただの無法な暴力であるにすぎない。
    警官の発砲と同じく自己の生命に差し迫った危険のない状況で発砲したり押さえつけて警官が相手を死なせれば故意の第一級殺人罪だよ。
    警官なら特別司法公務員職権乱用暴行凌虐致死罪という刑法極刑が適用される。
    政府が人を官憲力で処罰できるのはただ刑法によってのみ処罰できるのであり、
    その処罰の根拠となった刑法条文が憲法の条規に違背していない合憲の条規である場合のみに限られるのである。
    これが立憲法治国家日本国憲法最高法規第98条である。
    憲法98条「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」


    豊岳正彦
    1 秒前
    ここに匿名で書き込んでいる諸君も各自で自分の書き込みに法律の根拠条文を示せないなら、
    新聞に実名報道された他人について法律の根拠なく公共の掲示板で罪人であると誹謗中傷した誣告犯罪者になって、
    名誉棄損罪という刑罰を受ける可能性があることを考慮して、慎重に言葉を選んで書き込む必要があるね。
    ましてや、折田氏はひき逃げを否定しているから、まだひき逃げ犯人であるとは刑法上全く確定していない。
    この段階で君らが法律の根拠も示さず折田氏をひき逃げ犯人であると誹謗中傷すればそれだけで名誉棄損現行犯である。
    すべてのインターネットの書き込みはログがサーバーに残るので、個人の特定は匿名であっても容易なのだ。
    自分に法律の知識がないなら誹謗中傷を自分で削除すれば罪を問われることはない。
    書き込みを残せば書き込みで誹謗中傷された被害者が被害に気付いて警察に告発すれば必ず逮捕されて厳正に処罰される。
    削除しないで残しておくならあらかじめ自首して刑の減免を画策しておくことだね。この場合必ず前科が付くけどね。

    返信削除
  28. 法務省職員総入れ替え奇形司法追放行政改革
    ご意見送信先 :首相官邸、e-GOV、Whitehouse
    「自転車でひき逃げ」疑い 男逮捕 信号無視で自転車同士衝突 男性が一時重体、衝突した男は逃げた
    youtube.com/watch?v=sPXqAeyPL0w

    豊岳正彦8 分前(編集済み)

    道交法も行政法に過ぎないからね。道交法で処罰すれば最高法規憲法99条違反の法務省公務員職権乱用汚職である。
    第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」
    官憲による処罰は刑法でのみ公務執行され必ず司法公務員判事が裁判所で下した判決で決めた量刑が行われなければならぬと、
    日本国最高法規憲法に書いてある。
    憲法31条「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」
    だから刑法でない行政法の道交法違反の反則金を警官が徴収しているのも憲法31条違反の特別司法公務員職権乱用汚職現行犯だね。
    行政法に過ぎない道交法を刑法であるかのごとく特別刑法と官僚が偽装して、判決を下す資格のないものが刑罰を執行すれば完全に私刑であり、
    憲法31条に違背した私人の処罰行為は絶対に公務執行であるとは認められずただの無法な暴力であるにすぎない。
    警官の発砲と同じく自己の生命に差し迫った危険のない状況で発砲したり押さえつけて警官が相手を死なせれば故意の第一級殺人罪だよ。
    警官なら特別司法公務員職権乱用暴行凌虐致死罪という刑法極刑が適用される。
    政府が人を官憲力で処罰できるのはただ刑法によってのみ処罰できるのであり、
    その処罰の根拠となった刑法条文が憲法の条規に違背していない合憲の条規である場合のみに限られるのである。
    これが立憲法治国家日本国憲法最高法規第98条である。
    憲法98条「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」


    豊岳正彦1 秒前

    ここに匿名で書き込んでいる諸君も各自で自分の書き込みに法律の根拠条文を示せないなら、
    新聞に実名報道された他人について法律の根拠なく公共の掲示板で罪人であると誹謗中傷した誣告犯罪者になって、
    名誉棄損罪という刑罰を受ける可能性があることを考慮して、慎重に言葉を選んで書き込む必要があるね。
    ましてや、折田氏はひき逃げを否定しているから、まだひき逃げ犯人であるとは刑法上全く確定していない。
    この段階で君らが法律の根拠も示さず折田氏をひき逃げ犯人であると誹謗中傷すればそれだけで名誉棄損現行犯である。
    すべてのインターネットの書き込みはログがサーバーに残るので、個人の特定は匿名であっても容易なのだ。
    自分に法律の知識がないなら誹謗中傷を自分で削除すれば罪を問われることはない。
    書き込みを残せば書き込みで誹謗中傷された被害者が被害に気付いて警察に告発すれば必ず逮捕されて厳正に処罰される。
    削除しないで残しておくならあらかじめ自首して刑の減免を画策しておくことだね。この場合必ず前科が付くけどね。
    _______

    148. 豊岳正彦[-5148] lkyKeJCzlUY 2020年9月29日
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c148
    朝日新聞デジタル>記事「杉田氏は議員辞職を」共産・小池氏
    共産党・小池晃書記局長(発言録)
     自民党の杉田水脈衆院議員が(女性への性犯罪に絡んで)「女性はいくらでもウソをつける」と発言した問題で、厳しく抗議し、議員辞職を求める。杉田氏は自民党の比例選出で、これまで何度も問題発言や暴言を繰り返してきた。自民党はいつまで議員の座にとどめておくのか、厳格な対応を求めたい。

     性暴力に反対して戦ってきた女性を中心とする「フラワーデモ」の主催者が、発言の撤回と謝罪、議員辞職を求めるオンライン署名を始め、わずか2日間で8万人を超えた。

     (杉田氏の)ブログでは、さらに無責任な発言が続いている。例えば「被害者が民間の相談所に相談して気が晴れましたで終わっては、根本的な解決にはならない」。だから警察が積極的に関与すべきだと述べているが、実態を全くわきまえない無責任な発言だ。

     発言はひどい女性差別であると同時に、性暴力被害者をおとしめるセカンドレイプだ。国会議員の資格はないと言わざるを得ない。(28日、記者会見で)
    _________

    謝罪というのは罪を謝るという意味だが、杉田氏はいかなる法律の罪を犯したというのか、小池氏は根拠になる法律条文を示していないね。

    人が謝らねばならない罪とは、
    故意に犯した刑法違反の罪だけだが、
    小池氏はじめ謝罪を要求する人は必ず杉田氏が刑法第何条に違反しているとの刑法条文を示さなければ、
    そもそも何人であっても過失であってさえも謝りようがない。

    そんな法律の根拠が全くない言いがかりをつけて、
    わけのわからん謝罪要求を叫ぶにとどまらず、
    国民国王が選んだ他党の議員に議員辞職を要求する権利が、
    国民国王に選ばれた同じ議員に過ぎない小池氏にはかけらもないことが、
    小池氏にはわからない。
    これが共産党の書記長なら、以て瞑すべしは共産党である。

    逆にこのまま公共の面前で謝罪要求や議員辞職要求を続ければ、
    杉田氏に対し名誉棄損信用棄損威力業務妨害(国会議員公務遂行業務妨害)の、
    重罪の刑法違反を犯すのは、
    小池氏とオンライン署名で謝罪と議員辞職要求を叫んでいる現行犯人たちのほうであるよ。

    刑法罪名を示して書いたから、これも首相官邸電子政府ホワイトハウスに送信しておくよ。
    みんな六法全書をよく読んで、
    掲示板で刑法違反の犯罪を犯さないように、
    憲法を勉強して小6女子のように暗唱してください。

    小6が暗唱:日本国憲法前文! THE CONSTITUTION OF JAPAN
    youtube.com/watch?v=ePPDNN_QxME

    返信削除
  29. 文豪とアルケミストにハマったそうです
    youtube.com/watch?v=LOF3ZeJ-DU8&lc=UgzSFpUOsW6xTK7rplR4AaABAg.9E9OHcyjhQG9EDka51jhAI
    豊岳正彦
    1 秒前
    MogMogさんはGHQが自分のスパイ以外を全部死刑にして口封じをした極東軍事裁判が冤罪100%なわけがないと言ってるね。
    杉田議員実名の掲示板で匿名を使うのは無責任な落書きしようという憲法違反汚職犯公務員や浅薄無知中傷犯朝日新聞記者と同じだが、
    国会議員やわたしのようには戸籍実名で書く度胸がないのだろうから、もう一度GHQとABCCについて勉強してからおいでなさい。
    憲法や法律を知らないだけじゃなく、自分の祖先について何にもご存じないようだから。

    ところで、
    杉田さんはじめ700人の衆参両院所属国会議員先生がたへ、
    仏教伝道協会出版「仏教聖典」令和2年発行第1266版をこの8月にご贈呈いたしましたが、
    仏教伝道協会の上層部に仏教徒ではない幹部がいる様子で、
    もともとの編纂者広島県志和村の安芸門徒沼田恵範氏が刊行した仏教聖典から沼田氏が鬼籍に入られたのちの、
    おそらく2011年311東北津波震災原発放射能拡散が起こった後、
    沼田恵範仏教聖典から最も大切な大乗の教えを記した部分を数ページ以上ごっそり、
    現在の仏教徒でない伝道協会の上層部が勝手に削除しております。

    私は幸い沼田氏がご存命だった昭和60年発行の沼田恵範氏ご自身が編纂した第237版を持っていますので、
    第1266版で削られた大事な部分をタイプして、
    国会議員先生がたや現行の1266版を購入された人たちにもみんながひとしく、
    沼田恵範氏がお経を丹精込めて日本語に翻訳して発刊した本当の願いが間違いなく皆様へ届くように、
    ネット上で第238版を世界中へ公開してまいります。

    まずは、削られた大乗仏教の部分から順次タイプしていきますが、
    最も大切な大乗仏教の【政教分離】の教え「七不衰法と大光王転輪王統治」部分はすでに世界中にタイプして発信済です。
    すでに阿修羅へ読みやすい形で掲載しましたから、こんごこちらや国会議員先生のブログやチャンネルへ全員の方へご送信申し上げます。

    もう一つ、最も大切な「女性の生き方」
    これを仏教伝道協会の現上層部は削り取っていますが、
    その本心はどうあれ私がすべてタイプしてアップして補ってしまいますから、ご安心ください。
    仏様の教えを正しく弘めることこそが、仏さまから言いつかった仏弟子仏教徒のこの世で最も大事なお務めですから。

    では次の投稿からはじめます。
    タイプが必要な女性の生き方は本日午後になろうかと存じますのでお待ちください。
    豊岳正彦豊岳小児科院長 謹白


    豊岳正彦
    豊岳正彦
    2 日前
    日本の裁判は戦後は完全に冤罪100%ですからGHQがNHKと一緒に作った奇形司法最高裁で。

    2


    Mog Mog
    注目の返信
    Mog Mog
    14 時間前
    冤罪100%なわけないでしょう

    1

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  30. 155. 豊岳正彦
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c155

    >>153憐れ愚かな楽老よ
    わたしが一切衆生悉有仏性の無我平等仏教徒だから、

    私の言葉に女性差別などないことが心が清い人にはわかるというだけの話である。

    お釈迦様の教えを示そう。

    心を修めて心を清めればその意味が腑に落ちるだろう。

    hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html

    仏教聖典p229第三節もろ人のために から転載する。


    七不衰法


    一、(長阿含經第二、遊行經)

     ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。

     一つには、国民はしばしば会合して政治を語り、国防を厳にして自ら守り、

     二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、

     三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、

     四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、

     五つには、父母に孝し、師長に仕え、

     六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、

     七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。

     どんな国でも、

    この七つの教えをよく守って破ることがないならば、

    その国の栄えることは疑いがなく、

    外国の侮りを受けることはないであろう。



    [18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

    156. 豊岳正彦
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c156

    わたしの仏教聖典は現行の令和2年1月発行第1266版ではなく昭和60年発行第237版である。
    1266版では237版から大量に経文が削除されているので、ここに削除部分の経文を書き込んで補填しよう。

    さくじょされたのは、仏教聖典なかま第二章生活の指針第二節女性の生き方から削除されており、
    第三節もろびとのために、は八項すべて削除された。

    私の237版でいうと221ページから238ページまでの17ページ分がすべて1266版で削除されたのである。

    まず、諸人のために、の>>155のつづきから以下に記す。
    _____

    hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html


    二、(華厳経第三四、入法界品)

     昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。

    「自分の国家を治める道は、

    まず自分を修めることである。

    自ら慈の心を養って、

    この心をもって国民に臨み、

    人びとを教え導いて

    心の垢を除き去り、

    身と心を和らげて、

    世の中の楽しみにまさる

    正しい教えの喜びを得させる。

     また、

    貧しいものが来たときには、

    蔵を開いて心のままに取らせる。

    そしてこれを手がかりとして、

    すべての悪から遠ざかるように戒める。

     人びとは各々

    その心をもととして、

    見るところを異にする。

    この城中の民にしても、

    この都を美しいと見るものもあれば、

    また汚いと見るものもある。

    これは各々、

    その心、

    その環境がそうさせるのである。

     教えを尊び、

    心の正しい素直な人は、

    木石にも瑠璃の光を見るのであるが、

    欲が深くて

    自分を修めることを知らない者は、

    どんな立派な御殿でも

    なお美しいと見ることはできない。

     国民の生活は、

    万事みなこのとおり、

    心がもとになっているから、

    わたしは

    国を治める大もとを、

    民にその心を修めさせることに置いている。」

    三、(金光明經第一二、四天王護国品)

     大光王のことばどおり、

    政道の大もとは、

    民にその心を修めさせることにある。

     この心を修めることは、

    さとりの道に進むことであるから、

    政治の上に立つ人は、

    まず仏の教えを信じなければならない。

     もし政治を行う人が、

    仏を信じ、

    教えを信じて、

    慈悲深く徳のある人を敬い、

    これに供養するならば、

    敵もなく、

    恨みもなく、

    国家は必ず栄えるに違いない。

     そして、

    国が富み栄えるならば、

    他の国を貪り攻めることもなく、

    また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。

     したがって

    国民も満足して楽しみを受け、

    上下和らいでむつみあい、

    善を増し

    徳を積んで、

    互いに敬愛し

    喜び合うから、

    いよいよ人は栄え、

    寒さ暑さもととのい、

    日も月も星も常の程度を失わず、

    風雨が時に従うようになり、

    こうしていろいろの災いも、

    遠ざかるようになるであろう。

    四、大光王(大薩遮尼揵子所説經)

     王たるものの勤めは、

    民を守ることにある。

    王は

    民の父母であり、

    教えによって民を守るからである。

    民を養うことは、

    父母が赤子を養うようなもので、

    父母が赤子のことばを待たず、

    湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、

    いつも民に幸いを与えて

    悩みを去るよう、

    慈しみ養うのである。

    まことに王は、

    民をもって

    国の宝とする。

    これは、

    民が安らかでなければ、

    政道が立たないからである。

     だから、

    王たるものは、

    民を憂えて

    しばらくも心を離さない。

    民の苦楽を察し、

    民の繁栄をはかり、

    そのためには、

    常に

    水を知り、

    風雨を知り、

    実りの善悪を知り、

    日照りを知り、

    民の憂いと喜びを知り、

    罪の有無と軽重、

    功績の有無などをよく知って、

    賞罰の道を明らかにする。

     このように、

    民の心を知って、

    与えなければならないものは

    時をはかって与え、

    取るべきものは

    よく量って取り、

    民の利を奪わないよう、

    よく税を軽くして

    民を安らかにする。

     王は

    力と権威によって

    民を守り、

    このようにして

    民の心になって

    民をよく見守るものが

    王と呼ばれる。



    豊岳正彦
    豊岳正彦
    1 秒前
    MogMogさんはGHQが自分のスパイ以外を全部死刑にして口封じをした極東軍事裁判が冤罪100%なわけがないと言ってるね。
    杉田議員実名の掲示板で匿名を使うのは無責任な落書きしようという憲法違反汚職犯公務員や浅薄無知中傷犯朝日新聞記者と同じだが、
    国会議員やわたしのようには戸籍実名で書く度胸がないのだろうから、もう一度GHQとABCCについて勉強してからおいでなさい。
    憲法や法律を知らないだけじゃなく、自分の祖先について何にもご存じないようだから。

    ところで、
    杉田さんはじめ700人の衆参両院所属国会議員先生がたへ、
    仏教伝道協会出版「仏教聖典」令和2年発行第1266版をこの8月にご贈呈いたしましたが、
    仏教伝道協会の上層部に仏教徒ではない幹部がいる様子で、
    もともとの編纂者広島県志和村の安芸門徒沼田恵範氏が刊行した仏教聖典から沼田氏が鬼籍に入られたのちの、
    おそらく2011年311東北津波震災原発放射能拡散が起こった後、
    沼田恵範仏教聖典から最も大切な大乗の教えを記した部分を数ページ以上ごっそり、
    現在の仏教徒でない伝道協会の上層部が勝手に削除しております。

    私は幸い沼田氏がご存命だった昭和60年発行の沼田恵範氏ご自身が編纂した第237版を持っていますので、
    第1266版で削られた大事な部分をタイプして、
    国会議員先生がたや現行の1266版を購入された人たちにもみんながひとしく、
    沼田恵範氏がお経を丹精込めて日本語に翻訳して発刊した本当の願いが間違いなく皆様へ届くように、
    ネット上で第238版を世界中へ公開してまいります。

    まずは、削られた大乗仏教の部分から順次タイプしていきますが、
    最も大切な大乗仏教の【政教分離】の教え「七不衰法と大光王転輪王統治」部分はすでに世界中にタイプして発信済です。
    すでに阿修羅へ読みやすい形で掲載しましたから、こんごこちらや国会議員先生のブログやチャンネルへ全員の方へご送信申し上げます。

    もう一つ、最も大切な「女性の生き方」
    これを仏教伝道協会の現上層部は削り取っていますが、
    その本心はどうあれ私がすべてタイプしてアップして補ってしまいますから、ご安心ください。
    仏様の教えを正しく弘めることこそが、仏さまから言いつかった仏弟子仏教徒のこの世で最も大事なお務めですから。

    では次の投稿からはじめます。
    タイプが必要な女性の生き方は本日午後になろうかと存じますのでお待ちください。
    豊岳正彦豊岳小児科院長 謹白



    豊岳正彦
    豊岳正彦
    2 日前
    日本の裁判は戦後は完全に冤罪100%ですからGHQがNHKと一緒に作った奇形司法最高裁で。

    2


    Mog Mog
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    Mog Mog
    14 時間前
    冤罪100%なわけないでしょう

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    https://www.youtube.com/watch?v=LOF3ZeJ-DU8&lc=UgzSFpUOsW6xTK7rplR4AaABAg.9E9OHcyjhQG9EDka51jhAI

    豊岳正彦
    豊岳正彦
    1 秒前
    157. 豊岳正彦
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c157

    五、転輪王
     この世の中の王を

    転輪王というが、

    転輪王とはその

    家系が正しく、

    身分が尊くて

    よく四辺を統御し、

    また

    教えを守るところの

    王である。

     この王のゆくところには、

    戦いもなく

    恨みもなく、

    よく教えによって

    徳をしき、

    民を安らかにして

    邪と悪を下す。


     また転輪王は、

    殺さず、

    盗まず、

    よこしまな愛欲を犯さず、

    偽り、

    悪口、

    二枚舌、

    むだ口を言わず、

    貪らず、

    瞋らず、

    愚かでない。

    この十善を行って

    民の十悪を去らせる。

     また、

    教えによって政治を正すから、

    天下において思いのままになすことができ、

    そのゆくところには戦いがなく、

    恨みもなく、

    互いに相犯すこともない。

    したがって、

    民は和らぎ、

    国は安らいで、

    民にいよいよ

    その生を楽しませることができる。

    だから

    教えを守る王といわれるのである。

     また転輪王は、

    王の中の王であるから、

    もろもろの王は

    みなその徳を喜び、

    その教えに従って

    各々その国を治める。

     このように転輪王は、

    もろもろの王をして

    各々その国に安んじさせ、

    正しい教えのもとに

    王の任を果たさせる。

    六、また王は

    罪を裁決するにも、

    慈悲の心をもととしなければならない。

    明らかな智慧をもって

    よく観察し、

    五つの原則をもって

    よく処置しなければならない。


     五つの原則というのは、

     一つには、

    実によって

    不実によらない。

    これは、

    事実を調べて、

    その事実によって

    処断することである。

     二つには、

    時(じ)によって

    非時(ひじ)によらない。

    これは、

    王に力のあるときが時(じ)であり、

    力のないときが非時(ひじ)である。

    力のあるときは罰しても

    効果があるが、

    力のないときには罰しても

    混乱があるだけであるから、

    時を待たなければならない。

     三つには、

    動機によって

    結果によらない。

    これは、

    罪を犯すものの心に立ち入って、

    それが

    故意であるか

    故意でないかを

    見きわめ、

    故意のことでなければ

    許すのをいう。

     四つには、

    親切なことばによって

    あらいことばによらない。

    これは、

    罪が

    規則のどれに当たるかを

    明らかにして

    罪以上の罰を

    与えないようにし、

    また

    柔らかい

    優しいことばで諭して

    その罪を

    覚(さと)らせるのをいう。

     五つには、

    慈悲の心によって

    瞋(いか)りの心によらない。

    罪を憎んで人を憎まず、

    慈悲の心をもととして、

    罪を犯したものにその罪を

    悔いあらためさせるように

    仕向けるのである。


     七、「日本国憲法最高法規」

    もし王の

    重臣であって

    国家の大計を思わず、

    ただ自分の利ばかりを求め、

    賄賂を取って

    政道を曲げ、

    人民の気風を

    頽廃させるならば、

    人民は

    互いに相欺くようになり、

    強い者は

    弱い者をしいたげ、

    貴い者は

    卑しい者を軽んじ、

    富んだ者は

    貧しい者を欺き、

    曲がった道理をもって

    正しいものを

    曲げることになるから、

    災いがいよいよ

    増長するようになる。

     すると

    忠実な重臣は

    隠れ退き、

    心あるものも

    危害を怖れて沈黙し、

    ただ

    へつらう者だけが

    政権をとって、

    みだりに

    公権を用いて

    私腹を肥やし、

    民の

    貧しさは

    少しも

    救われないようになる。

     このようになると、

    政令は

    行われなくなり、

    政道は

    まったくゆるんでしまう。

     このような悪人こそ、

    民の幸福を奪う

    盗賊であるから、

    国家の

    もっとも大きな

    悪賊といわなければならない。

    なぜなら、

    上を欺き

    下を乱して、

    一国の災いの

    源となるからである。

    王は

    このような者を、

    もっとも厳しく

    処罰しなければならない。

     また

    教えによって

    政治をしく

    王の国において、

    父母の生育の

    恩を思わず、

    妻子にだけ心を傾けて

    父母を養わず、

    あるいはまた、

    父母の所有を奪って

    その教えに

    従わないものは、

    これを

    もっとも大きな

    悪の中に

    数えなければならない。

     なぜなら、

    父母の恩はまことに重くて、

    一生心を尽くして

    孝養しても、

    し尽くせないもの

    だからである。

    「父母恩重経」

    主君に対して

    忠でなく、

    親に対して

    孝でない者は、

    もっとも重い

    罪人として

    処罰しなければならない。

     また

    教えによって

    政治をしく

    王の国の中においては、

    仏と教えと教団(仏法僧)の

    三宝に対して

    信ずる心がなく、

    寺を壊し

    経を焼き、

    僧侶を捕らえて

    駆使するなど

    仏の教えを

    破る行いをする者は、

    もっとも重い

    罪の者である。

     なぜなら、

    これらは

    すべての善行のもとである

    民の信念を

    覆すものだからである。

    これらの者は、みな

    すべての

    善根を焼き尽くして、

    自ら自分の穴を

    掘るものである。

     この

    三種の罪が

    もっとも重く、

    したがって

    もっとも厳しく処罰しなければならない。

    その他の罪は、

    これらに比べると、

    なお軽いと

    いわなければならない。


    八、「日本国憲法前文及び第二章戦争の放棄第九条、一刀正伝無刀流極意」

     正しい教えを守る王に対して

    逆らう賊が起こるか、

    あるいは

    外国から攻め侵す

    ものがあるときは、

    正しい教えの王は

    三種の思いを

    持たなければならない。

     それは、

    第一には、

    逆賊または外敵は、

    ただ人を損い

    人民を虐げることばかりを

    考えている。

    自分は

    武力をもって

    民の苦しみを救おう。

     第二には、

    もし方法があるなら、

    刃(やいば)を動かさないで、

    逆賊や外敵を

    平らげよう。

     第三には、

    敵をできるだけ

    生け捕りにして、

    殺さないようにし、

    そしてその

    武力をそごう。

    王はこの

    三つの心を起こして、

    それから後に

    部署を定め

    訓令を与えて

    戦いにつかせる。

     このようにするとき、

    兵はおのずから

    王の威徳を

    おそれ敬って

    よくその恩になずき、

    また

    戦いの性質をさとって

    王を助け、

    そして

    王の慈悲が

    後顧の憂いをなくすことを

    喜びながら、

    王の恩に

    報いるために

    戦いに従うから、

    その戦いは

    ついに

    勝利を得るだけでなく、

    戦いも

    かえって

    功徳となるであろう。


    山岡鉄舟高歩大維摩居士武士道四恩報恩至誠無門関成正等覚南無父母恩重経。


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  32. 阿修羅♪
    杉田水脈が自民党の“性暴力”議論で「女性はいくらでも嘘をつける」と暴言! 伊藤詩織さん攻撃でも被害女性を貶める差別思想が(リテラ)

    160. 豊岳正彦
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c160

    憐れ愚かな楽老よ
    世界中に楽老という不出来なコテハン弘めといてあげたから、これからは阿修羅を出て、

    「阿修羅のほうから来ました楽老でげす」と名乗って拙い知識を世界中のみんなにまるっと見せてやるがいい。

    喜べ、俺に絡んだおかげでネットで一番の有名匿名外道になれたぞ、

    お礼は言わんでいい、ほんの小さな親切だ、朝飯前のお茶の子さいさいだよ

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  33. 仏教聖典1266版の落丁補填1

    写経仏教聖典第237版なかま
    hougakumasahiko.muragon.com/entry/112.html

    「仏教聖典_なかま_第一章、人のつとめ_第一節、出家の生活」
    ・・p196~(パーリ-本事經一〇〇・中部一-三、法嗣經、パーリ、本事經九二、律蔵大品一-三〇、中部四ー三九・四〇馬邑大小經、法華経第一九法師品、法華経第一四安楽行品)



     一、わたしの弟子になろうとするものは家を捨て世間を捨て財を捨てなければならない。

    教えのためにこれらすべてを捨てたものはわたしの相続者であり、出家とよばれる。

     たとえ、わたしの衣の裾をとって後ろに従い、わたしの足跡を踏んでいても、

    欲に心が乱れているならば、その人はわたしから遠い。

    たとえ、姿は出家であっても、彼は教えを見ていない。

    教えを見ない者はわたしを見ないからである。

     たとえ、わたしから離れること何千里であっても、

    心が正しく静かであり、

    欲を離れているなら、

    彼はわたしのすぐそばにいる。

    なぜかというと、彼は教えを見ており、

    教えを見る者はわたしを見るからである。

     二、出家の弟子は次の四つの条件を生活の基礎としなければならない。

     一つには古布をつづり合わせた衣を用いなければならない。

    二つには托鉢によって食を得なければならない。

    三つには木の下、石の上を住みかととしなければならない。

    四つには腐尿薬のみを薬として用いなければならない。

     食物を入れる容器を手にして戸ごとに食を乞うのは乞食(こつじき)の行であるが、

    それは他人に脅かされたためでもなく、

    他人に誘われ欺かれたためでもない。

    ただこの世のあらゆる苦しみを免れ、

    迷いを離れる道がここで教えられることを信じてなったのである。

     このように出家していながら、

    しかも欲を離れず、

    瞋(いか)りに心を乱され、

    五官を守ることができないとしたら、

    まことにふがいないことである。

     三、自ら出家であると信じ、

    人に問われてもわたしは出家であると答える者は、

    次のように言うことができるに違いない。

     「わたしは出家としてしなければならないことは必ず守る。

    この出家のまことをもって、

    わたしに施しをする人に、大きな幸いを得させ、

    同時に、

    わたし自身の出家した目的を果たすようにしよう。」

     さて、

    出家のしなければならないこととは何であるか。

    慚(ざん)と愧(ぎ)をそなえ、

    身と口と意(こころ)による三つの行為と生活を清め、

    よく五官の戸口を守って、

    享楽に心を奪われない。

    また、

    自分をたたえて他人をそしるということをせず、

    怠けて眠りにふけることがない。

     夕方には静座や歩行をし、

    夜半には右わきを下に、

    足と足とを重ね、

    起きるときのことをよく考えて静かに眠り、

    明け方にはまた

    静座したり歩行したりする。

     また

    日常生活においても

    つねに正しい心でなければならない。

    静かなところを選んで座を占め、

    身と心とをまっすぐにし、

    貪り、

    瞋(いか)り、

    愚かさ、

    眠け、

    心の浮わつき、

    悔い、

    疑いを

    離れて

    心を清めなければならない。

     このように心を統一して、

    すぐれた智慧を起こし、

    煩悩を断ち切って、

    ひたすらさとりに向かうのである。

     四、もし

    出家の身でありながら、

    貪りを捨てず、

    瞋りを離れず、

    怨み、

    そねみ、

    うぬぼれ、

    たぶらかし、

    といった

    過ちを覆い隠すことをやめないなら、

    ちょうど両刃(もろば)の剣を

    衣に包んでいるようなものである。

     衣を着ているから出家なのではなく、

    托鉢しているから出家なのではなく、

    経を誦(よ)んでいるから出家なのではなく、

    外形がただ出家であるのみ、

    ただそれだけのことである。

     形がととのっても、

    煩悩をなくすことはできない。

    赤子に衣を着けさせても

    出家とよぶことはできない。

     心を正しく統一し、

    智慧を明らかにし、

    煩悩をなくして、

    ひたすらさとりに向かう

    出家本来の道を歩く者でなければ、

    まことの出家とはよばれない。

     たとえ血は涸れ、

    骨は砕けても、

    努力を加え、

    至るべきところへ至らなければならないと決心し、

    努め励んだならば、

    ついには出家の目的を果たして、

    清らかな行いを成しとげることができる。

     五、また、

    出家の道は、

    教えを伝えることである。す

    べての人びとに教えを説き、

    眠っている人の目を覚まさせ、

    邪見(じゃけん)な人の心を正しくし、

    身命(しんみょう)を惜しまず、

    広く教えを布(し)かなければならない。

     しかし、この

    教えを説くということは

    容易でないから、

    教えを説くことを志す者は、みな

    仏の衣を着、

    仏の座に坐り、

    仏の室に入って

    説かなければならない。

     仏の衣を着るとは、

    柔和であって

    忍ぶ心を持つことである。

    仏の座に坐るということは、

    すべてのものを空(くう)と見て、

    執着を持たないことである。

    仏の室に入るとは、

    すべての人に対して

    大慈悲の心を抱くことである。

     六、またこの

    教えを説こうと思う者は、

    次の四つのことに心をとどめなければならない。

    第一にはその身の行いについて、

    第二にはそのことばについて、

    第三にはその願いについて、

    第四にはその大悲についてである。

     第一に、教えを説く者は、

    忍耐の大地に住し、

    柔和であって荒々しくなく、

    すべては空(くう)であって

    善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また

    執着すべきものでもないと考え、ここに

    心のすわりを置いて、

    身の行いを柔らかにしなければならない。

     第二には、

    さまざまな境遇の相手に

    心をくばって、

    権勢あるものや邪悪な生活をする者に

    近づかないようにし、また

    異性に親しまない。

    静かなところにあって

    心を修め、

    すべては因縁によって起こる

    道理を考えてこれを

    心のすわりとし、

    他人を

    侮らず、

    軽んぜず、

    他人の

    過ちを

    説かないようにしなければならない。

     第三には、自分の

    心を安らかに保ち、仏に向かっては

    慈父の思いをなし、道を修める人に対しては

    師の思いをなし、すべての人びとに対しては

    大悲の思いを起こし、

    平等に教えを

    説かなければならない。

     第四には、仏と同様に

    慈悲の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、

    必ず教えを聞くことが

    できるようになってほしいと心に願い、その

    願いに従って

    努力しなければならない。

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  34. 仏教聖典1266版の落丁補填1
    第二節 信者の道
    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c161

     一、パーリ、相応部五五-三七・増支部三-七五

     仏教を信ずる者とは、

    三宝、すなわち、

    仏*と

    教え*と

    教団*を

    信ずる者のことであるということは、すでに説いた。

     だから、

    仏教を信ずるものは、

    仏と教えと教団に対して、破れることのない

    信を抱き、教えが命じている

    信者としての

    戒律を守らなければならない。

     在家者としての

    戒とは、

    ものの命を取らず、

    盗まず、

    よこしまな愛欲にふけらず、

    偽りを言わず、

    酒を飲まないことである。

     在家者はこの

    三宝に対する信と、在家者としての

    戒を保つとともに、他人にもこの

    信と戒とを得させるようにしなければならない。

    親戚、

    友人、

    知人の間に

    同信の人をつくるように

    努めなければならない。そうすることによって

    彼らもまた

    仏の慈悲に浴することができる。

     三宝に対する

    信を持ち、在家としての

    戒を守ることは、さとりを得るためであるから、

    在家の

    愛欲の生活の中にあっても、

    愛着に縛られないようにしなければならない。

     父母ともついには別れなければならない。

    家族ともついには離れなければならない。

    この世もついには去らなければならない。

    別れなければならないもの、去らなければならないものに

    心を縛られず、別離というもののない

    涅槃*に

    心を寄せなければならない。

     二、華厳経第二二、十地品

     仏の教えを聞いて、

    信が厚く、

    退くことがなければ、

    喜びは

    自然にわき起こる。この境地に入れば、何ごとにも

    光を認め、

    喜びを

    見いだしてゆくことができる。

     その

    心は

    清く柔らかに、常に

    耐え忍んで、

    争いを好まず、人びとを

    悩まさず、

    仏と教えと教団を思うから、

    喜びは自然にわきいで、

    光はどこにでも見いだされる。

     信ずることによって

    仏と一体になり、

    我(が)という思いを離れているから、わがものを

    貪(むさぼ)らず、したがって、生活に

    恐れがなく、

    そしられることをいとわない。

     仏の国に生まれることを

    信じているから

    死を恐れない。教えの真実と尊さを

    信じているから、人びとの前に出ても、

    恐れることなく自分の

    信ずるところを

    言うことができる。

     また

    慈悲を

    心のもととするから、すべての人に対して

    好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、

    進んであらゆる

    善を修める。

     また順調の時も逆境の時も

    信仰を増し、

    恥を知り、

    教えを敬い、

    言ったとおりに行い、

    行うとおりに言い、

    ことばと行いが一致し、

    明らかな智慧*をもってものを見、

    心は山のように動かず、ますます

    さとりへの道に

    進むことを願う。

     また、どんなできごとに出会っても、

    仏の心を心として

    人びとを導き、濁った世の中にも、汚れた人びとの間にも

    交わって、その人びとが

    善にうつるように

    尽くすのである。


     三、大槃涅槃経

     だから、だれでもまず自ら

    教えを聞くことを

    願わなければならない。

     だれかが「この燃え立つ火の中へ入れば教えが得られる。」と言うなら、その

    火の中へ入る

    覚悟を持たなければならない。

     世界に満ちた

    火の中に分け入って

    仏の名を聞くことは、まことにその人の

    救いだからである。

     このようにして自ら

    教えを得て、

    広く施し、敬うべき

    人を敬い、仕えるべき

    人に仕え、深い慈悲の心をもって

    他人に向かわなければならない。

    利己的であったり、

    思うままにふるまうのは、

    道を行う人の

    行ではない。

     このようにして教えを

    聞き、教えを

    信じ、他人を

    うらやまず、他人のことばに

    迷うことなく、自分のするしないについて

    省みることが肝心であり、他人のするしないを

    心にかけてはならない。

    何よりも自分の

    心を

    修めることが大切なのである。

     仏を信じない人は、

    自分のことだけを

    思いわずらうから、

    心が狭く

    小さく、いつもこせこせと

    焦るのである。しかし、仏を

    信ずる人は、背後の

    力、背後の

    大悲を

    信ずるから、自然に

    心が広く

    大きくなり、

    焦らない。


     四、大槃涅槃経

     また、教えを

    聞く人は、もとよりこの

    身を

    無常*なものと

    見、

    苦しみの集まるもとと

    見、

    悪の源と

    見るから、この身に

    執着しない。

     しかしまた、この身を大切に

    養うことを

    怠らない。それは楽しみを

    貪るためではなく、道を

    得、道を

    伝えるためである。

     この

    身を守らなければ

    命をまっとうすることができず、

    命をまっとうしなければ、

    教えを受けて

    身に行うことも、また教えを

    広く伝えることもできない。

     河を

    渡ろうとする者は

    筏をよく守り、

    旅をする人は

    馬をよく守るように、

    教えを聞く人はその

    身を大切に

    守らなければならない。

     また仏を

    信ずる者は、

    着物を着るにも

    虚飾のためにせず、ただ

    羞恥のためにし、

    寒さ暑さを防ぐためにしなければならない。

     食物をとるにも

    楽しみのためにせず、

    身をささえ養って

    教えを受け、または

    説くためにしなければならない。

     家に住むにも同じく、

    身のためにし、

    虚栄のためにしてはならない。

    さとりの家に住み、

    煩悩*の賊を防ぎ、

    誤った教えの

    風雨を避けるためと、

    思わなければならない。

     すべてこのように、何ごとも

    身のためを思わず、他人に対しても

    おごる思いをせず、ただ

    さとりのため、

    教えのため、

    他人のためと思って

    しなければならない。

     だから、

    家にあって家族と一緒にいても、その

    心はしばらくも教えを

    離れない。

    慈悲の心をもって家族に従っているが、

    手段を示して彼らに

    救いの道を

    教えるのである。


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  35. 仏教聖典1266版の落丁補填1

    asyura2.com/20/senkyo276/msg/137.html#c161

     五、華厳経第七、浄行品

     またこの

    仏教教団の

    在家者には、日常、

    父母に仕え、

    家族に仕え、

    自分に仕え、

    仏に仕える

    いろいろな心がけがある。

     すなわち、

    父母に仕えるときには、一切を

    守り

    養って、永く平和を

    得ようと思い、

    妻子と一緒にいるときは、

    愛着の牢獄から

    脱しなければならないものと思わなければならない。

     音楽を聞いているときには、教えの

    楽しみを得ようと思い、

    室にいるときは、賢者の

    境地に入って永く汚れを

    離れようと思わなければならない。

     また、

    たまたま他人に

    施しをするときは、

    すべてを捨てて

    貪(むさぼ)る心をなくそうと思い、

    集いの中にあるときには、

    諸仏の集いに

    入ろうと思い、

    災難にあったときには、どんなことにも

    動揺しない心を

    得ようと

    願わなければならない。

     また仏に

    帰依するときには、

    人びととともに

    大道を

    体得して、

    道を求める

    心を起こそうと

    願い、教えに

    帰依しては、人びととともに深く教えの

    蔵に入って、

    海のように大きい

    智慧を得ようと願い、

    教団に

    帰依しては、人びととともに

    大衆を

    導いて、すべての障害を

    除こうと願うがよい。

     また、着物を

    着るなら

    善根(ぜんごん)と

    慚愧(ざんぎ)を衣服とすることを忘れず、

    大小便をするときは、

    心の

    貪(むさぼ)りと

    瞋(いか)りと

    愚かさの

    汚れを除こうと願い、

     高みに昇る

    道を見ては、

    無上の道へ昇って迷いの世界を

    超えようと思い、

    低きに下る道を見ては、

    優しくへり下って奥深い教えへ

    入ろうと願うがよい。

     また、橋を見ては、教えの橋を作って人を

    渡そうと願い、

    なげき悲しむ人を見ては、

    うつり変わって常なきものを

    なげく心を起こし、

    欲を楽しむ人を見ては、幻の生活を

    離れてまことのさとりを

    得ようと願い、

    おいしい食物を得ては、永く世間の欲を

    遠ざけようと願うがよい。

     また夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を

    離れて

    涼しいさとりの味わいを

    得たいと願い、

    冬の寒さの激しいときには、

    仏の大悲の

    温かさを願うがよい。

     経を誦(よ)むときには、

    すべての教えを保って

    忘れないようにと願い、

    仏を思っては、

    仏のようなすぐれた

    眼(まなこ)を得たいと願い、

    夜眠るときには、

    身(からだ)と口と意(こころ)のはたらきを

    休めて

    心を清めようと願い、

    朝目覚めては、すべてを

    さとって、何ごとにも

    気のつくようになろうと願うがよい。


     七、華厳経第二一、金剛幢菩薩十廻向品

     仏教を信ずる者は、このようにして、

    仏を信じ、その信の心をもって世の中のことを尊く

    味わうが、またその心をもって、身をへり下らせて他人に

    仕える。

     だから、仏教を信ずる者には

    おごる心がなく、

    へりくだる心、他人に

    仕える心、大地のようにすべてを

    載せる心、すべてに仕えて

    いとわない心、すべての苦しみを

    忍ぶ心、

    怠りのない心、すべての貧しい人びとに善根を

    施す心が起こる。

     このように、人びとの貧しい心を

    哀れみ、すべての人びとの

    慈母となってその心を

    育てようとする心は、そのまま、すべての人びとを父母のように

    敬い、自分の尊い善き師として

    崇(あが)める心である。

     だから、仏教を信ずる者に対して、たとえ、
    百千の人びとが怨みを起こし、
    敵視し、
    害を加えようとしても、その心のままに
    なしとげることはできない。

    例えば、どのような毒でも、大海の水を汚し損なうことができないようなものである。


     八、大槃涅槃経

     仏教を信ずる者は、また、

    省みておのれの幸せを

    喜び、この仏を信ずる心はまったく

    仏の力によるものであり、仏の

    たまものであると

    感謝する。

     また煩悩の

    泥の中には、信仰心の

    種はないのであるが、この泥の中に仏の

    慈悲が植えつけられて、仏を信ずる

    心となったことを、明らかに

    知る。

     さきに説いたように、エーランダという毒樹の林に、チャンダナ(栴檀せんだん)香木の芽が生えるはずはなく、
    煩悩の胸の中に、仏を信ずる種が芽生えるはずはない。

     しかも、いま

    現に芽生えて

    歓喜の花が煩悩の胸の中に開くのは、その

    根はそこになく、別のところにあると知られるのである。その根は

    仏の胸の中にある。

     仏を信ずる者も、
    我(が)の思いに立つときは、
    貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの心から、
    他人をそねみ、
    ねたみ、
    にくみ、
    損なったりする。

    しかし

    仏に

    帰ると、いまいうような大きな仏の

    仕事をするようになる。これはまことに、

    不可思議といわなければならない。

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  36. 仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三節仏のたとえ_第一項_雑宝蔵経

     遠い昔、棄老国と名づける、老人を棄(す)てる国があった。

    その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。

     その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。

     ところがここに一大事が起きた。

    それは神が現れて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。

     「ここに二匹の蛇がいる。

    この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。

     王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。

    王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。

     かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。

     「それは易しいことだ。

    柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。

    そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」

     大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。

     それから神は、次々にむずかしい問題を出した。

    王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。

    その問いと答えとは次のようなものであった。

     「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるものは誰か」

    「それは、いま道を修行している人のことである。

    道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。

    すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」

     「大きな象の重さはどうして量るか。」

    「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。

    次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」

     「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」

    「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永久(とこしえ)に消えない。

    大海の水は多いといっても、ついに尽きることがある。

    これをいうのである。」

     次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。

    「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」

    「ある。

    世にもし、心がかたくなで貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間餓えに苦しまなければならない。」

     「ここに真四角な栴檀の板がある。

    この板はどちらが根の方であったか。」

    「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。

    それによって根の方を知ることができる。」

     「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。

    どうしてその母子を見分けるか。」

    「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」

     これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。

    そして王は、この智慧*が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。

    _________


    *智慧(般若はんにゃprajna)
     普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが”仏陀”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を、”般若波羅密はんにゃはらみつ”という。



    南無父母無二佛  合掌

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  37. 法句経『仏陀の言葉』

    まこと、怨みごころは

    いかなるすべをもつとも

    怨みをいだくその日まで

    この地上にはやみがたし

    ただうらみなさによりてこそ

    このうらみは息(や)む

    これ易(かは)りなき眞理(まこと)ぞ。



    出典 角川文庫--966--
    「法句經講義」友松圓諦(ともまつゑんたい)昭和30年角川書店発行

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  38. 仏教聖典 おしえ (第237版本) (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:02:53
    第二章 人の心とありのままの姿

     第一節 変わりゆくものには実体がない

     一、パーリ、律蔵大品一-六

     身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。

     もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

     王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

     それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

     もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。


     二、パーリ、相応部五六-一一

     この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。

     無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

     このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

     心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

     だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。

     智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

     身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

     流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

     智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。


     三、パーリ、増支部五-四九・四-一八五・三-一三四

     この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。

     世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。

     また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。

     すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。

    仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。


    ****用語解説*****

    *因縁(hetu-pratyaya)___
     因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。

    *縁起(pratityasamutpada)___
     因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。

    *無常(anitya)___
     あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

    *智慧(般若prajna)___
     普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、
    正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。
    単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、
    これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

    *無我(anatman)___
     仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

    *無明(avidya)____
     正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。
    学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。
    したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。
    生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

    *仏(佛陀 Buddha)____
     梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。
     大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
     なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。
     

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  39. 仏教聖典から (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:26:35
     第二節 心の構造

     一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
     
     人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

     絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。

     心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。

     すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。


     二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

     この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。

     生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。

     迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。

     このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。


     三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

     しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)

     この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 

     身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。

     第四章 煩悩

     第一節 心のけがれ

     一、仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

     一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である。二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

     この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明(むみょう)、二つには愛欲となる(この二つの煩悩は、無明と愛欲となる)。

     この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

     無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。

     この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見(じゃけん)、恨み、嫉(ねた)み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


     二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。

     この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。

     まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。


     三、貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

     したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。

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  40. 第四章 煩悩  第一節 心のけがれ (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:27:49
     四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

     この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。

     この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。


     五、人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。

     人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

     人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。

     人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。

     また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。

     また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。


    六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

     愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

     愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

     飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

     一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。


     七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

     心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

     意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

     知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
     
     人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
     

     八、人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

     この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

     限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

     だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。

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  41. 第四節  迷いのすがた (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:29:15
    第四節  迷いのすがた

     一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

     身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

     富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

     貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

     すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。


     二、また、この世には五つの悪がある。

     一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。

     二つには、親子、強大、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。

     三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

     四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。

     五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。


     三、人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

     この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

     人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

     善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


     四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

     このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

     まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


     五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

     ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

     栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
     

     六、だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

     ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

     ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

     どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


     七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

     だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。

     いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。

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  42. 仏教聖典_はげみ (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:31:26
    はげみ

    第1章 さとりへの道 

     第一節 心を清める

     一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

     第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

     見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

     第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

     第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

     第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

     第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


     二、世には五つの欲がある。

     眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。

     多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。


     三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

     このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

     ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

     またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

     これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


     四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

     名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

     愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

     貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


     五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。 
                                         
     美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

     道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。

     道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


      六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

     身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

     宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

     貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。


     七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。

     牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

     人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

     牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

     人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。


     八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

     そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」「世尊よ、また他の町へ移ります」

     「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」

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  43. 善い行い (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:33:01
     第二節 善い行ない


     一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。

    身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。

    口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。

    意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

     心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。

    だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

     二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。

     あるとき、その女中がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

     そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

     「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

     女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。


     三、だれでもこの女主人と同じである。

    環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。

    しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

     自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

     だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。

    仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


     四、すべてことばには、

    時にかなったことばとかなわないことば、

    事実にかなったことばとかなわないことば、

    柔らかなことばと粗いことば、

    有益なことばと有害なことば、

    慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

     この五対のいずれによって話しかけられても、

     「わたしの心は変わらない。

    粗いことばはわたしの口から漏れない。

    同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」

    と努めなければならない。

     たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。

    このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。

     だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。

     また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、

    また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、

    また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、

    どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。

     人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。

     たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。

    どんな場合に当たっても、
     
     「私の心は動かない。

    憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。

    同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。

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  44. 善い行い (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:34:05
    五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。
    ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。

     はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。

     賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。

     これはたとえである。

    ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。

    「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。

    「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。

     「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。

    「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。

     「かんぬき」とは無明のこと、
    「水泡」とは怒りと悩み、
    「刺叉」とはためらいと不安、
    「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、
    「亀」とは身と心のこと、
    「牛殺しの刀」とは五欲のこと、
    「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。

    これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。

     最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。

    わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。

     掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。

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  45. 善い行い (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:34:41
     六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。

    コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。

     夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。

    ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。

     妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。

    彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。

    そして、彼の教えに耳を傾けた。

     目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。

    淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。

    ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。

     怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。

     いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。

     ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。

    これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。


     七、その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。

     「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」

     「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。

    年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。

    この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」

     「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。

    仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」

     「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。

    このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」

     「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。

    しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。

    汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。

    仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」

     「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。

    目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、

    そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。

    この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」

     「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。

    わたしの経験によってもそのとおりである。

    五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。

    五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」

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  46. 善い行い (豊岳正彦)
    2017-06-24 12:35:21
     八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。

    人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。

    人はこの反作用に用心しなくてはならない。

    それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。

    それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。

    それは風に向かってちりを掃くようなものである。

    それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。

    仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


     九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。

    それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。

     人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。

    他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。

     一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。

     道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。

    志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。

    道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。


     十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。

       一、貧しくて、施すことは難く、

       二、慢心にして道を学ぶことは難く、

       三、命を捨てて道を求めることは難く、

       四、仏の在世に生を受けることは難く、

       五、仏の教えを聞くことは難く、

       六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、

       七、よいものを見て求めないことは難く、

       八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、

       九、辱められて怒らないことは難く、

       十、事が起きても無心であることは難く、

      十一、広く学び深く究めることは難く、

      十二、初心の人を軽んじないことは難く、

      十三、慢心を除くことは難く、

      十四、よい友を得ることは難く、

      十五、道を学んでさとりに入ることは難く、

      十六、外界の環境に動かされないことは難く、

      十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、

      十八、心をいつも平らかに保つことは難く、

      十九、是非をあげつらわないことは難く、

      二十、よい手段を学び知ることは難い。


     十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。

    悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。

    善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。

     このように、善人と悪人とは違っている。

     愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。

     一方賢い人とは

    常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、

    すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。

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  47. 太陰暦「仏教聖典」 ほとけ (豊岳正彦)
    2017-06-24 15:48:07
    第一章 史上の仏

     第一節 偉大な生涯

     一、ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒニー河のほとりに、釈迦族の都カピラヴァスツがあった。

    その王シュッドーダナ(浄飯じょうぽん)は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、民衆は喜び従っていた。

    王の姓はゴータマであった。

     妃、マーヤ-(摩耶)夫人ぷにんは同じ釈迦族の一族でコーリヤ族とよばれるデーヴァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。

     結婚の後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、白象が右わきから胎内に入る夢を見て懐妊した。

    王の一族をはじめ国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニー園に休息した。

     折から春の陽はうららかに、アショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。

    妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。

    天地は喜びの声をあげて母と子を祝福した。

    ときに四月八日であった。

     シュッドーダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉達多しっだった)という名を王子に与えた。


     二、しかし、喜びの裏には悲しみもあった。

    マーヤ-夫人は間もなくこの世を去り、太子は以後、夫人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。

     そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、城に来たり、太子を見て

    「このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王(転輪王)となり、もしまた、出家して道を修めれば世を救う仏(仏陀)になられるであろう。」

    と予言した。

     はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという憂いを持つようになった。

     太子は七歳の時から文武の道を学んだ。

    春祭に、父王に従って田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を小鳥がついばみ去るのを見て、

    「あわれ、生きものは互いに殺し合う。」

    とつぶやき、ひとり木陰に坐って静思した。

     生まれて間もなく母に別れ、今また生きもののかみ合う有様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。

    それはちょうど、若木につけられた傷のように、日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。

     父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を引き立てようといろいろ企てた。

    ついに太子十九歳のとき、太子の母の兄デーヴァダハ城王スプラブッダの娘ヤショーダラーを迎えて妃と定めた。


     三、この後十年の間、太子は、春季はる・秋季あき・雨季うきそれぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと苦心した。

    「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局このわたしにとって何であるのか。

    人は病む。

    いつかは老いる。

    死を免れることはできない。

    若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。


     人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。

    しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。

    誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。

     正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。

    今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。」


     四、このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子二十九歳の年、一子ラーフラ(羅「目+侯」羅らごら)が生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。

    太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンダカにまたがって、住みなれた宮殿を出て行った。

    そして、この俗世界とのつながりを断ちきって出家の身となった。

     このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。

    「宮殿に帰るがいい。

    時を待つがいい。

    この世界はすべておまえのものになるのだ。」

    太子は叱咤した。

    「悪魔よ、去れ。

    すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」

    太子は悪魔を追い払い、髪をそり、食を乞いつつ南方(みなみ)に下った。


     太子ははじめバガバ仙人を訪れてその苦行の実際を見、次にアーラーダ・カーラーマと、ウドラカ・ラーマプトラを訪ねてその修行を見、また自らそれを実行した。

    しかし、それらは結局さとりの道でないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤ-の町のかたわらを流れるナイランジャナー河(尼連禅河にれんぜんが)のほとり、ウルビルバーの林の中において、激しい苦行をしたのである。

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  48. 太陰暦「仏教聖典」 ほとけ 第一章 史上の仏  第一節 偉大な生涯 (豊岳正彦)
    2017-06-24 15:49:17
     五、それはまことに激しい苦行であった。

    釈尊自ら

    「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。」

    と後に言われたほど、世にもまれな苦行であった。

     しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。

    そこで太子は、六年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨てた。

    ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータ-という娘の手から乳糜(ちちがゆ)を受けて健康を回復した。


     このとき、それまで太子といっしょに同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。


     いまや天地の間に太子はただひとりとなった。

    太子は静かに木の下に坐って、命をかけて最後の瞑想に入った。

    「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。

    さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。」

    これがそのときの太子の決心であった。


     その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。

    乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。

    太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に裂き破った。

    まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。


     しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏と成った。

    それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。


     六、これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。

      釈尊はまず、六年にわたる苦行の間ともに修行してくれた恩義ある五人の出家者に道を説こうとして、彼らの住むバーラーナシーのムリガダーバ(鹿野苑ろくやおん)に赴き、彼らを教化した。

    彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから釈尊を信じ最初の弟子となった。

    また、ラージャグリハ(王舎城)に入ってビンビサーラ王を教化し、ここを教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。

     人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、釈尊のもとに寄り集まった。

    シャーリプトラ(舎利弗しゃりほつ)、マウドガルヤーヤナ(目連)の二大弟子をはじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、その弟子となった。

     釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって深い苦しみを味わった父のシュッドーダナ王、養母のマハープラジャーパティ、妃のヤショーダラーをはじめとする釈迦族の人たちも、みな釈尊に帰依して弟子となった。

    その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。


     七、このようにして伝道の旅を続けること四十五年、釈尊は八十歳を迎えた。

    ラージャグリハ(王舎城)からシュラーヴァスティー(舎衛城)に赴く途中、ヴァイシャリーにおいて病を得、

    「三月の後に涅槃に入るであろう。」

    と予言された。

    さらに進んでパーバーに至り、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、痛みを押してクシナガラに入った。


     釈尊は城外のシャーラ(沙羅)樹の林に行き、シャーラの大木が二本並び立っている間に横たわった。

    釈尊は懇(ねんご)ろに弟子たちを教え、最期のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる仏としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。



     八、クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、アーナンダ(阿難)の指示に従って、定められたとおりに釈尊の遺骸を火葬した。

     このとき、マガダ国の王アジャータシャトルをはじめとするインドの八つの国々の王は、みな釈尊の遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起こった。

    しかし、賢者ドローナの計らいにより、遺骨は八大国に分配された。

    その他、遺骸の瓶(かめ)と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。

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  49. 太陰暦「仏教聖典」_ほとけ_第一章、史上の仏_  第二節、最後の教え (豊岳正彦)
    2017-06-24 15:50:58
     第二節、最後の教え

     (長阿含經第二遊行經、般泥「さんずい+亘」經、遺教經)



     一、釈尊はクシナガラの郊外、 沙羅樹の下で最後の教えを説かれた。

     弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。

    この法*を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。


     わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。

    そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。

    わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。



     二、弟子たちよ、これまでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。

    もし教えのとおりに行うなら常に幸いに満たされるであろう。


     教えのかなめは心を修めることにある。

    だから、欲をおさえておのれに克(か)つことに努めなければならない。

    身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。

    貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常*を忘れてはならない。


     もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。

    心に従わず、心の主(あるじ)となれ。


     心は人を仏にし、また、畜生にする。

    迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。

    だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。



     三、弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和(あいわ)し、相敬(あいうやま)い、争いを起こしてはならない。

    水と乳とのように和合せよ。

    水と油のようにはじきあってはならない。


     ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。

    つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実(このみ)を取るがよい。


     弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。

    おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。


     だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。

    また、この教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。



     四、弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。

    別離も遠いことではない。

    しかし、いたずらに悲しんではならない。

    世は無常であり、生まれて死なない者はない。

    今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。


     いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。

    変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。


     煩悩*の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。

    もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。


     煩悩の賊は追わなければならない。

    煩悩の蛇は出さなければならない。

    おまえたちは慎んでその心を守るがよい。



     五、弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。

    しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。

    肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。


     仏の本質は肉体ではない。

    さとりである。

    肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。

    だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。


     わたしの亡き後は、わたしの説き遺(のこ)した法がおまえたちの師である。

    この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。


     弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。

    わたしにはもはや秘密はない。

    内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。


     弟子たちよ、今やわたしの最期である。

    わたしは今より涅槃*(ねはん)に入るであろう。

    これがわたしの最後の教誡(かい)である。



    _________________

    仏教聖典用語解説

    *法(達磨・dharma)*****
     さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律に対する解釈や註釈)の三種の聖典である。
    これは、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽”と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。

    *無常(むじょう)anitya *****
     あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。
    仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。
    あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。
    これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。
    生成発展も無常の一面だからである。

    *仏(仏陀・Buddha) *****
     梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。
    普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。
    仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
     大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
    例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
     なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。

    *煩悩(klesa)*****
     悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。
    人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。
    その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。
    貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。
    これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。
    しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。

    *涅槃(nirvana)*****
     梵語の”吹き消す”という意味の、ニルバーナという単語の音写で、”滅”・”滅度”・”寂滅”などと訳される。
    丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを”入涅槃”といい、達したものを”仏陀”とよぶ。
    釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を入涅槃ということもあるが、肉体が滅びたtきに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、三五歳で仏になったときに”涅槃”の状態に達したと考えられている。

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  50. 超訳文庫維摩経 (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:20:31
    超訳【維摩経】
    bunchin.com/choyaku/yuima/index.html

    初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
    仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
    中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。
    で、この面白さ・楽しさの万分の一でも、誰かと分かち合えればよいなぁ、と思い、浅学菲才を省みず、無謀な挑戦を始めた次第です。
    娯楽性を重視したため、学術的正確さを相当犠牲にしています。仏さま、どうもすみません。
    m(_ _)m
    「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。


    第1話 維摩居士、登場bunchin.com/choyaku/yuima/yuima001.html
    2006.11.29
    昔々、インドのヴァイシャーリーという大都市に、維摩詰(ヴィマラキールティ、以下「維摩」)という長者がいました。

    彼は熱心な仏教徒でしたが出家はせず、お城のような巨大なお屋敷で、妻子や使用人たちと暮らしていました。

    維摩は溢れんばかりの才能と情熱、そして資産を持っていました。

    そして、とても幸いなことに、それら全てを人助けのために使うと固く心に決めていたのです。

    実際、彼の活動は融通無碍であり、大きな成果を上げていました。

    貧しい人には施しを与え、悪人は教え諭し、怠け者にはハッパをかけるなど、全ての人に対して、それぞれのレベルに合った導き方をする彼の人望は、まさに天下に轟いていたのです。

    ある日、維摩はこう考えました。

    「これまでは自分であちこち飛び回り、色んな人たちを導いてきたわけだが、もう長いこと続けてきたのでちょっとマンネリ気味だなぁ。
    そうだ!ここはひとつ、私が「病気で寝込んだ」という噂を流してみよう。
    そうすればきっと、私のことを心配して、人々は自分たちの方から私のところに集まってくるに違いない。
    うん、なんて効率的なアイデアだろう!」

    さて、維摩が「病気で寝込んだらしい」という噂が広まると、国王や大臣をはじめ、資産家やその家族たちなど、あらゆる階層の人々が、数え切れないほど彼の家に集まってきました。

    こうして彼らを待ち構えていた維摩は、病気をネタにした説教を実施し、大成功をおさめることができたのです。

    作戦成功の余韻にひたりながら、維摩はふと思いました。

    「私はこうやって「病気で寝ている」ことによって、たくさんの人たちに仏の教えを説くことができた。
    そういえば当の仏様は、こんな私を見舞いにきてくれないものだろうか?」

    next


    ・・・・・
    順番に読むのが一番楽しいですが、りんごさんは女性だから維摩経で天女が出てくるところをご紹介しましょう。
    超訳が一番いいお経の現代語訳だと思います。維摩経以外の超訳もとても面白いです。

    ・・・・・
    以上、は下記から転載
    http://burogu321.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-ae75.html

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  51. 超訳文庫維摩経第24話 維摩の「人間観」 (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:25:10
    第24話 維摩の「人間観」
    2007.2.25

    文殊菩薩は維摩の言葉をさえぎってツッコミました。

    「ちょっと待ってください!そもそもあなたは人間たちの存在を何だと思っているのですか?」

    維摩は答えました。

    「ん、何?ワシの「一般ピープル」に対する見解?
    ふむ・・・例えるならこんな感じじゃな。

    ・マジシャンが自分のマジックを見物するようなものじゃ。
    ・水に映った月を見るようなものじゃ。
    ・鏡に映った自分の顔を見るようなものじゃ。
    ・暑いときのかげろうのようなものじゃ。
    ・響くこだまのようなものじゃ。
    ・浮かぶ雲のようなものじゃ。
    ・水のしぶきのようなものじゃ。
    ・水に浮かんだ泡のようなものじゃ。
    ・イナズマの光のようなものじゃ。
    ・「地、水、火、風」以外の元素のようなものじゃ。
    ・「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」以外の感覚のようなものじゃ。
    ・「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」から生じる5種の認識に「意識」を加えた6種以外の認識領域のようなものじゃ。

    ・・・どうじゃ、少しはピンときたかな?
    もっと言うなら、こうじゃ。

    ・一度火を通した穀物の芽のようなものじゃ。
    ・生まれつき眼の見えない人が考える「色」のようなものじゃ。
    ・飛ぶ鳥が空中に残した跡のようなものじゃ。
    ・目覚めた時に覚えている「夢」のようなものじゃ。
    ・煙の出ない火のようなものじゃ。

    ・・・まぁ、ワシは「その他大勢」の連中を、そのようなもんじゃと考えておるよ。」


    第25話 天女あらわる!
    2007.2.26
    大勢の野次馬が見守るなか、激しい問答を繰り広げる文殊と維摩。

    議論が白熱したその時です。
    部屋の中空に突然ひとりの天女が出現しました。

    そしてイキナリそこにいる全員の頭上に美しい天界の花びらを振りかけたのです。

    菩薩たちの上に落ちた花びらは、そのまますぐに地面に落ちましたが、十大弟子たちの上に落ちた花びらは、なんと彼らの頭や身体にピタリと貼り付いてしまったではありませんか!

    大弟子たちは必死になって手で引っ張ったり、日ごろ鍛えた超能力を駆使したりしましたが、くっついた花びらは全く外すことができません。

    それを見ていた天女は、シャーリプトラにたずねました。

    「ねぇお兄さん、どうしてお花を取ろうとするの?」

    シャーリプトラは答えました。

    「やかましいっ!どこの世界に花びらを全身にくっつけた修行僧がいるものか!これは我らにはふさわしくないんだよ!だから取るんだ!!」

    天女は言いました。
    「あらあら・・・そんな風に考えちゃ、お花に失礼だわ。
    その花びらは別に「ようし、あいつにくっついてやれ!」なんて考えてあなたにくっついているわけではないのだから。
    菩薩の皆さんを見てごらんなさい。
    なんで彼らには花がくっつかないのだと思いますか?
    悪魔は、「恐れ」のない人には襲いかかれないということがありますよね。
    菩薩たちは既に、いかなる外部環境によっても左右されない心を持っています。
    もちろん花がつこうがつくまいが、全く気にしません。
    だから、かえって花びらはくっつかないのです。
    お兄さんたちお弟子さんがたには、どうやらまだ生死に恐れがあるようですね。
    眼や耳や鼻などの全身の5つの器官から受ける刺激に対する煩悩が、まだまだたっぷりと残っているのでしょう。(笑)」

    シャーリプトラは、ムッとして話題を変えました。

    「そういえば天女さん、あんたいったいいつからこの部屋の中にいるんだい?」

    天女:「そうね、維摩のオジサマが解脱しているのと同じぐらいかしら。」

    シャーリプトラ:「え?じゃあ、もうずっと長いこと?」

    天女:「あら、オジサマの解脱はずっと長いあいだだと考えてるわけ?」

    シャーリプトラ:「・・・・・・・・・」

    天女:「あらあら。お兄さんみたいに賢い人が、どうして黙っちゃったの?」

    シャーリプトラ:「うるさいな!解脱ってのはな、言葉では表現できないものなんだよ!だから・・・オレにはここで何て言ったらいいか、わからないんだよ・・・」


    第26話 天女、シャーリプトラをへこませる
    2007.2.27
    天女はしれっと言いました。

    「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
    解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
    文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」

    シャーリプトラ:「えーっと・・・解脱って、淫欲とか怒りとか迷いとかから離れることじゃなかったのでしたっけ?」

    天女:「ああ、それはまだ悟りもしないのに「悟った」などと思い上がっている人のために、仏があみ出した説明よ。(笑)
    思い上がりの全くない人に対しては、仏は「淫欲・怒り・迷いがあることこそが解脱なのだ」と説明しているわ。」

    シャーリプトラはぐうの音も出ないほどやっつけられてしまいましたが、何とか言葉をしぼり出しました。

    「こ、これはオミソレいたしました・・・
    貴女の弁説は完璧です。素晴らしいのひとことです!
    それにしても天女さん、貴女はいったいどんな奥義を誰から授けられたのですか?」

    天女は答えました。

    「奥義ですって?私はいまだかつて何も授けられたこともなければ、得たこともないわ。
    だからこそ、このように弁じることができるのです。
    だってそうじゃない?
    何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」


    第27話 天女、維摩の部屋の素晴らしさを説く
    2007.3.4
    天女はさらに言いました。
    「この維摩のオジサマの部屋はとってもスゴイのよ。
    例えば今、この部屋は明るいでしょう?
    これって昼だから明るいのじゃないのよ。
    夜になってもこの明るさなの。
    しかも、とくに何か明かりを使っているわけじゃないの。
    部屋全体がまばゆいばかりに発光しているっていうわけ。
    この部屋のスゴさはそれだけじゃないわ。
    お兄さんたちにわかるかどうかしらないけど、この部屋は全体が究極のオーディオシステムになっていて、ありとあらゆる音階を忠実に再現することができるのよ!
    それだけじゃないわ。
    この部屋には実はたくさんの宝物がしまわれていて、そこから困っている人たちに惜しげもなく与えられるわけなのだけど、どれだけ与えたからといっても、ちっともなんにも減らないのよ。
    わかる?
    まぁ、ちょっとムリかもね。(笑)
    でもね、ここは本当にそういうところなのよ。
    そんな部屋に住みついている私が、いったいどうして「人の言ったことを忠実に守るだけ」なんていうしょーもないレベルで
    満足できると思うのかしら?」

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  52. 超訳文庫維摩経第28話 天女、「女」について語る (Unknown)
    2017-06-24 22:26:12
    第28話 天女、「女」について語る
    2007.3.4

    シャーリプトラは言いました。

    「・・・いやはや、まったくたいしたもんです。
    というかさ、それだけの能力があるんだったら、女なんてやめて男になればいいのに。できますよね? そのぐらい、楽勝で。」

    天女はあきれ顔で言いました。

    「あらあら、何を言うのかと思ったら!
    実は私は12年間かけて「女」とは何かということを追求してきたのですが、結論から言うと、よくわからなかった、というか、どうやらそんなものは実在しないのよ。
    「女」が存在しない以上、「女」をやめるとかやめないとかいう議論は全く意味がないのじゃないかしら?
    あなたは例えば、幻術師が作り出した幻の女のところへ行って、「なんで男にならないの?」とか言うのかしら?」

    シャーリプトラ:「いやいや、ちょっと待ってください。
    それは違うでしょう? 幻は幻です。
    いまさら変化のしようもないじゃないですか。」

    天女:「でしょー? 幻は幻なのよ。
    全ての事柄も、また同じことなの。
    「理由」なんてありゃしないわ!!」

    次の瞬間、シャーリプトラと天女の姿が入れ替わりました。

    天女の姿のシャーリプトラ:「ぐ、ぐおっ!?」

    シャーリプトラの姿の天女:「はーい、そこのあなた。
    女なんてやめて、男になっちまいなよ!」

    天女の姿のシャーリプトラ:「え!?え!?な、なんじゃこりゃあ!!」

    シャーリプトラの姿の天女:「ほらほら、どうしたの!?だらしないわね!!(笑)
    もしも今のあなたが「女」をやめることができるなら、全ての女性もまた「女」をやめることができるはずよ!
    今のあなたならわかるでしょう?
    全ての女性は今のあなたと同じなの。
    「女」の姿をしているけれども、本性は「女」なんかじゃないのよ。
    ブッダも言っているでしょう?
    「「男」なんていない、「女」もいない」って。」

    言い終わると、天女はシャーリプトラの姿を元に戻してあげました。

    天女:「はい、ここで質問です。「女」はどこへいきましたか?」

    シャーリプトラ:「い、いや・・・
    どこへいったとかいかないとかじゃなくって、そんなもの初めからなかったんですけど・・・」

    天女は言いました。

    「でしょー? 全ての事柄はそんなものなのよ。
    「ある」のでもなく、「ない」のでもないわけ!!」


    第29話 天女、「究極の悟り」について語る
    2007.3.6
    シャーリプトラは言いました。

    「あー・・・すみません、ちょっといいですか?
    もしも貴女がここで死んだとしたなら、いったいどこに生まれ変わることになるのでしょうか?」

    天女は答えました。

    「どこに生まれ変わるか、ですって?
    ブッダがサイキックパワーで作り出す人間たちと同じところに決まってるじゃない。(笑)」

    シャーリプトラ:「いやいやいや!ちょっと待ってください。
    ブッダがサイコパワーで作り出す人間たちは、基本的に不死です。
    それと同時に、確か生まれることもなかったハズでは?」

    天女:「そうよ。全ての一般大衆も同じことよ。死なないし、生まれないの。」

    シャーリプトラ:「・・・。
    えーと、話を変えさせてください。
    貴女は既に、限りなく「究極の悟り」に近づいているように思えるのですが、いったいいつ、「究極の悟り」をゲットするのですか?」
    天女:「うふふ・・・(笑)
    それはね、シャーリプトラのお兄さんが、ただの凡人に戻ることができた時よ!」

    シャーリプトラ:「私が「ただの凡人」になるなどということは有り得ません!絶対に!!(怒)」

    天女:「そうよね。(笑)
    私が「究極の悟り」を得る、なんていうのは、それと同じくらい有り得ないことなのよ。
    「悟り」は決して同じ状態に長いこと留まっていたりはしないわ。
    だから、「悟りを得た!」なんていう人がいたら、その人はウソつきなの。」


    第30話 維摩、カットインする
    2007.3.11
    シャーリプトラは言いました。

    「・・・えーっとですね、貴女はそう言いますが、確かブッダはこうおっしゃったハズですよ。
    「ガンジス河の砂粒の数ほどの人々が、既に悟りを得た、今まさに悟っている、これから悟ることになるであろう」って。
    これはいったいどういうことなんですかね?」

    天女は答えました。
    「ああ、それね。
    それはレベルの低い人たちに説明する便宜上、持ち出しただけの話なのよ。(笑)
    本来、「悟り」には現在も過去も未来もないわ。
    で、お兄さんはそれを得ているのかしら?」

    シャーリプトラ:「もちろんですよ!
    「何も得ることはできない」という「究極の悟り」をね。」

    天女:「そうそう。全ての仏や菩薩たちもそれと同じよ。
    「何も得られない」ということを得ているの!」

    維摩居士は、天女とシャーリプトラのやりとりを黙って聞いていましたが、ここでようやく口を開きました。

    「シャーリプトラよ、この天女はな、92億の仏の供養をコンプリートして、超能力をゲットしたのじゃよ。
    そのぐらいのレベルになると、もはや全ての願いは叶っており、輪廻転生の無限ループからも離脱できているのじゃ。
    だから、もはや「何も生まれない」し、「何も得ることはない」ということになっておる。
    じゃあ、なんでこんなところで遊んどるのか、と思うじゃろ?
    それはな、純粋に彼女の趣味じゃよ。(笑)
    彼女はお前さんみたいなヤツをおちょくるのが大好きなのじゃ。」

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  53. 仏教聖典 女性の生き方ほか (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:38:20
    仏教聖典_なかま_第二章、生活の指針_第二節、女性の生き方・・・p223~

     三、ビルマ仏伝

     夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。

     かつて夫婦の鑑とほめたたえられたある老夫婦は、世尊のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知り合い、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりをやどしたことがない。この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえることができるように教えて戴きたい。」

     世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧*を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。」
    ____________


    ---用語解説p320 *智慧*(般若prajna)---

     普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀(ぶつだ)”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見抜くことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

    ---p321 *波羅密*(paramita)---

     パーラミターという梵語の漢音写で、”度”とか”到彼岸”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅密(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の”彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられた。

    ------




     四、パーリ、増支部七-五九、玉耶經

     アナータピンダダ(給孤独ぎっこどく)長者の長子に嫁いだスジャータ-(玉耶ぎょくや女)は、驕慢(きょうまん)であって他を敬うことを知らず、父母や夫の命に従わず、いつも一家の波風を起こすもととなっていた。

     ある日、長者の家に入ってこの有様を見た釈尊は、その若い妻のスジャーターを呼んでこう教えた。

     スジャータ-よ、世には七種の妻がある。

     第一は、人殺しのような妻で、汚れた心を持ち、夫に対して敬愛の思いがなく、はては他の男に心を移す妻である。

     第二は、盗人のような妻で、夫の仕事に理解を持たず、自分の虚栄を満たすことだけを考え、口腹(こうふく)の欲のために、夫の収入を浪費し、夫のものを盗む妻である。

     第三は、主人のような妻で、家政のことをかえりみず、自分は怠惰であって口腹の欲にだけ走り、常に荒々しいことばで、夫を叱咤している妻である。

     第四は、母のような妻で、夫に対して細やかな愛をいだき、母が子に対するように夫を守り、夫の収入を大切にする妻である。

     第五は、妹のような妻で、夫に仕えて誠を尽くし、姉妹に対するような情愛と、慚愧(ざんぎ)の心をもって夫に仕える妻である。

     第六は、友人のような妻で、常に夫を見て喜ぶことは、ちょうど久しぶりに会った友に対するようであり、行いは正しくしとやかに、夫を敬う妻である。

     第七は、女中のような妻で、よく夫に仕え、夫を敬い、夫のどんな行いをもよく忍び、怒りも恨みも抱(いだ)かず、常に夫を大切に生かしてゆこうと努める妻である。

    「スジャータ-よ、おまえはこのうち、どの類(たぐい)の妻になろうとするのか。」 

     この教えを聞いたスジャータ-は、大いにわが身を恥じて懺悔(さんげ)し、これから後は女中のような妻となって夫を助け、ともに道を修めてゆこうと誓った。

    ____________________



     五、長阿含經第二・遊行經

     アームラパーリーは、ヴァイシャリーの名高い娼婦であり、自ら大勢の娼婦をかかえている主人であった。あるとき、この女がよい教えを聞こうとして仏*を訪れた。

     釈尊はこの女にこう教えられた。

    「アームラパーリーよ、女は心の乱れやすいもの、行いの間違いやすいものである。欲が深いから、惜しむ心ねたむ心が強い。男に比べて、障害の多いものといわなければならない。

     だから、女は男に比べて、道に進むことが困難である。まして年若くて容色の美しい者はなおさらである。財と色との誘惑にうち勝って、道に進まなければならない。

     アームラパーリーよ、女にとって強い誘惑である財と色は、決して永久の宝ではない。たださとりの道だけが、永久(とこしえ)にこわれない宝である。強い者も病に犯され、若い者も老いに破れ、生は死に脅(おびや)かされる。また愛する者と離れて、恨みある人と一緒にいなければならないこともあり、そして求めることも、とかく思うようにならない。これが世のならわしである。

     だから、この中にあっておまえの守りとなるものには、たださとりの道がある。急いでこれをもとめなければならない。」

     この教えを聞いた彼女は、仏弟子となり、教団*に美しい庭園を寄進した。

    ---p321 *仏(ぶつ)*(仏陀・Buddha)---

     梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
     大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
     なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。

    ---p317 *教団*僧伽(samgha)---#本の記載が気に入らないので豊岳が改変した。
     同じ釈尊の教えに帰依して集まった人びとの集団をいう。初期仏教において、出家者(比丘・比丘尼)集団を僧伽(サンガ)と称した。

    _______

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  54. 女子どもを命を捨てて守る日本男児大和魂 (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:43:34
    江戸時代以前の政教分離仏教国母子保護日本の真実の歴史「温故知新」2

    (3)次は仏教徒武士道菩薩上杉鷹山(水戸斉昭、吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛、山岡鉄舟、田中正造が心服師事した先達仏教徒武士)がしたためた孫娘「参姫への手紙」

    http://blog.goo.ne.jp/newgenerations/e/b60ef7447b10ffe409c0156faa40a4b5#comment-list


    仏法武士道の鑑上杉鷹山公「参姫への手紙」=実在の史料です。

    上杉鷹山公が隠居後に江戸屋敷の新しい藩主に嫁ぐことになった孫娘(参姫二十歳)に藩主の妻たるべきものの心得を懇切丁寧に説いて手紙にしたためました。
    「上杉鷹山に学ぶ」鈴村進著(三笠書房)から著者による現代語訳文を長文乍ら全文転載します。

    「人は三つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。

     その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。このことは、自分は徳がないからとても行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。

     男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。男は外に向かって外事をし、女は内にあって、内事を治めるものである。国を治め、天下の政(まつりごと)を行うといえば、大変なことのように思われるであろうが、天下の本は国であり、国の本は家である。家がよくととのえられるためには、一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。根本が乱れて、末が治まることはありえない。

     普通に考えれば、婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、政治の本は一家の中から起こることであり、身を治め徳を積み、夫は妻の天であってこの天にそむいてはならない。これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、夫に従順であれば、やがては政事を輔(たす)けることとなるものである。

     あなたはまだ稚(おさな)いので、人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。しかし、感通とは妙なもので、人に知られず身を修めていると、いつかはそれが知られて、効果が大いに表われることは疑いのないところである。『鶴九皐に泣いて声天に聞こゆ(かく、きゅうこうにないて、せい、てんにきこゆ ・・・鶴は奥深い谷底で鳴いても、その気品ある泣き声は天に届く。つまり優れた人物はどこに身を隠しても、その名声は自然に広く世間に知れ渡るというたとえ)』と詩経に書かれているのはこのことである。奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、一国の賢夫人と仰がれるようになる。そうなれば、あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。ひたすら努めに努められよ。

     年が若いので、時折美しい着物を着たいと思われることもあるだろう。それも人情ではあるが、少しでもそんなことに心を動かして、これまでの質素な習慣を失うことのないよう、『終わり有る鮮し(詩経の大雅・蕩 「初め有らざること靡(な)し 克(よ)く終わり有ること鮮(すくな)し」 ・・・何事でも、初めはともかくもやっていくが、それを終わりまで全うするものは少ない) 』の戒(いまし)めを守られるべきである。そうすれば、いつまでも従来の質素な習慣は続けられるであろう。そして、養蚕女工のことを思い、一方では和歌や歌書などを勉強されたい。しかし、ただ物知りになったり、歌人になったりしようなどとは考えるべきではない。学問は元来、自分の身を修める道を知るためのものである。昔のことを学んで、それを今日のことに当てはめ、善いことを自分のものとし、悪いことは自分の戒めとされよ。和歌を学べば、物の哀れを深く知るようになり、月花に対して感興を深くし、自然に情操を高めることとなるであろう。

     くれぐれも両親へ孝養を尽くし、その心を安んじるとともに、夫に対しては従順であり、貞静の徳を積み、夫婦睦まじく、家を繁栄させて、わが国の賢夫人と仰がれるようになってもらいたい。出発に際して、末永く祝うとともに、婦徳を望む祖父の心中を汲み取られよ。他へこそ行かないが、今日より後、いつ会えるかわからないので、名残り惜しく思う。


      武蔵野の江戸なる館へ赴きたまうはなむけに
       春を得て花すり衣(ごろも)重ぬとも わが故郷(ふるさと)の寒さ忘るな         はる憲」
                                                           
    ____________

    上杉鷹山がこの手紙で言う「婦徳」を身につけた婦人が、釈尊がいう「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」すなわち女人出家仏弟子比丘尼あるいは女人在家信者ウバイです。

    ///////////////////////////////////////

    江戸時代以前の政教分離仏教国母子保護日本の真実の歴史「温故知新」1

    江戸時代以前のわれわれのご先祖仏教徒庶民が地上に「実現した」ファンタジーでない母性と子ども保護社会。

    (1)親父の小言より。

    2.  朝、機嫌を良くしろ

    3.  朝早く起きろ

    9.  家内笑うて暮らせ

    16.  年寄りをいたはれ

    19.  女房の言ふ事半分聞け

    20.  子の言ふ事は九ッ聞くな

    22.  何事も我慢をしろ

    23.  子供の頭を打つな

    24.  己が股をつねれ *わが身をつねって人の痛さを知れ

    28.  女郎を買ふな

    29.  女房を探せ

    30.  病人は労いたはれ

    35.  年忌・法事をよくしろ

    36.  親の日は万事慎め *親の年忌・命日には謹慎しろ

    38.  子供はだまかせ *だまくらして上手に扱え

    39.  女房に欺されるな

    40.  博奕をするな

    41.  喧嘩をするな

    45.  世話焼きになるな   *世話とは、特に男女の夫婦縁固めの仲人のこと。他人の嫁を自分勝手に自分の都合良いように世話するな、人の恋路の邪魔をするな(そういう奴は馬に蹴られて死んでしまえ)、人情の赴くところ当人同士の自然の縁づきに任せろと言うこと(ここの解説は江戸時代の石頭仏教徒豊岳でした笑)

    75.  身持ち女は大切にしろ *妊婦は大事にしろ

    76.  産後は、なほ大切にしろ

    ______________



    (2)次は法句經、釈尊の言葉から。

    http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149

    「ブッダのことば」として中村元さんが邦訳

    ・・・

    「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」

    「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」

    「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」

    「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」

    「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」

    「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

    「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子(女の子)は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」

    「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

    「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」

    「盛年をすぎた男がティンバル果のように盛り上がった乳房ある若い女を誘い入れて、かの女への嫉妬から夜も眠れない。これは破滅への門である。」 

    「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって、得たものを、その度に失う人がいる。これは破滅の門である。」

    「婦女の求めるところは、男性であり、心を向けるところは装飾品、化粧品であり、よりどころは子どもであり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である。」

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  55. 仏教は無我の教えなり (豊岳正彦)
    2017-06-24 22:51:47

    仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第三節、現実の人生

    三、パーリ、増支部三-六二

     世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。
    すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。
    しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

     ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。
    それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

     母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。
    子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。
    子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。
    いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。



    五、パーリ、長老尼偈註

     裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

     この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。
    彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

     釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

     狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。
    芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。
    ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。
    かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。




    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    「無我(むが)」


    仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三項仏のたとえ

    十、雑宝蔵経

     ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き屋に宿をとった。
    すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。

     間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。

     すると、前の鬼が言うには、
    「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」

     後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。

     男はもう絶体絶命である。
    どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。

     案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。
    これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って来て補った。
    後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。
    前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。

     こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。

     男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。
    一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、気が狂って空き屋を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。
    人びとは、この話の中に、無我(むが)の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。

    ______________
    仏教聖典用語解説

    *無我(anartman)*****
     仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
    それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
    なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。

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  56. 小説維摩詰から天女の場面 (豊岳正彦)
    2017-06-25 06:35:29
    「小説維摩詰ヴィマラキールティの生活と意見」池田得太郎著大雄閣出版
    ・・・・・

     と、座の中心にやってきた踊り子の一人が、やおら薄衣を脱いで、唖然として見守る沙門たちに投げかけた。

    「何をなさるのです」
     もっとも驚いたのはサーリプッタである。頭上に舞い降りてくる衣から逃れようとして、夢中で手を動かした。皮肉というか、あまりあがいたので、衣はかえってサーリプッタの四肢に絡みついてしまった。
    「大徳よ、そのように暴れてなんとなされます」

     美しい女が鈴を転がすようなあでやかな声で言った。
    「知れたことです。このような蠱惑的なものはわたしにふさわしくありません」
     言いながら、サーリプッタはなおも手足をばたばたさせた。
    「衣が蠱惑的だとおっしゃるのですか」
    「蠱惑的です。この変な香り、すべすべした感じ、ふざけていないで、これを取ってください」
    「これはまた、大徳にあるまじい、狭いお考えです。衣は衣、香水は香水で、別に他の何ものでもありませぬものを……」
    「いや、これはあなた方、女が着ていたものです。女はわたしにとって魔物です」
    「これは恐ろしいことを」

     女が美しく笑って言った。
    「女は衆生ではなくて、魔物だとおっしゃるのですか」
    「つべこべ言わずに取ってください」
    「大徳よ、別に衣に意志があるのではありません。衣があなたさまから離れようとしないのは、衣のせいではなくして、あなたに魔性への恐怖心があるからではありませんか。すべての煩悩を断じたと思っているあなたさまから、衣が離れようとしないのは、何故かしら……」

     サーリプッタは目を白黒させて、しっかりした顔立ちの、ペルシア美人を見守るしかなかった。
    「魔と申しても、魔そのものがこの世にある訳ではありません。魔の実体は個体というより、一つの作用なのです。そしてその根本は己れ自身に内在するものです。ですから、女が魔物だなどというのは、わたしたち女性にとって、とんだ濡れ衣と申すもの。もし己れ自身の恐怖心や嫌悪感をとり除いてしまえば、ほら、大勢の方々のように素直に歌舞を楽しめるのです」
    「あなたは、一体、何者ですか」
     サーリプッタがへきえきとなって、訊ねた。

    「私は菩薩です」

    「いま、何と言われました」

    「菩薩と申しました。菩薩と申すものは、何も粗末な衣をまとい、托鉢する人には限りません。疲れた人々に妙なる音楽を聞かせてあげ、明日の活力を養ってあげる、これは妙音菩薩と申します。あれなる異国の楽師さんも、やはり妙音菩薩と申せましょうね。わがご主人は、それはそれは音楽好きで、わたしどもを大事にして下さいます」
     どうやら、ヴィマラキールティは、異国のさすらい芸人の中から、これらの人を連れて来たらしい。
    ________________

     このように、和を以て貴しとなす聖徳太子がペルシアについて詳細に通暁した維摩経を最重要聖典として義疏したこと自体、聖徳太子の出自がペルシアにあることの実に強力な傍証になります。

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  57. 仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
    2017-06-25 11:13:44
    第二章 生活の指針

     第一節 家庭のしあわせ

     一、六方礼経

     災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。

     朝早く起きて口をすすぎ、顔を洗い、東西南北、上下の六方を拝んで、災いの出口を守り、その日一日の安全を願うのは、世の人のするところである。

     しかし、仏の教えにおいては、これと異なり、正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行って、災いを防ぐ。

     この六方を守るには、まず四つの行いの垢(あか)を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさがなければならない。

     この四つの行いの垢とは、殺生(せっしょう)と盗みとよこしまな愛欲と偽りであり、

    四つの悪い心とは、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと恐れである。

    家や財産を傾ける六つの口とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、賭博にふけること、悪い友だちに交わること、それに業務を怠ることである。

     この四つの行いの垢を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさいで、それからまことの六方を拝むのである。

     このまことの六方とは何かというと、東は親子の道、南は師弟の道、西は夫婦の道、北は友人の道、下は主従の道、そして、上は教えを信ずる者としての道である。

     まず、東の親子の道を守るというのは、子は父母に対して五つのことをする。父母に仕え、家業の手伝いをし、家系を尊重し、遺産を守り、父母の死後はねんごろに供養することである。

     これに対して、親は子に五つのことをする。悪をとどめ、善をすすめ、教育を施し、婚姻をさせ、よい時に家を相続させることである。互いにこの五つを守れば、家庭は平和であり、波風が立たない。

     次に南の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく仕え、素直に命(めい)を守り、供養を怠らず、慎んで教えを受ける。

     それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正しくして弟子を正し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、正しく説いて正しく教え、引き立てて名を表すようにし、何ごとについても守護を忘れないようにする。こうして師弟の間が守られて平和になる。

     次に西方の夫婦の間は、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって向かい、家政をまかせ、ときどきは飾りを与える。妻は夫に対し、家政をととのえ、使用人たちを適切に使い、貞操を守り、夫の収入を浪費せず、家政をうまく行うようにする。これによって夫婦の間はむつまじく、争いは起こらない。

     次に北方の友人の道は、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかってやり、常に相手を思いやる。

     また友人が悪い方に流れ落ちないように守り、万一そのような場合には財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、不幸のときは助けの手をのばし、必要の場合にはその妻子を養うこともする。このようにして友人の間は美しく守られ、互いに幸せが得られる。

     次に下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい給与を与える。病気の時は親切に看病する。珍しいものは分かち与える。ときどき休養させる。

     これに対して使用人は、主人に向かって五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直を守り、仕事にはよく熟練する。そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。こうして主従の間にもつれがなくなり、常に平和が保たれてゆく。

     教えを信ずる者としての道というのは、どんな家庭であっても、仏の教えが入っていなければならない。そしてこの教えを受ける人として、師に対し、身(からだ)も口も意(こころ)もともになさけに満ち、ていねいに師を迎え、その教えを聞いて守り、供養をしなければならない。

     これに対して、仏の教えを説く師は、よく教えを理解し、悪を遠ざけ、善を勧(すす)め、道を説き、人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。このようにして、家庭は中心となる教養を保って成長してゆく。

     六方を拝むというのは、このように、六方の方角を拝んで災いを避けようとすることではない。

    人としての六方を守って、内からわいてくる災いを、自(みずか)ら防ぎとめることである。

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  58. 仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
    2017-06-25 12:19:53
     二、六方礼経

     人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。

     親しむべきでない友とは、むさぼりの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。

     親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。

     ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。

     このような友を得ることは容易でないが、また、自分もみずからこのような友になるように心がけなければならない。

    よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。


     三、パーリ、増支部二-四

     父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。

    例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。

     また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。

     しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪(むさぼ)りを捨てて施(ほどこ)しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。

    あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。

     父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。


     四、パーリ、増支部三-三一

     家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすものである。

     この場合、他人のことは言わず、まず自ら自分の心を守ってふむべき道を正しくふんでいなければならない。

     五、パーリ、本生経四一七、迦栴延本生

     昔、ひとりの信仰厚い青年がいた。父親が死んで、母親とともに親ひとり子ひとりの親しい生活を送っていたが、新たに嫁を迎えて三人の暮らしとなった。

     はじめは互いにむつみあい、平和な美しい家庭であったが、ふとしたことから姑と嫁との心持ちに行き違いが起こり、波風が立ち始めると、容易には納まらず、ついに母は、若い二人を後に、家を離れることとなった。

     母が別居すると、やがて若い嫁に男の子が生まれた。「姑と一緒にいる間は、口やかましいので、めでたいこともなかったが、別居をすると、こうしてめでたいことができた。」と、嫁が言ったという噂が、さびしいひとり暮らしの姑の耳に入った。

     姑は大変腹を立てて叫んだ。「世の中には正しいことがなくなった。母を追い出して、それでめでたいことがあるならば、世の中は逆さまだ。」

     姑は、「このうえは、’正しさ’という主張を葬り去らなければ。」とわめき立て、気違いのようになって、墓場へ出かけた。

     このことを知った神は、すぐに姑の前に現れて、ことの次第を尋ね、いろいろに諭したけれども、姑の心の角(つの)は折れない。

     神はついに、「それではおまえの気のすむように、これから憎い嫁と孫を焼き殺してやろう。それでよいであろう。」と言った。

     この神のことばに驚いた姑は、自分の間違っていた心の罪をわびて、嫁と孫の助命を願った。子も嫁もまたこのときには、いままでの心得違いを反省し、母を訪ねて、この墓場へ来る途中であった。神は姑と嫁を和解させて、平和な家庭にかえらせた。

     自ら正しさを捨てなければ、教えは永久に滅びるものではない。教えがなくなるのは、教えそのものがなくなるのではなく、その人の心の正しさが失われるからである。

     心と心の食い違いは、まことに恐ろしい不幸をもたらすものである。わずかの誤解も、ついには大きな災いとなる。
    家庭の生活において、このことは特に注意をしなければならない。

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  59. 仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
    2017-06-25 13:15:43
     六、六方礼経

     人は誰でもその家計のことについては、専心に蟻のように励み、蜜蜂のように努めなければならない。いたずらに他人の力をたのみ、その施しを待ってはならない。

     また努め励んで得た富は、自分ひとりのものと考えて自分ひとりのために費やしてはならない。その幾分かは他人のためにこれを分かち、その幾分かはたくわえて不時の用にそなえ、また国家のため、社会のため、教えのために用いられることを喜ばなければならない。

     一つとして「わがもの」というものはない。すべてはみな、ただ因縁*によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。

     七、法句譬喩経四

     アーナンダ(阿難)が、ウダヤナ王の妃、シャマヴァティーから、五百着の衣を供養されたとき、アーナンダはこれを快く受け入れた。

     王はこれを聞いて、あるいはアーナンダが貪りの心から受けたのではあるまいかと疑った。王はアーナンダを訪ねて聞いた。

    「尊者よ、五百着の衣を一度に受けてどうしますか。」

     アーナンダは答えた。「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
    「それでは破れた衣はどうしますか。」
    「破れた衣で敷布をつくります。」
    「古い敷布は。」
    「枕の袋に。」
    「古い枕の袋は。」
    「床の敷物に使います。」
    「古い敷物は。」
    「足ふきを作ります。」
    「古い足ふきはどうしますか。」
    「雑巾にします。」
    「古い雑巾は。」
    「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」

     ものは大切に使わなければならない。生かして使わなければならない。

    これが「わがもの」でない、預かりものの用い方である。   了

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  60. 華厳経 善財童子 仏教聖典 (豊岳正彦)
    2017-06-26 16:11:18
    仏教聖典_はげみ_第二章、実践の道_第一節、道を求めて

     九、華厳経三四、入法界品

     昔、スダナ(善財ぜんざい)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。

    海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。

    人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。

    また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。

     また座禅する出家を訪れては、その寂(しず)かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。

    また、気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃(やいば)の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。

     このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。

     かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子どもの群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧(ちえ)をさとった。

     香を焚く道にも仏の教えがあり、華(はな)を飾る道にもさとりのことばがあった。

    ある日、林で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の*無常を教わった。

     昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財(ぜんざい)童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。

     童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。

     まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。

    そして敬虔(けいけん)に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華(はな)を供え、歓喜の香を捧(ささ)げなければならないことを童子は学んだのである。

    ______

    *無常(むじょう)anitya・・・・・p325用語解説

    あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

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  61. 無我 (豊岳正彦)
    2017-06-26 19:07:02
    仏の教えの中心は無我である。

    無我を悟ることによってあらゆる慈悲が生まれる。

    無我を教えの中心に置く宗教は仏教だけである。


    用語解説
    *無我(anartman)
     仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
    それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
    なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。


    上記のように、他宗教には無我という概念はない。
    我思う、ゆえに我ありの「有我」が認識の根源なのだ。

    しかし逆に言うと、「我」があるゆえに我と異なる教えを信じる異教徒という存在がある。
    そして我のある宗教ではすべて異教徒は社会から排斥し削除する「政治的行動」の対象である。
    これが一神教がその存在そのものに不可分に内包する「政教一致」である。

    いっぽう仏教は無我だから、排斥すべき異教徒が存在しない。
    我がなければ彼も無いのである。
    これが仏教の寛容である。

    霊鷲山説法七不衰法を渡辺照弘師が解説した文章を転記する。

    「新釈尊伝(旧字)」渡辺 照宏【著】昭和四十一年 大法輪閣発行 より抜粋

    人天の師ゴータマ・ブッダ(釈尊)が入滅前霊鷲山でヴリッヂ族の都市国家ヴァイシャリー(維摩居士の国)を武力征服しようと企てるマガダ国アジャータシャトル王の重臣ヴァルシャカーラ大臣(バラモン)の訪問を受けたときに説いた「七不衰法」にこうあります(大般涅槃経)。

    「アーナンダよ。
    第一、ヴリッジの人たちはしばしば会合し、よく集まっているか。
    第二、ヴリッジの人たちは一致和合して会合し、決議し、事を処理しているか。
    第三、彼らは新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っているか。
    第四、彼らは年長者を尊敬し、その言うことを聞くか。
    第五、彼らは婦女や少女を強制して言うことをきかせようとはしないか。
    第六、彼らは内外の社(やしろ)を尊敬し、昔からしきたりの供物を怠らないか。
    第七、彼らは宗教家たちを尊敬し、よそから喜んで宗教家がそこを訪れ、そこにいる宗教家は喜んでそこに留まっているか。
    これらを守っているあいだは、ヴリッジの人たちは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

    「バラモン(ヴァルシャカーラ大臣)よ。
    かつて私はヴァイシャリーのヴリッジの人たちに、これらの七不衰の法を教えた。彼らがこれらのほうを守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

    「釈尊(ゴータマ・ブッダ)よ。
    (ヴリッジの人たちが)これらの七不衰法のうちのただひとつでも守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してありますまい。七つの法がぜんぶ揃っていれば申すまでもありません。マガダ国のアジャータシャトル王は武力で彼らをくだすことはできません。もっとも、陰謀か内部分裂でもおこれば別でしょう」

    ・・・内外の社とさまざまの宗教家とを尊敬すべしという教えは注目に値します。ここで「内外の社」と訳しておきましたが漢訳には「宗廟」とあります。内は氏神、外は氏神以外の社をさすものでしょう。佛陀が既存の民族宗教の信仰を廃するどころか、むしろその信仰を奨励した証拠がこれであります。のちに仏教は中国でも日本でも土地固有の信仰を採用しました。神仏の融和を日本における仏教の堕落だと考える学者もいますが、そういう人はインド仏教を知らないからそういえるのです。あらゆる宗教に対する寛容もこの七ヵ条の中にあります。
    ・・・


    以上の事実から分かることは、仏教だけがあらゆる宗教を排斥せずあらゆる異教徒をそのサンガすなわち教団に受け入れる、政教分離の教えであると言うことである。

    そして日本列島というムー大陸の遺残の島国では、ムー大陸の国教であった仏教を蓬莱島の住人がすべて先祖代々受け継ぐ仏国土であるから、悠久の太古からあらゆる渡来人を分け隔てなく優しく受け入れて、力を合わせて政教分離の和を以て貴しとなす三宝帰依和合社会を、庶民常民の親子相伝で代々伝え続けてきたのである。

    憲法ということばは聖徳太子が作った、仏法を守るという意味の仏語日本語である。

    明治憲法は廃仏毀釈して作ったから、本来の意味の憲法ではない。

    しかし日本国憲法は主権を庶民に取り戻して大光王の七不衰法を打ち建てた仏法であるから、日本国憲法は日本語の正しい意味において政教分離民本主義農本主義立憲法治国家の、仏心最勝王教仏法そのものとなるのである。

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  62. 仏教聖典_ほとけ_第二章 永遠の仏_ (豊岳正彦)
    2017-06-27 03:25:02
     第一節 いつくしみと願い

     一、観無量寿経・維摩経・首楞厳経・大槃涅槃経

     仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。

     ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救い取るのが仏の心である。
    「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」と、かたときも捨てることがない。

     仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。
    それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。

     ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知からとらわれを起こして苦しみ、煩悩のままにふるまって悩む。
    罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。

     二、法華経第一六、寿量品・心地観経

     仏の慈悲をただこの世一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。

     仏は常に人びとの前に、その人びとに最も親しみのある姿を示し、救いの手段を尽くす。

     釈迦族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。

     人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底がない。

     だから、仏はその修行の初めに四つの大願を起こした。

    一つには誓ってすべての人を救おう。

    二つには誓ってすべての煩悩を断とう。

    三つには誓ってすべての教えを学ぼう。

    四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。

    この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、そのまま
    仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。


     三、大槃涅槃経

     仏は、仏に成ろうとして殺生の罪を離れることを修め、そしてその功徳によって人びとの長寿を願った。

     仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを得られるようにと願った。

     仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に害心がなく、また身に餓えや渇きがないようにと願った。

     仏は、仏に成ろうとして、偽りのことばを離れる行を修め、その功徳によって人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。

     二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に仲良くして互いに道を語るようにと願った。

     また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が安らいでうろたえ騒ぐことがないようにと願った。

     むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうようにと願った。

     また仏は、仏に成ろうとして、貪むさぼ)りを離れる行を修め、その功徳によって人びとの心に貪(むさぼ)りがないようにと願った。

     憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いがあふれるようにと願った。

     愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を無視する誤った考えがないようにと願った。

     このように、仏の慈悲はすべての人びとに向かうものであり、その本領はすべての人びとの幸福のため以外の何ものでもない。

    仏はあたかも父母のように人びとをあわれみ、人びとに迷いの海を渡らせようと願ったのである。

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  63. 仏教聖典_ほとけ_第二章 永遠の仏_ (豊岳正彦)
    2017-06-27 04:41:19
     第二節 救いとその手だて

     一、法華経第三、譬喩品

     さとりの岸に立って、迷いの海に沈んでいる人びとに呼びかける仏のことばは、人びとの耳には容易に聞こえない。だから、仏は、自ら迷いの海に分け入って、救いの手段を講じた。

     さて、それでは一つの比喩(たとえ)を説こう。
    ある町に長者があって、その家が火事になった。たまたま外にあった長者は帰宅して驚き、子供たちを呼んだが、彼らは遊びにふけって火に気づかず、家の中にとどまっていた。

     父は子供たちに向かって―「子供たちよ、逃げなさい、出なさい。」と叫んだが、子供たちは父の呼び声に気づかなかった。

     子供たちの安否を気遣う父はこう叫んだ―「子供たちよ、ここに珍しいおもちゃがある。早く出てきて取るがよい。」子供たちはおもちゃと聞いて勇み立ち、火の家から飛び出して災いから免れることができた。

     この世はまことに火の家である。ところが人びとは、家の燃えていることを知らず、焼け死ぬかもしれない恐れの中にある。

    だから、仏は大悲の心から限りなく様々に手段をめぐらして人びとを救う。


     二、法華経第四、信解品

     さらに別の比喩を説こう。
    昔、長者のひとり子が、親のもとを離れてさすらいの身となって、貧困のどん底に落ちぶれた。

     父は故郷を離れて息子の行方を求め、あらゆる努力をしたにもかかわらず、どうしてもその行方を求めることができなかった。

     それから十数年か経(た)って、今はみじめな境遇に成り果てた息子が、たまたま父の住んでいる町の方へさすらってきた。  

     めざとくもわが子を認めた父は喜びに躍り上がり、召使いを遣(つか)って放浪の息子を連れ戻そうとした。しかし、息子は疑い、だまされるのを恐れて、行こうとしなかった。

     そこで父はもう一度召使いを息子に近寄らせ、よい賃金の仕事を長者の家で与えようと言わせた。息子はその手段に引き寄せられて仕事を引き受け、召使いのひとりとなった。

     父の長者は、わが家とも知らずに働いているわが子をおいおいに引き立て、ついには金銀財宝の蔵を管理させるに至ったが、それでも息子はなお父とは知らないでいた。

     父はわが子が素直になったのを喜び、またわが命のやがて尽きようとするのを知って、ある日、親族・友人・知己を呼び集めてこう語った―「人びとよ、これはわが子である。永年探し求めていた息子である。今より後、わたしのすべての財宝はみなこの子のものである。」

     息子は父の告白に驚いてこう言った―「今、わたしは父を見いだしたばかりでなく、思いがけずこれらすべての財宝までもわたしのものとなった。」

     ここにいう長者とは仏のことである。迷える息子とはすべての人びとのことである。

    仏の慈悲は、ひとり子に向かう父の愛のようにすべての人びとに向かう。

    仏はすべての人びとを子として教え導き、さとりの宝をもって彼らを富める者とする。


     三、法華経第五、薬草喩品

     すべての人びとを子のようにひとしく慈しむ仏の大悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じてその救いの手段には相違がある。

    ちょうど、降る雨は同じであっても、受ける草木によって、異なった恵みを受けるようなものである。


     四、

     親はどれほど多くの子供があっても、そのかわいさに変わりがないが、その中に病める子があれば、親の心はとりわけその子にひかれてゆく。

     仏の大悲もまた、すべての人びとに平等に向かうけれども、ことに罪の重い者、愚かさゆえに悩める者に慈しみと悲(あわれ)みとをかける。

     また、例えば、太陽が東の空に昇って、闇を滅ぼし、すべてのものを育てるように、仏は人びとの間に出て、悪を滅ぼし、善を育て、智慧の光を恵んで、無知の闇を除き、さとりに至らせる。

     仏は慈しみの父であり、悲(あわれ)みの母である。

    仏は、世間の人びとに対する慈悲の心から、ひたすら人びとのために尽くす。

    人びとは仏の慈悲なくしては救われない。

    人びとはみな仏の子として仏の救いの手段を受けなければならない。

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  64. 仏教聖典_ほとけ_第二章 永遠の仏_ (豊岳正彦)
    2017-06-27 05:26:44
     第三節 仏はとわに

     一、法華経第一六、寿量品

     人びとはみな、仏は王子として生まれ、出家してさとりを得たのだと信じているけれども、実は仏と成ってよりこの方、限りのない時を経ている。

     限りない時の間、仏は常にこの世にあり、永遠の仏として、すべての人びとの性質を知り尽くし、あらゆる手段を尽くして救ってきた。

     仏の説いた永遠の法の中には偽りがない。なぜなら、仏は、世の中のことをあるがままに知り、すべての人びとに教えるからである。

     まことに、世の中のことをあるがままに知ることはむつかしい。なぜなら、世の中のことは、まことかと見ればまことではなく、偽りかと見れば偽りでもない。愚かな者たちはこの世の中のことを知ることはできない。

     ひとり仏の身はそれをあるがままに知っている。だから、仏はこの世の中のことがまことであるとも言わず、偽りであるとも言わず、善いとも言わず、悪いとも言わず、ただありのままに示す。

     仏が教えようとしていることはこうである。
    ―「すべての人びとは、その性質、行い、信仰心に応じて善の根を植えるべきである。」


     二、

     仏はただことばで教えるだけでなく、身をもって教える。仏は、その寿命に限りはないが、欲を貪って飽くことのない人びとを目覚ますために、手段として死を示す。

     例えば多くの子を持つ医師が、他国へ旅をした留守に子供らが毒を飲んで悶え苦しんだとしよう。医師は帰ってこの有様を見、驚いてよい薬を与えた。

     子供たちのうち、正常な心を失っていない者はその薬を飲んで病を除くことができたけれども、すでに正常な心を失ってしまった者はその薬を飲もうとしなかった。

     父である医師は、彼らの病をいやすために思いきった手段をとろうと決心した。彼は子供たちに云った
    ―「わたしは長い旅に出かけなければならない。わたしは老いて、いつ死ぬかもわからない。もしわたしの死を聞いたなら、ここに残しておく薬を飲んで、おのおの元気になるがよい。」

    こうして彼はふたたび長い旅に出た。そして使いを遣わしてその死を告げさせた。
    子供たちはこれを聞いて深く悲しみ、「父は死んだ。もはやわれわれにはたよる者がなくなった。」と嘆いた。
    悲しみと絶望の中で、彼らは父の遺言を思い出し、その薬を飲み、そして回復した。

     世の人はこの父である医師のうそを責めるであろうか。
    仏もまたこの父のようなものである。
    仏は、欲望に追い回されている人びとを救うために、
    仮にこの世に生と死を示したのである。

    (了)

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  65. 仏教聖典_ほとけ_第三章 仏の姿と仏の徳 (豊岳正彦)
    2017-06-27 13:54:57
    _第一節 三つのすがた

     一、華厳経第五、如来光明覚品

     姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。

     世に優れた仏の相(すがた)を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることもできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。

     まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。

     だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。


     二、大槃涅槃経

     仏の身はさとりであるから、永遠の存在であってこわれることがない。食物によって保たれる肉体ではなく、智慧より成る堅固な身であるから、恐れもなく、病もなく、永遠不変である。


     だから、仏は永遠に滅びない。さとりが滅びない限り、滅びることはない。このさとりが智慧の光となって現われ、この光が人をさとらせ、仏の国に生まれさせる。

     この道理をさとった者は仏の子となり、仏の教えを受持し、仏の教えを守って後の世に伝える。
    まことに、仏の力ほど不思議なものはない。


     三、金光明経第三、三身品

     仏には三つの身(からだ)がそなわっている。一つには法身(ほっしん)、二つには報身(ほうじん)、三つには応身(おうじん)である。

     法身とは、法そのものを身とするものである。この世のありのままの道理と、それをさとる智慧が一つになった法そのものである。

     法そのものが仏であるから、この仏には色もなく形もない。色も形もないから、来るところもなく、去るところもない。来るところも去るところもないから充満しないところがなく、大空のようにすべてのものの上にあまねくゆきわたっている。

     人が思うからあるのではなく、人が忘れるから無いのでもなく、人の喜ぶときに来るのでもなく、人の怠るときに去るのでもない。
    仏そのものは、人の心のさまざまな動きを超えて存在する。

     仏の身は、あらゆる世界に満ち、すべてのところにゆきわたり、人びとがふつう持っている仏に関する考えにかかわらず永遠に住する。


     四、三身品

     報身というのは、形のない法身の仏が、人びとの苦しみを救うために形を現わし、願を起こし、行を積み、名を示して、導き救う仏である。

     この仏は大悲をもととし、いろいろな手段によって限りなき人びとを救い、すべてのものを焼き払う火のように、人びとの煩悩の薪(たきぎ)を焼き、また、ちりをふき払う風のように、人びとの悩みのちりを払う。

     応身の仏は、仏の救いを全(まっと)うするために、人びとの性質に応じてこの世に姿を現わし、誕生し、出家し、成道し、さまざまの手段をめぐらして人びとを導き、病と死を示して人びとを警(いまし)める仏である。

     仏の身は、もともと一つの法身であるけれども、人びとの性質が異なっているから、仏の身はいろいろに現われる。しかし、人びとの求める心や、行為や、その能力によって、人のみる仏の相は違っていても、仏は一つの真実を見せるのみである。

     仏の身は三つに分かれるが、それはただ一つのことをなしとげるためである。一つのこととは、いうまでもなく人びとを助け救うことである。

     限りのないすぐれた身をもって、あらゆる境界に現われても、その身は仏ではない。

     仏は肉体ではないからである。
    たださとりを身としてすべてのものに満ちみち、真実を見る人の前に仏は常に現われる。

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  66. 仏教聖典_ほとけ_第三章 仏の姿と仏の徳 (豊岳正彦)
    2017-06-27 18:38:44
     第二節 仏との出会い

     一、華厳経・華厳経第三四、入法界品・阿弥陀経

     仏がこの世に現われるのは、はなはだまれである。
    仏は今この世界においてさとりを開き、法を説き、疑いの網を断ち、愛欲の根を抜き、悪の源をふせぎ、妨げられることなく、自由自在にこの世を歩く。
    世に仏を敬うより以上の善はない。

     仏がこの世に現われるのは、法を説いて、人びとにまことの福利を恵むためである。

    苦しみ悩む人びとを見捨てることができないから、仏はこの苦難の世界に現われる。

     世に道理なく、不正はびこり、欲に飽くことなく、心身ともに堕落し、命短きこの世に、法をとくことは、はなはだむつかしい。

    ただ大悲のゆえに、仏はこの困難に打ち勝つ。


     二、華厳経・雑阿含経三五巻五

     仏はこの世におけるすべての人びとの善い友である。
    煩悩の重荷に悩む者が仏に会えば、仏はそのために代わってその重荷をになう。

     仏はこの世におけるまことの師である。
    愚かな迷いに苦しむ者が仏に会えば、仏は智慧の光によってその闇を払う。

     子牛がいつまでも母牛のそばを離れないように、ひとたび仏の教えを聞いた者は仏を離れない。
    教えを聞くことは常に楽しいからである。


     三、大槃涅槃経

     月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現われると、人びとは月が出たという。
    けれども月は常に住して出没することがない。
    仏もそのように常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとを教えるために生滅を示す。

     人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。
    仏もまたそのように、常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。

     月はまたすべての上に現われる。
    町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末の露にも現われる。
    人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。
    月そのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。
    仏もまたそのように、世の人びとに従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。


     四、大槃涅槃経

     仏がこの世に現われたことも、また隠れたことも、因縁*を離れてあるのではない。
    人びとを救うのによい時が来ればこの世にも現われ、その因縁が尽きればこの世から隠れる。

     仏に生滅の相はあっても、まことに生滅することはない。
    この道理を知って、仏の示す生滅と、すべてのもののうつり変わりに驚かず、悲しまず、まことのさとりを開いて、この上ない智慧を得なければならない。

     仏は肉体ではなくさとりであることはすでに説いた。
    肉体はまことに容器であり、その中にさとりを盛ればこそ仏といわれる。
    だから、肉体にとらわれて、仏のなくなることを悲しむ者は、まことの仏を見ることはできない。

     もともと、あらゆるもののまことの相は、生滅・去来(こらい)・善悪(ぜんなく)の差別を離れた空*にして平等なものである。

     それらの差別は、見る者の偏見から起こるもので、仏のまことの相も、実は現われることもなく隠れることもない。



    _第三節 すぐれた徳

     一、パーリ、中部八-七七、善生優陀夷大経

     仏は五つのすぐれた徳を備えて、尊敬を受ける。
    すぐれた行い、
    すぐれた見方、
    すぐれた智慧、
    さとりの道を明らかに説くこと、
    人びとをしてよく教えのとおりに修めさせることである。

     また仏には八つのすぐれた能力がある。
    一つには、仏は人びとに利益と幸福とを与える。
    二つには、仏の教えはこの世においてただちに利益がある。
    三つには、世の善悪正邪を正しく教える。
    四つには、正しい道を教えてさとりに入らせる。
    五つには、どんな人をも一つの道に導く。
    六つには、仏にはおごる心がない。
    七つには、言ったとおり実行し、実行するとおりに語る。
    八つには、惑いなく、願いを満たし、完全に行をなしとげる。

     また仏は、
    瞑想に入って静けさと平和を得、
    あらゆる人びとに対して慈しみの心、悲(あわれ)みの心、とらわれのない心を持ち、
    心のあらゆる汚れを去って、
    清らかな者だけが持つ喜びを持つ。

     
     二、大槃涅槃経・楞伽経

     この仏はすべての人びとの父母である。
    子が生まれて一六ヶ月の間、父母は子の声に合わせて赤子のように語り、それからおもむろにことばを教えるように、
    仏もまた、人びとの言葉に従って教えを説き、
    その見るところに従って相(すがた)を現わし、
    人びとをして安らかな揺らぎのない境地に住まわせる。

     また仏は、一つの言葉をもって教えを説くが、人びとはみなその性質に応じてそれを聞き、仏は今、わたしのために教えを説かれたと喜ぶ。

     仏の境地は、迷える人びとの考えを超えており、ことばでは説き尽くすことはできないが、強いてその境地を示そうとすれば、たとえによるほかはない。

     ガンジス河は常に亀や魚、馬や象などに汚されているが、いつも清らかである。
    仏もこの河のように、異教の魚や亀などが競い来って乱しても、少しも思いを乱されることなく清らかである。


     三、華厳経第三二、如来性起品

     仏の智慧はすべての道理を知り、かたよった両極端を離れて中道*に立ち、また、
    すべての文字やことばを超え、すべての人びとの考えを知り、
    一瞬のうちにこの世のすべてのことを知っている。

     静かな大海に、大空の星がすべてその形を映し出すように、
    仏の智慧の海には、すべての人びとの心や思いや、その他あらゆるものがそのままに現われる。
    だから仏を一切知者という。

     この仏の智慧はあらゆる人びとの心をうるおし、光を与え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果*の道理を明らかに知らせる。
    まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこの世のことを知る。


     四、法華経第二五、普門品・大槃涅槃経

     仏はただ仏として現われるだけでなく、あるときは悪魔となり、あるときは女の姿となり、神々の像となり、国王、大臣となり、あるいは娼婦の家、賭博者の家にも現われる。

     病のあるところには医師となって薬を施して教えを説き、
    戦いが起これば正しい教えを説いて災いを離れさせ、
    固定的な考えにとらわれている者には無常*を説き、
    自我と誇りにこだわっている者には無我*を説き、
    世俗的悦楽の網にとらわれている者には世の痛ましい有様を明らかにする。

     仏のはたらきは、このようにこの世の事物の上に現われるが、それはすべてみな法身の源から流れ出るもので、
    限りない命、限りない光の救いも、その源は法身の仏にある。


     五、法華経第二、方便品

     この世は火の宅(いえ)のように安らかでない。
    人びとは愚かさの闇(無明*)につつまれて、怒り、ねたみ、そねみ、あらゆる煩悩*に狂わされている。
    赤子に母が必要であるように、人びとはみなこの仏の慈悲*に頼らなければならない。

     仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。
    だから、あらゆる人びとはみな仏の子である。
    彼らはひたすらこの世の楽しみにのみかかわり、その災いを見通す智慧を持たない。
    この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。

     ところが、仏は迷いの世界という火の宅(いえ)を離れ、静寂な林にあって、
    「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。
    限りない悩みを救うのはわれひとりである。」と言う。

     仏は実に、大いなる法*の王であるから、思いのままに教えを説く。

    仏はただ、人びとを安らかにし、恵みをもたらすためにこの世に現われた。

    人びとを苦しみから救い出すために、仏は法を説いた。

    ところが、人びとは欲に引かれて聞く耳を持たず気にもしていない。

     しかし、この教えを聞いて喜ぶ人は、もはや決して迷いの世界に退くことのない境地におかれるだろう。

    「わが教えは、ただ信によってのみ入ることができる。

    すなわち、仏のことばを信ずることによって教えにかなうので、自分の知恵によるのではない。」と仏は言った。

    したがって仏の教えに耳を傾け、それを実践すべきである。



    (仏教聖典_ほとけ_了)

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  67. ////////仏教聖典用語解説////////////////// (豊岳正彦)
    2017-06-27 18:39:28
    *仏(仏陀・Buddha)

     梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。
    普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。
    仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
     大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
    例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
     なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。


    *法(達磨・dharma)

     さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律に対する解釈や註釈)の三種の聖典である。
    これは、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽”と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。


    *空 (sunyata)

     存在するものには、実体・我がないと考える思想である。すべてのものは相縁(よ)り、相起こって存在するにすぎないから、実体として不変な自我がその中に存在する筈がない。したがって実体ありととらわれてもいけないし、存在しないととらわれてもならないわけである。すべてのものは、人もその他の存在も相対的な関係にあり、一つの存在や主義にとらわれたり、絶対視してはならない。般若経系統の思想の根本とされる。

    *中道 (madhyama pratipad)

     偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を徹見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、止揚する思想として表れてくる。例えば有無の両極端、断常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。

    *因果=業(ごう)と結合して因業(いんごう)として説明
    *業 (karman)

     本来の意味は行為ということであるが、因果関係と結合して、行為のもたらす結果としての潜在的な力とみなされている。つまり一つの行為は必ず善悪・苦楽の果報をもたらすから、その影響力が業と考えられ、例えば前世の行為の果報としての宿業などが説かれるに至っている。善い行為を繰り返し、積み重ねれば、その影響力が未来に及んで作用すると考えられている。なお、業には、身口意(しんくい)の三種の行為があるとされる(身業・口業・意業)。

    *無常(むじょう)anitya

     あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。
    仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。
    あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。
    これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。
    生成発展も無常の一面だからである。

    *無我(anartman)

     仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
    それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
    なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。

    *煩悩(klesa)

     悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。
    人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。
    その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。
    貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。
    これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。
    しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。

    *涅槃(nirvana)

     梵語の”吹き消す”という意味の、ニルバーナという単語の音写で、”滅”・”滅度”・”寂滅”などと訳される。
    丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを”入涅槃”といい、達したものを”仏陀”とよぶ。
    釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を入涅槃ということもあるが、肉体が滅びたtきに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、三五歳で仏になったときに”涅槃”の状態に達したと考えられている。

    *無明(avidya)
     正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説*では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

    *十二因縁
    「仏陀」塚本啓祥著 教育新潮社1969年発刊 フリドブックスp94
    釈尊の教え四聖諦(ししょうたい)「苦集滅道」のうち「集諦(じゅうたい、じったい)」の「十二支(十二縁起、十二因縁)」について塚本師の解説です。
    ________________________

    ・・・仏陀は「苦」を滅するために、苦を生ぜしめる種々の条件を思索した。・・・

     十二支とは無明(むみょう)・行(ぎょう)・識(しき)・名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・触(そく)・受(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)である。

    この支分は「無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至、生を縁として老死あり」と因から果へ順次に思索せられる。

    また「老死は生を縁とし、生は有を縁とし、乃至、行は無明を縁とす」と果より因へ逆次に思索せられる。

    また「無明滅するに縁(よ)って行滅す、行滅するに縁って識滅す、乃至、生滅するによって老死滅す、故に憂悲苦悩滅す」という思索の過程も示される。


     そこで十二支の意味と成立の関係について説明しよう。

    (1)無明とは心の迷闇無知で、これによって種々の作為が起こる。この心の作為を(2)行という。ゆえに無明を縁として行ありという。

    また、心の作為は、(3)識、すなわち識別・意識を生じる。ゆえに行を縁として識ありという。

    次に、(4)名色とは名称と形態あるもの、すなわち個体をいう。仏教においては、認識以前に存在する物自体を措定しないで、それぞれの個体は、識によってはじめて存在の意味をもつとするのであるから、識を縁として名色ありという。

    次に、(5)六処は眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜっ)・身(しん)・意(い)の六種の知覚器官で、これは知覚の対象たる個体があってはじめて成り立つのであるから、名色を縁として六処ありという。

    そして、知覚器官と知覚の対象との接触によって知覚すなわち感受が成り立つので、六処を縁として(6)触あり、触を縁として(7)受ありという。

    さて、感受によって対象に対する渇望、すなわち、(8)愛(渇愛)を生じる。したがって、受を縁として愛ありという。

    また、対象に対する渇望は、そのものに対する取著、すなわち固執を生じる。ゆえに愛を縁として、(9)取ありという。

    次に、対象に対して欲望をもち、それに固執している姿がわれわれの生存、すなわち現実世界である。ゆえに取を縁として、(10)有(=生存)ありという。

    そして、われわれの生存は、(11)生をもってはじまり(出生)、(12)老死をもって終わるので、有を縁として生あり、生を縁として老死ありと説くのである。

     要するに、人生の苦は執著(しゅうちゃく、しゅうぢゃく)に由来するが、その執着は生存に対する渇愛によって生じ、その渇愛は、さらに無明に由来すると教えるのが十二縁起説である。

    かくて(苦諦を滅する)集諦の認識が成立する。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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  68. *解脱 (vimukti ・ vimoksa)

     文字どおりに、この輪廻転生する迷いの世界という縛から解き離れて、涅槃とよばれるさとりの境地へと脱出することである。そして、此の迷いの世界(此岸)から脱出して、永遠に(彼岸の)さとりの状態にとどまるものが、”仏陀”であり、そこでは一切の縛、すなわち煩悩から離れているので、自由自在なのである。

    *廻向 (parinama)

     自分のなしたよい行為をふり向けることで、これに、自分自身の未来のさとりにふり向ける場合と、他の人びとにふり向ける場合とがある。現在一般に世間で使われているものは、「死んだ人が、この世でなした悪行の罪を消して、来世での良い結果を得るように」という願いをもって、葬式や法事の際の読経の功徳によって死者の冥福を祈念する、という形の廻向である。

    *輪廻 (samsara)
     
     過去世から現在世へ、更に未来世へと、生まれ変わり死に変わることを、輪がまわるのにたとえたもので、輪廻転生という言葉もある。人間が、此の迷いの世界から彼のさとりの世界へと脱出(解脱)しない限り、地獄・餓鬼・畜生の三悪道や、それに阿修羅・人間・天上を加えた六道の世界への転生を永遠に繰り返すのである。この輪廻の輪から抜け出たものが、”仏陀”とよばれる。


    *智慧(般若prajna)

     普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀(ぶつだ)”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見抜くことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

    *波羅密(paramita)

     パーラミターという梵語の漢音写で、”度”とか”到彼岸”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅密(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の”彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられた。

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  69. 『父母恩重経』 ぶもおんじゅうきょう  (和訓) (豊岳正彦)
    2017-06-27 22:29:49
    是(かく)の如く 我れ聞けり。

    或る時、佛、王舎城(おうしゃじょう)の耆闍崛山(ぎしゃくつせん)中に菩薩声聞(しょうもん)の衆と倶(とも)にましましければ、

    比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・一切諸天の人民(にんみん)・および龍鬼神等、法を聞かんとて、来たり集まり、

    一心に寶座(ほうざ)を囲繞(いにょう)して、瞬(またた)きもせで尊顔を仰ぎ見たりき。
    是のとき、佛、すなわち法を説いて宣(のたま)わく。

    一切の善男子・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。

    そのゆえは、人の此の世に生まるゝは、宿業(しゅくごう)を因として、父母(ちちはは)を縁とせり。

    父にあらされば生(しょう)ぜず、母にあらざれば育てられず。

    ここを以て氣を父の胤(たね)に稟(う)けて形を母の胎(たい)に托(たく)す。
    此の因縁を以ての故に、悲母(ひも)の子を念(おも)うこと世間に比(たぐ)いあることなく、その恩未形(みぎょう)に及べり。

    始め胎に受けしより十月を經(ふ)るの間、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)ともに、もろもろの苦惱を受く。

    苦惱休(や)む時なきが故に、常に好める飲食(おんじき)・衣服(えぶく)を得(う)るも、愛欲の念を生ぜず、

    唯だ一心に安く生産(しょうさん)せんことを思う。
    月滿ち日足りて、生産(しょうさん)の時至れば、業風(ごっぷう)吹きて、之れを促し、

    骨節(ほねふし)ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、其の苦しみ堪(た)えがたし、

    父も心身戦(おのの)き怖(おそ)れて母と子とを憂念(ゆうねん)し諸親眷属(しょしんけんぞく)皆な悉(ことごと)く苦惱す。

    既に生まれて草上に墮(お)つれば、父母の喜び限りなきこと猶(な)ほ貧女(ひんにょ)の如意珠(にょいじゅ)を得たるがごとし。

    その子聲(こえ)を發すれば、母も初めて此の世に生まれ出でたるが如し。
    爾來(それより)母の懐(ふところ)を寝處(ねどこ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情(なさけ)を生命(いのち)となす。

    飢えたるとき食を需(もと)むるに母にあらざれば哺(くら)わず、渇(かわ)けるとき飲料(のみもの)を索(もと)むるに母にあらざれば咽(の)まず、

    寒きとき服(きもの)を加うるに母にあらざれば着ず、暑きとき衣(きもの)を撒(さ)るに母にあらざれば脱がず。

    母飢(うえ)に中(あた)る時も哺(ふく)めるを吐きて子に食(くら)わしめ、母寒きに苦しむ時も着たるを脱ぎて子に被(こうむ)らす。

    母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。

    その闌車(らんしゃ)を離るるに及べば、十指(じっし)の甲(つめ)の中に、子の不浄を食らう。

    計るに人々、母の乳を飲むこと一百八十斛(こく)となす。

    父母(ちちはは)の恩重きこと天の極(きわ)まり無きが如し。

    母、東西の隣里に傭(やと)われて、或(あるい)は水汲み、或は火燒(ひた)き、或は碓(うす)つき、或は磨挽(うすひ)き、種々の事に服従して

    家に還(かえ)るの時、未だ至らざるに、今や吾が兒(こ)、吾が家(いえ)に啼(な)き哭(さけ)びて、吾を戀(こ)ひ慕はんと思い起せば、

    胸悸(むねさわ)ぎ心驚き両乳(りょうにゅう)流れ出でて忍び堪(た)ゆること能(あた)わず、乃(すなわ)ち去りて家に還る。

    兒(こ)遙(はるか)に母の歸(かえ)るを見て、闌車(らんしゃ)の中に在れば、即ち頭(かしら)を動かし、腦(なづき)を弄(ろう)し、

    外に在(あ)れば、即ち葡匐(はらばい)して出で來(きた)り、嗚呼(そらなき)して母に向う。

    母は子のために足を早め、身を曲げ、長く兩手を伸(の)べて、塵土(ちりつち)を拂(はら)い、

    吾が口を子の口に接(つ)けつつ乳を出(い)だして之れを飲ましむ。

    是のとき母は子を見て歡(よろこ)び、子は母を見て喜ぶ。

    兩情一致、恩愛の洽(あまね)きこと、復(ま)た此れに過ぐるものなし。
    二歳懐(ふところ)を離れて始めて行く。

    父に非(あら)ざれば、火の身を焼く事を知らず。

    母に非ざれば、刀(はもの)の指を墮(おと)す事を知らず。

    三歳、乳を離れて始めて食う。

    父に非ざれば毒の命を殞(おと)す事を知らず。

    母に非ざれば、薬の病を救う事を知らず。

    父母外に出でて他の座席に往き、美味珍羞(びみちんしゅう)を得(う)ることあれば、自ら之を喫(くら)うに忍びず、懐に収めて持ち歸り、喚(よ)び来りて子に與(あた)う。

    十(と)たび還れば九(ここの)たびまで得(う)。得(う)れば即ち常に歡喜(かんき)して、かつ笑いかつ食(くら)う。

    もし過(あやま)りて一たび得ざれば、則ち矯(いつ)わり泣き、佯(いつ)わり哭(さけ)びて、父を責め母に逼(せ)まる。

    稍(や)や成長して朋友と相交わるに至れば、父は衣(きぬ)を索(もと)め帶(おび)を需(もと)め、

    母は髪を梳(くしけず)り、髻(もとどり)を摩(な)で、己(おの)が好美(このみ)の衣服は皆な子に與えて着せしめ、

    己れは則(すなわ)ち古き衣(きぬ)、弊(やぶ)れたる服(きもの)を纏(まと)う。

    既に婦妻を索(もと)めて、他の女子を娶(めと)れば、父母をば轉(うた)た疎遠して夫婦は特に親近し、私房の中(うち)に於て妻と共に語らい樂しむ。

    父母年高(ちちははとした)けて、氣老い力衰えぬれば、依(よ)る所の者は唯だ子のみ、頼む所の者は唯だ嫁のみ。

    然るに夫婦共に朝(あした)より暮(くれ)に至るまで、未だ肯(あえ)て一たびも来(きた)り問はず。

    或は父は母を先立て、母は父を先立てて獨(ひと)り空房を守り居るは、猶ほ孤客(こかく)の旅寓(りょぐう)に寄泊(きはく)するが如く、

    常に恩愛の情(じょう)なく復(ま)た談笑の娯(たのし)み無し。

    夜半、衾(ふすま)、冷(ひややか)にして五體(ごたい)安んぜず。

    況んや褥(しとね)に蚤虱(のみしらみ)多くして、暁(あかつき)に至るまで眠られざるをや、

    幾度(いくたび)か輾転反側して獨言(ひとりごと)すらく、噫(ああ)吾れ何の宿罪ありてか、斯(か)かる不孝の子を有(も)てるかと。
    事ありて、子を呼べば、目を瞋(いか)らして怒(いか)り罵(ののし)る。

    婦(よめ)も兒(こ)も之れを見て、共に罵り共に辱しめば、頭(こうべ)を垂れて笑いを含む。

    婦も亦た不孝、兒も亦た不順。夫婦和合して五逆罪を造る。
    或は復た急に事を辧(べん)ずることありて、疾(と)く呼びて命ぜむとすれば、十(と)たび喚(よ)びても九(ここの)たび違(たが)い、

    遂に来(きた)りきて給仕せず、却(かえ)りて怒(いか)り罵(ののし)りて云(いわ)く、

    「老い耄(ぼ)れて世に残るよりは早く死なんには如かずと。」
    父母(ちちはは)これを聞いて、怨念胸に塞(ふさ)がり、涕涙瞼(ているいまぶた)を衝(つ)きて、目瞑(めくら)み、心惑(こころまど)い、悲(かなし)み叫びて云く、

    「あゝ汝幼少の時、吾に非ざれば養われざりき、吾に非ざれば育てられざりき、

    而して今に至れば即ち却(かえ)りて是(かく)の如し。

    あゝ吾れ汝を生みしは本より無きに如かざりけり。」と。
    若し子あり、父母(ちちはは)をして是(かく)の如き言(ことば)を発せしむれば、子は即ちその言と共に堕ちて地獄、餓鬼、畜生の中(うち)にあり。

    一切の如来、金剛天、五通仙も、これを救い護ること能わず。

    父母(ちちはは)の恩重きこと天の極まり無きが如し。
    善男子善女人よ、別(わ)けて之れを説けば、父母(ちちはは)に十種の恩徳あり。

    何をか十種となす。

     一には 懐胎守護(かいたいしゅご) の恩

     二には 臨生受苦(りんしょうじゅく) の恩

     三には 生子忘憂(しょうしぼうゆう) の恩

     四には 乳哺養育(にゅうほよういく) の恩

     五には 廻乾就湿(えげんじゅしつ) の恩

     六には 洗灌不浄(せんかんふじょう) の恩

     七には 嚥苦吐甘(えんくとかん) の恩

     八には 為造悪業(いぞうあくごう) の恩

     九には 遠行憶念(おんぎょうおくねん) の恩

     十には 究竟憐愍(くきょうれんみん) の恩
    父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。

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  70. 善男子・善女人よ、是(かく)の如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。

    佛、すなわち偈(げ)を以て讃じて宣わく、

    悲母(ひも)、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒(わか)ちて、身重病を感ず、子の身体これに由(よ)りて成就す。

    月満ち時到れば、業風催促して、[*ぎょうにんべんに扁]徧身疼痛(へんしんとうつう)し、骨節(こっせつ)解体して、神心悩乱し、忽然(こつねん)として身を亡ぼす。

    若(も)し夫(そ)れ平安になれば、猶ほ蘇生し来(きた)るが如く、子の声を発するを聞けば、己れも生れ出でたるが如し。

    其の初めて生みし時には、母の顔(かんばせ)、花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す。
    水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁(あかつき)にも、乾ける処に子を廻(まわ)し、濕(しめり)し処に己れ臥す。

    子己(おの)が懐(ふところ)に屎(くそま)り、或は其の衣(きもの)に尿(いばり)するも、手自ら洗い濯(そそ)ぎて、臭穢(しゅうえ)を厭(いと)うこと無し。

    食味を口に含みて、これを子に哺(ふく)むるにあたりては、苦き物は自から嚥(の)み、甘き物は吐きて与う。

    若し夫れ子のために止むを得ざる事あれば、自(みずか)ら悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず。

    若し子遠く行けば、帰りて其の面(おもて)を見るまで、出でても入りても之を憶い、寝ても寤(さ)めても之を憂う。

    己(おの)れ生(しょう)ある間は、子の身に代らんことを念い、己れ死に去りて後(のち)には、子の身を護らんことを願う。
    是(かく)の如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。
    然るに長じて人と成れば、声を抗(あ)げ気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず、母の言に瞋(いか)りを含む。

    既にして婦妻を娶れば、父母にそむき違うこと恩無き人の如く、兄弟を憎み嫌うこと怨(うらみ)ある者の如し。

    妻の親族訪(と)い来れば、堂に昇(のぼ)せて饗応し、室に入れて歓晤(かんご)す。

    嗚呼(ああ)、噫嗟(ああ)、衆生顛倒して、親しき者は却(かえ)りて疎(うと)み、疎き者は却りて親しむ。

    父母(ちちはは)の恩重きこと天の極まり無きが如し。

    其の時、阿難、座より起ちて、偏(ひとえ)に右の肩を袒(はだ)ぬぎ、長跪合掌して、前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して云(もう)さく、

    「世尊よ、是(かく)の如き父母(ちちはは)の重恩を、我等出家の子(もの)は、如何にしてか報ずべき。

    具(つぶ)さに其の事を説示し給え。」と。
    佛(ほとけ)、宣(のたま)わく。

    「汝等大衆よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。

    出でて時新の甘果を得れば、将(も)ち帰り父母(ちちはは)に供養せよ。

    父母これを得て歓喜し、自ら食(くら)うに忍びず、先ず之を三寶(さんぽう)に廻(めぐ)らし施せば、則ち菩提心を啓発せん。
    父母病あらば、牀辺(しょうへん)を離れず、親しく自ら看護せよ。

    一切の事、これを他人に委(ゆだ)ぬること勿(なか)れ。

    時を計り便を伺いて、懇(ねんご)ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。

    親は子の勧むるを見て、強いて粥飯を喫し、子は親の喫するを見て、抂(ま)げて己(おの)が意(こころ)を強くす。

    親暫(しばら)く睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡(ねむり)覚むれば、医に問いて薬を進めよ。

    日夜に三寶に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒(い)えんことを願い、常に報恩の心を懐(いだ)きて、片時も忘失(わす)るゝこと勿れ。
    是の時、阿難また問うて云く。

    「世尊よ、出家の子、能(よ)く是(かく)の如くせば、以って父母(ちちはは)の恩に報(むくゆ)ると為(な)すか。」

    佛、宣わく。

    「否。未だ以て、父母(ちちはは)の恩に報ると為さざるなり。

    親、頑固(かたくな)にして三寶を奉ぜず、不仁にして物を残(そこな)い、不義にして物を盗み、無礼にして色に荒(すさ)み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽(ふけ)らば、

    子は当(まさ)に極諫(ごくかん)して、之れを啓悟(けいご)せしむべし。

    若し猶ほ闇(くら)くして未だ悟ること能(あた)わざれば、則ち為に譬(たとえ)を取り、類を引き、因果の道理を演説して、未来の苦患(くげん)を救うべし。

    若し猶ほ頑(かたくな)にして未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷(ていきゅうきょき)して己が飲食(おんじき)を絶てよ。

    親、頑闇(かたくな)なりと雖も、子の死なんことを懼るるが故に、恩愛の情に索(ひ)かれて、強忍(きょうにん)して道に向わん。

    若(も)し親志(こころざし)を遷(うつ)して、佛の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて婬(いん)せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、

    則ち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦して、婢僕(ひぼく)忠順し、六畜蟲魚(ろくちくちゅうぎょ)まで普(あまね)く恩沢(おんたく)を被(こうむ)りて、

    十方の諸仏、天龍鬼神、有道(うどう)の君(きみ)、忠良の臣より、庶民万姓(ばんしょう)に至るまで、敬愛(きょうあい)せざるはなく、

    暴悪の主(しゅ)も、佞嬖(ねいへい)の輔(ほ)も、妖児兇婦(ようじきょうふ)も、千邪万怪(せんじゃばんかい)も、之れを如何ともすること無けん。

    是(ここ)に於て父母(ちちはは)、現(げん)には安穏に住し後(のち)には善処に生じ、仏を見、法を聞いて長く苦輪を脱せん、

    かくの如くにして始めて父母の恩に報るものとなすなり。」

    佛、更に説を重ねて宣わく。

    「汝等大衆能く聴けよ。

    父母のために心力(しんりょく)を盡(つく)して、有らゆる佳味、美音、妙衣(みょうえ)、車駕(しゃが)、宮室(きゅうしつ)等を供養し、

    父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、若し未だ三寶を信ぜざらしめば、猶ほ以て不孝と為す。
    如何となれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を検(ひきし)め、柔和にして恥を忍び、

    勉強して徳を進め、意を寂静(じゃくじょう)に潜(ひそ)め、志を学問に励ます者と雖も、

    一たび酒食に溺るれば、悪魔忽(たちま)ち隙を伺い、妖魅(ようみ)則ち便(たより)を得て、

    財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)させ、怠(おこたり)を増させ、心を乱し、智を晦(くら)まして、

    行いを禽獣に等しくするに至ればなり。

    大衆よ古(いにしえ)より今に及ぶまで、之に由りて身を亡ぼし家を滅ぼし君を危くし、親を辱しめざるは無し。

    是の故に、沙門は独身(どくしん)にして耗(ぐう)なく、その志を情潔にして、唯だ道を是れ務む。

    子たる者は深く思い、遠く慮(おもんばか)りて、以て孝養の軽重・緩急を知らざるべからざるなり。

    凡(およ)そ是等(これら)を父母(ちちはは)の恩に報(むくゆ)るの事となす。」と。

    是のとき阿難、涙を払いつつ座より起ち長跪(ちょうき)合掌して前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して曰(もう)さく、

    「世尊よ、此の経は当(まさ)に何と名づくべき。

    又如何にしてか奉持(ぶじ)すべきか。」と。
    佛、阿難に告げ給わく。

    「阿難よ、此の経は父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)と名づくべし。

    若し一切衆生ありて、一たび此の経を読誦(どくじゅ)せば、則ち以て乳哺(にゅうほ)の恩に報(むくゆ)るに足らん。

    若し一心に此の経を持念し、又人をして之を持念せしむれば、当(まさ)に知るべし、

    是の人は、能(よ)く父母の恩に報(むくゆ)ることを。

    一生に有らゆる十悪、五逆、無間(むげん)の重罪も、皆な消滅して、無上道を得ん。」と。

    是の時、梵天・帝釈(たいしゃく)・諸天の人民(にんみん)、一切の集会(しゅうえ)、此の説法を聞いて、悉(ことごと)く菩提心を発(おこ)し、

    五体地に投じて涕涙(ているい)、雨の如く。

    進みて佛足(ぶっそく)を頂礼(ちょうらい)し、退(しりぞ)きて各々(おのおの)歓喜奉行(かんぎぶぎょう)したりき。

    父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)。   

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  71. 感恩の歌        竹内浦次作


    あはれはらから心せよ 山より高き父の恩

    海より深き母の恩 知るこそ道のはじめなれ

    児(こ)を守(も)る母のまめやかに わが懐中(ふところ)を寝床(ねどこ)とし

    かよわき腕をまくらとし 骨身を削るあはれさよ


    美しかりし若妻も 幼児(おさなご)一人そだつれば

    花のかんばせいつしかに 衰へ行くこそかなしけれ

    身を切る如き雪の夜も 骨さす霜のあかつきも

    乾けるところに子を廻し ぬれたるところに己れ伏す


    幼きもののがんぜなく 懐中(ふところ)汚し背をぬらす

    不浄をいとふ色もなく 洗ふも日々に幾度ぞや

    己れは寒さに凍えつつ 着たるを脱ぎて子を包み

    甘きは吐きて子に与え 苦きは自ら食(くら)ふなり


    幼児乳をふくむこと 百八十斛(ももやそこく)を超すとかや

    まことに父母の恵こそ 天の極り無きが如し

    父母は我が子の為ならば 悪業(あっごう)つくり罪かさね

    よしや悪趣に落つるとも 少しの悔(くひ)もなきぞかし


    若し子遠く行くあらば 帰りてその面(かほ)見るまでは

    出ても入りても子を憶(おも)ひ 寝ても覚めても子を念(おも)ふ

    髪くしけづり顔ぬぐひ 衣を求め帯を買い

    美しきは皆子に与へ 父母は古きを選むなり


    己れ生あるその内は 子の身に代わらんことを思ひ

    己れ死に行くその後は 子の身を守らんことを願ふ


    よる年波の重なりて いつか頭(かうべ)の霜白く

    衰へませる父母を 仰げば落つる涙かな

    あゝありがたき父の恩 子はいかにして酬(むく)ゆべき

    あゝありがたき母の恩 子はいかにして報ずべき



    報恩の歌


    あはれ地上に数知らぬ 衆生(しゆじやう)の中にただひとり

    父とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝み

    起てよ人の子いざ起ちて 浮世の風にたたかれし

    余命少なきふた親の 弱れる心慰めよ


    さりとも見えぬ父母の 夜半の寝顔仰ぐとき

    見まがふ程の衰へに 驚き泣かぬものぞなき

    樹しづまらんと欲すれど 風の止まぬを如何にせん

    子養はんとねがへども 親在(おは)さぬぞあはれなる


    逝きにし慈父(ちち)の墓石を 涙ながらに拭いつゝ

    父よ父よと叫べども 答へまさぬぞ果敢(はか)なけれ

    あゝ母上よ子を遺(お)きて いづこに一人逝きますと

    胸かきむしり嘆けども 帰りまさぬぞ悲しけれ


    父死に給ふその臨終(きは)に 泣きて念ずる声あらば

    生きませる時なぐさめの 言葉かはして微笑(ほほえ)めよ

    母息絶ゆるその臨終に 泣きて合掌(おろが)む手のあらば

    生きませる時肩にあて 誠心(まごころ)こめてもみまつれ


    実(げ)に古くして新しき 道は報恩のをしへなり

    孝は百行(ひゃくぎょう)の根本(もと)にして 信への道の正門ぞ

    世の若人よとく往きて 父母の御前に跪拝(ひざま)づけ

    世の乙女子(をとめご)よいざ起ちて 父母の慈光(ひかり)を仰げかし


    老いて後思い知るこそ悲しけれ

    この世にあらぬ親の恵みに

                              合掌

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  72. あとがき             法相宗管長薬師寺住職  高田 好胤
                
     私は常づね、父母恩重経を一人でも多くの人々に読んで頂きたいと願っています。

    しかし、佛壇店をたずねても般若心経、阿弥陀経、観音経等の経本は必ずおかれていますが、父母恩重経をおいて下さっているお店はまだまだ少ないようです。

    そこでお佛壇を扱っておられる方々にお会いするたびに、温かい世づくりのお手伝いの為にぜひ父母恩重経もそろえてもらいたい旨お願いをし続けてきました。

    今回(昭和五十八年)、全日本宗教用具協同組合で父母恩重経を刊行され、それを各佛壇店において下さる由、大変有難い事だと喜んでいます。


     私は結婚式に招かれた時、必ず父母恩重経をお持ちして、新婚のお二人に差上げ、新婚旅行の道中、二人で心を合わせ、声を揃えて読んできてほしい。

    そして帰ってからは座右の書の一冊に加えてもらいたいとお願いしています。

    皆さんお読みになってきて下さるようで、新婚旅行の旅先から情景描写などをまじえてのお礼状を頂きます。

    中には「こんなお経を読まされたばっかりに楽しかるべき新婚旅行が涙の旅行になってしまいました」と恨み状めいたものを手にする事もあります。

    けれども私は「よかったなあ」と喜びの気持ちで読ませてもらっています。

    親の恩の尊さを身近に説いたこのお経を、新婚の夫婦がいっしょに読んで催してくれるその涙は、人の心の中にその本質としてだれもが授かっているやさしさ、温かさに目ざめてもらったあらわれの涙であることがとてもうれしいのです。

    ですから、どのお礼状も最後には「この涙は二人が生涯忘れてはならない大切な涙であると思いました」といった意味の言葉で結ばれているのが常です。

    こうしたお礼状を頂くたびに、新しい人生の門出を父母恩重経でお手伝いする事のできた満足感が私の胸を潤してくれます。


     ところでこのお経において親の苦労の具体的な姿は殆どが母の姿で説かれています。

    お釈迦様のお母さま、摩耶夫人(まやぶにん)はお釈迦さまをお産みになって七日後に亡くなっておられます。

    大変な難産だったのです。

    そのせいか、父母恩重経の中に子供を産むときの母親は命がけである事を所をかえて二度も説かれています。

    これはお釈迦様八十年のご生涯を通じてのご実感であったと思います。

    こうしたご自分の命とひきかえに魂と肉体をこの世に生み出して下さったお母さまに何一つして差上げる事ができなかったお釈迦様のお気持ちが、お母さまに傾きっぱなしのままでこのお経が説かれている所以であると拝察されます。

    同時にこのようにお釈迦さまがお母さまをお慕い続けられた飾り気のないおやさしいお気持ちがその底に流れているところに読む人の心を打つ所以があるのだと思います。

    先年、父母恩重経を講義し、一冊にまとめて出版した本の題を「母」(徳間書店刊)とした理由もここにあります。


     諸人(もろびと)よ 思い知れかし 己(おの)が身の

      誕生の日は 母苦難(ははくなん)の日


     これはよみ人しらずのお歌ですが、まさに父母恩重経の精神(こころ)さながらの一首であります。


     私は両親の命日と自分の誕生日に父母恩重経を読誦(どくじゅ)しております。

    毎年三月二十三日、母の祥月命日には六つ年上の姉と位牌を前に読誦致します。

    やはり姉の方が早く声をつまらせてしまいます。

    するとそれにつりこまれて私も胸に熱いものがこみ上げてきて、最後は共にとぎれとぎれに読み終えるのがやっとです。

    はらからの情愛に心潤さずにおかないのがこのお経であります。

    また、「父母恩重経は私にとって、生前親不孝を重ねた懺悔のお経であります」とおっしゃられる方もおられます。

    どうか皆さん方もご両親在(おわ)しまさぬ場合、ご命日に兄弟姉妹(ごきょうだい)でこのお経を読誦して頂きたい、
    そしてはらからの情愛に心潤され合(お)うて頂きたいと思います。

    幸いご両親ご健在の方は自分の誕生日に読誦して、人の心の初心にかえる感動の涙に心洗われて頂きたいと思います。

     「大孝は終身父母を慕う。」(命ある限りいついつ迄も両親を慕い続ける事、それは真(まこと)の親孝行である)
    これは中国の思想家、孟子さまのお言葉です。

    孔子さまも孝経の中で、
    「孝は徳の本なり。教への由(よ)って生ずる所なり(親孝行はすべての道徳の源であり、これなくして教育は成り立たない)」と教えて下さっています。

    孝謙天皇の天平宝字元年(西紀七五七年)、天皇は各家庭に孝経をおいて読むようにとの勅を発しておられます。

    以来、明治に至る迄、孝経は国民必読の書でありました。

    私共が子供の頃はまだ孝経や論語の教えが学校で教えられていました。

    それによって東洋的な無我と智恵、そして日本人のあたたかな宗教的情操の涵養が学校教育の場でいただくことができていました。

    けれどもこれが涵養は学校教育の場から追放されているが如きが今日の現状です。

    青少年非行化をふくめて各種もろもろの問題の大きな原因がこのあたりにあることに気づいてほしいものです。

    それであるだけにどうか家族揃って父母恩重経を読誦していただき、はらからの情愛に心潤され合うていただきたい、

    また人の心の初心に帰った感動の涙に心洗われていただきたいとひたすらに願いつつ、

    全日本宗教用具協同組合で父母恩重経を刊行され、広く世にひろめていただく事に諸手(もろて)をあげて賛意を表します。

     また、このお経のお話を申上げるときよく、「このお経が感恩・報恩の歌のお経ですか」とのおたずねを受けます。

    そうですこのお経がまさしく感恩・報恩の歌のお経なのです。

    この感恩の歌、報恩の歌は修養団の講師であり、また青少年の健全なる育成に生涯をささげ、昭和五十七年三月二十三日に九十六歳の天寿を全うされた竹内浦次翁の作になるものです。

    翁がさる年慈愛深き御尊母がみまかられませし時に悲哭の思ひを父母恩重経に託しておつくりになりましたのがこの歌です。

     旧制師範学校などで愛唱され、その訓導を受けたひとびとに語りつがれています。

    どうかみなさまがたこの歌を黙読だけではなく声に出して朗読また御唱和をなさっていただき、潤はしい情操の養いの糧資を得ていただくことをお願いいたします。

                                  合掌


    ___________________________________

    この父母恩重経は永田文昌堂のご好意により同社編集部編纂の和訓を引用させていただきました。

    昭和五十八年六月二十七日 発行
    平成十九年四月一日 印刷

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  73. 父母恩重経 臨済宗聖典


    仏のたまわく、大地の土の多きが如く、

    この世に生をうくるもの多けれど、

    中にも人間と生るるは

    爪の上の土の如く稀なり。

    この故に人のこの世に生まるるは、

    宿業を因とし、

    父母を縁とせり。

    父にあらざれば生まれず、

    母にあらざれば育てられず。

    子の心身は父母にうく。

    この因縁の故に

    父母の子を思うこと、

    世間に比ぶべきものあることなし。


     母、胎児をみごもりしより、

    十月の間、

    血をわけ肉をわかちて

    子の身体をつくる。

    身に重き病を患うが如く、

    起き伏し、

    もろもろの苦しみをうくれば、

    常に好める飲食衣服をうるも

    愛欲の心を生ぜず。

    ただ一心に安産せんことを思う。

    月みち日たりて出産のとき至れば、

    陣痛しきりに起りてこれを促し、

    骨節ことごとく痛み、

    あぶら汗しきりに流れて、

    その苦しみたえがたく、

    これがため忽然として

    母の身を亡ぼすことあり。

    父もおののき怖れ、

    母と子とを思い悩む。

    もし子安らけく産れいずれば、

    父母の喜び限りなく、

    その子、声を発すれば、

    母も初めてこの世に生れいでたるが如し。


     もし子、遠くにゆけば

    帰りてその顔を見るまで

    出でても入りてもこれを思い、

    寝てもさめてもこれを思う。

    子病み悩める時は

    子に代らんことを思い、

    死して後も

    子の行末を護らんことを誓う。

    花の如き母も、

    若さに光る父も、

    寄る年波の重なりて、

    いつか頭に霜をおき、

    衰え給うぞ涙かな。


     もろ人あきらかに聞け。

    孝養のことは在家出家の別あることなし。

    或は言う。

    親は己の好みにて子を生めば、子は親に孝養のつとめなしとかや。

    されど、こは人の道に反くものぞ。

    真の親は子について報謝を求めず、

    自らの功を誇らぬものなれど、

    子はひたすらに孝養をつとむべし。


     汝ら大衆よく聴け。

    父母の為に心をつくし、美味なる飲食、麗わしき衣服、

    心地よき車、結構なる住居等を供養し、一生安楽ならしむるとも、

    もし父母いまだ三宝に帰依せず因果の理を信ぜずば、

    なお真の孝養いたるとせず。

    もし父母、かたくなにして仏の教えを奉ぜずば、

    子は時に応じ機に随い、

    たとえをとり類をひき、

    因果の道理を説ききかせ、

    未来の苦しみを救うべし。

    父母は恩愛の情にひかれて

    やがて仏の道に向わん。

    即ち生きものを殺さず盗みせず、

    男女の道を過たず、

    うそ偽りをいわず、

    心迷わざれば、

    家の内、

    親は慈しみ、

    子は孝に、

    夫は正しく妻は貞に、

    親族睦まじく家人順い、

    畜類虫魚までも普く恵みを蒙り、

    家栄え国和やかに、

    十方の諸菩薩天龍鬼神大衆まで

    これを敬愛せざるなし。

    暴悪の主も不良の徒も、

    千萬の悪魔も

    これを如何ともすることなけん。

    こゝにおいて

    父母現世には安穏に住し、

    後世には善処に生じ、

    仏を見、

    法を聞きて長く苦しみを脱せん。

    かくの如くにして始めて

    父母の恩に報ずるものとなす。



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    産める子に 踏まれ蹴られど 母ごころ

    わが身消ゆれど 子をば守らむ

              雲居杣人正顔


    南無父母無二佛  合掌

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  74. 仏教聖典_おしえ

    _第一章 因縁

     第一節 四つの真理(四諦したい、四聖諦ししょうたい)__苦・集・滅・道

     一、パーリ、律蔵大品一-六・パーリ、相応部五六-一一-一二、転法輪経

     この人間世界は苦しみに満ちている。
    生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。
    怨みあるものと会わなければならないことも、愛するものと別れなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。
    まことに、執着(しゅうじゃく)を離れない人生はすべて苦しみである。
    これを苦しみの真理(苦諦くたい)という。

     この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。
    その煩悩をつきつめてゆけば、生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。
    このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。
    また転じて、死をさえ願うようにもなる。
    これを苦しみの原因(集諦じったい)という。

     この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。
    これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦めつたい、めったい)という。

     この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道はっしょうどう)を修めなければならない。
    八つの正しい道とは、
    正しい見解、(正見・・・正しい信仰)
    正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
    正しい言葉、(正語)
    正しい行い、(正業しょうごう)
    正しい生活、(正命しょうみょう)
    正しい努力、(正勤しょうごん)
    正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
    正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想)
    である。
    これらの八つは欲望を滅ぼすための
    正しい道の真理(道諦どうたい)といわれる。

     これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。
    というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは誰でも煩悩を断ち切らなければならないからである。
    煩悩と苦しみのなくなった境地「涅槃寂静ねはんじゃくじょう」は、さとりによってのみ到達し得る。
    さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。


     二、パーリ、本事經一〇三・パーリ、中部二、一切漏経

     道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。
    これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむときがない。
    この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。

     だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。
    いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。

     この四つの聖い真理が明らかになったとき、人は初めて、
    欲から遠ざかり、
    世間と争わず、
    殺さず、
    盗まず、
    よこしまな愛欲を犯さず、
    欺かず、
    そしらず、
    へつらわず、
    ねたまず、
    瞋(いか)らず、
    人生の無常を忘れず、
    道にはずれることがない。


     三、四十二章経・勝鬘経

     道を行うものは、例えば、燈火(ともしび)をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。
    闇はたちまち去り、明るさに満たされる。

     道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。

     仏は単にこの四つの真理を示すことによって人びとを導くのである。
    教えを正しく身に受けるものは、この四つの聖い真理によって、はかないこの世において、まことのさとりを開き、この世の人びとの守りとなり、頼りとなる。

     それは、この四つの聖い真理によって、あらゆる教えに達し、すべての道理を知る智慧と功徳をそなえ、どんな人びとに向かっても、自在に教えを説くことができる。


     第二節 不思議なつながり

     一、華厳経

     人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。

     雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。

     この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。

     だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。

     網の目が互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあってできている。

     一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。

     網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。

     網の目は、それぞれ、他の網が成り立つために、役立っている。


     二、華厳経

     花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。
    ひとり咲き、ひとり散るのではない。

     縁によって咲き、縁によって散るのであるから、どんなものも、みなうつり変わる。
    ひとりで存在するものも、常にとどまるものもない。

     すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。
    だから、うつり変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまことの道理であり、これだけは永久に変わらない。

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  75. 仏教聖典_おしえ

    _第三節 ささえあって

     一、華厳経

     それでは、人びとの憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。
    つまりそれは、人に執着があるからである。

     富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。
    この執着から苦しみ悩みが生まれる。

     初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、その上、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。

     しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。

     さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明(むみょう)と貪愛(とんあい)とが見いだされる。

     無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いことである。
    貪愛とは、得ることのできないものを貪(むさぼ)って、執着し愛着することである。

     もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛とのはたらきである。
    もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この無明と貪愛とのはたらきである。

     すべての人びとは、常によこしまな思いを起こして、愚かさのために正しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。

     業(ごう)を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。


     二、華厳経

     だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、この心である。
     
     迷いのこの世は、ただこの心から現われた心の影にほかならず、さとりの世界もまた、この心から現われる。


     三、華厳経

     この世の中には、三つの誤った見方がある。

    もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。

     一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。

    二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。

    三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。

     もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。

     したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。

     次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

     だから、この三つの見方はみな誤っている。

    どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。

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  76. 仏教聖典_おしえ_第二章人の心とありのままの姿 (豊岳正彦)

     第一節 変わりゆくものには実体がない

     一、二、三、既出ここの55番目2017-06-24 12:02:53

     第二節 心の構造

     一、二、三、既出ここの56番目2017-06-24 12:26:35

     第三節 真実のすがた

     一、華厳経第一六、夜摩天宮経・楞伽経

     この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともと差別はない。
    差別を見るのは、人びとの偏見である。

     大空に東西の差別がないのに、人びとは東西の差別をつけ、東だ西だと執着する。

     数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の差別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の差別をつける。

     もともと生もなければ滅もないのに、生死(しょうじ)の差別を見、また人間の行為それ自体には善もなければ飽くもないのに、善悪の差別を見るのが、人びとの偏見である。

     仏はこの差別を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。


     二、パーリ、中部三-二二、蛇喩経・楞伽経

     人ははからいから、すべてのものに執着する。
    富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。

     有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。

     ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危ないが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。

     このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。

     この喩えは、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。
    まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。


     三、楞伽経

     すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。

     仏は、「すべてのものは、有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。
    すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。

     ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因になる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。
    さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。

     まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。
    絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。
    すべては陽炎のようなものである。


     四、楞伽経

      無量の因縁によって現れたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。
    また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。

     この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。
    すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。

     ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。
    実体を持っているもののように永遠不変ではない。 
    うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようであるが、しかも、また、同時にそのままで真実である。
    うつり変わるままに永遠不変なのである。

     川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。
    だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。

     これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。

     しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。

     ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。
    誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。

     智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りをおかすことはない。

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  77. 仏教聖典_おしえ_第二章人の心とありのままの姿

     第四節 かたよらない道

     一、パーリ、律蔵大品第一-六、転法輪経・楞伽経

     道を修める者として、避けなければいけない二つの偏った生活がある。
    その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、
    その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。

     この二つの偏った生活を生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。

     この中道の生活とは何であるか。
    正しい見方、(正見・・・正しい信仰)
    正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
    正しいことば、(正語)
    正しい行い、(正業しょうごう)
    正しい生活、(正命しょうみょう)
    正しい努力、(正勤しょうごん)
    正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
    正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想禅定)
    この八つの正しい道である。

     すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。
    愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧の見るところは、有と無とを離れている。
    これが中道の正しい生活である。


     二、楞伽経等・パーリ、中部二-一八、蜜丸経

     一本の材木が大きな河を流れているとする。
    その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸(おか)にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。

     この材木の喩えのように、内にも外にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修める者の中道の見方、中道の生活である。

     道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。

     すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。

     とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。
    道を修める者は、死を恐れず、また、生をも願わない。
    この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。

     人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。
    だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。


     三、楞伽経

     さとりには決まった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。

     迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。
    迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。

     だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。
    闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。
    照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。

     まことに、道を修める者は、さとってさとりにとどまらない。
    さとりのあるのはなお迷いだからである。

     この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。
    すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。


     四、楞伽経

     ものが平等であって差別のないことを空*という。
    ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずることも、滅することもなく、それはことばでいい表すことができないから、空というのである。

     すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いにより合って存在するものであり、ひとりで成り立つものでない。

     ちょうど光と影、長さと短さ、白と黒のようなもので、ものそれ自体の本質が、ただひとりであり得るものでないから「無自性(むじしょう)」という。

     また、迷いのほかにさとりがなく、さとりのほかに迷いがない。
    これら二つは、互いに相違するものでないから、ものには二つの相反した姿があるのではない。


     五、維摩経、入不二品

     人はいつも、ものの生ずることと、滅することとを見るのであるが、ものにはもともと生ずることがないのであるから、滅することもない。

     このものの真実を見る眼(まなこ)を得て、ものには生滅の二つのないことを知り、
    別のものではないという真理をさとるのである。

     人は我があると思うから、わがものに執着する。
    しかし、もともと、我がないのであるから、わがもののあるはずがない。
    われとわがもののないことを知って、別のものではないという真理をさとるのである。

     人は清らかさと汚れとがあると思って、この二つにこだわる。
    しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。

     人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。
    しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。
    さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。

     人は不幸を恐れて幸福を望む。
    しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることが分かる。
    それだから、不幸がそのままに幸福だとさとって、
    心身にまとわりついて自由を束縛する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、
    こうして、人はその真理をさとるのである。 

     だから、有と無といい、迷いとさとりといい、実と不実といい、正と邪といっても、
    実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿においては、
    言うことも示すことも、識(し)ることもできない。
    このことばやはからいを離れることが必要である。
    人がこのようなことばやはからいを離れたとき、
    真実の空をさとることができる。


     六、華厳経第三四、入法界品

     例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、
    迷いを離れてさとりがあるのではなく、
    誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。

     あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価(あたい)も知れないほどに素晴らしい宝は得られないように、
    迷いの泥海の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。
    山のように大きな、我(が)への執着を持つ者であって、
    はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。

     だから、昔、仙人が刃(やいば)の山に登っても傷つかず、自分の身を大火の中に投げ入れても焼け死なず、すがすがしさを覚えたというように、
    道を求める心があれば、名誉利欲の刃の山や、憎しみの大火の中にも、
    さとりの涼しい風が吹き渡るであろう。


     七、楞伽経等

     仏の教えは、相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理をさとるのである。
    もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。

     もしも、人がすべてのものはうつり変わるという考えにとらわれるならば、
    これも間違った考えにおちいるものであり、
    また、もしも、すべてのものは変わらないという考えにおちいるならば、
    これももとより間違った考えなのである。
    もしまた人が我があると執着すれば、それは誤った考えで、
    常に苦しみを離れることができない。
    もしも我がないと執着するならば、それも間違った考えで、
    道を修めても効果がない。

     また、すべてのものはただ苦しみであるととらわれれば、これも間違った考えであり、
    また、すべてのものはただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。

    仏の教えは中道であって、これらの二つの偏(かたよ)りから離れている。

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  78. 仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種

     第一節 清らかな心

     一、パーリ、律蔵大品一-五・律蔵小品五-二一

     人にはいろいろの種類がある。
    心の曇りの少ない者もあれば、曇りの多い者もあり、賢い者もあれば、愚かな者もある。

     善い性質の者もあれば、悪い性質の者もあり、教えやすい者もあれば教えにくい者もある。

     例えていうと、青・赤・黄・白、色さまざまな蓮の池があって、水中に生え、水中に育って、水の表面に出ない蓮もあれば、水面にとどまる蓮もあり、水面を離れて、水に濡れない蓮もあるようなものである。

     この差別の上に、さらにまた、男・女の区別があるが、
    しかし、人の本性として差別があるのではない。
    男が道を修めてさとりを得るように、
    女もまた道を修めれば、
    しかるべき心の道すじを経て、さとりに至るであろう。

     象を扱う術を学ぶのには、
    信念と
    健康とを持ち、
    勤勉であって、
    偽りがなく(正直で)、その上に
    智慧*がなければならない。
    仏に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。
    この五つがあれば、男でも女でも、
    仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。
    これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。


     二、首楞厳経

     さとりの道において、人はおのれの眼(まなこ)をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。
    それと同じく、人をして生死(しょうじ)の巷(ちまた)に今日(こんにち)まで流転させたのも、また、
    この眼と心である。

     国王が、侵入した賊を討とうとするとき、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、
    いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。

     人が室内にいて目を開けば、まず、部屋の中のものを見、やがて窓を通して、外の景色を見る。
    部屋の内のものを見ないで、外の者ばかりを見る目はない。

     ところが、もしもこの身の内に心があるならば、何よりも先に、身の内のことを詳しく知らなければならないはずであるのに、
    人びとは、身の外のことだけをよく知っていて、身の内については、殆ど何事も知ることができない。

     またもしも心が身の外にあるとするならば、身と心が互いに離れて、
    心の知るところを身は知らず、身の知るところを心は知らないはずである。
    ところが、事実は、心の知るところを身が感じ、
    身に感ずるところを心はよく知っているから、
    心は身の外にあるということもできない。
    いったい、心の本体はどこにあるのであろうか。

     
     三、首楞厳経

     もともと、すべての人びとが、始めも知れない昔から、業(ごう)のきずなに縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。

     一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること、
    二つには、さとりの本性である清浄(しょうじょう)な心が、
    迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることを知らないことである。

     拳をかためて臂(ひじ)をあげると、目はこれを見て心はこのことを知る。
    しかし、その知る心は、真実の心ではない。

     はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからう心であり、縁に触れて起こる心であって、
    真実の本体のない、うつり変わるこころである。
    この心を、実体のある心と思うところに、迷いが起こる。

     次に、その拳を開くと、心は拳の開いたことを知る。
    動くものは手であろうか、心であろうか、それとも、そのいずれでもないのか。

     手が動けば心も動き、また、心の動きにつれて手も動く。
    しかし、動く心は、心の表面であって根本の心ではない。


     四、首楞厳経

     すべての人びとには、清浄の本心がある。
    それが外の因縁によって起こる迷いの塵のために覆われている。
    しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。

     月は、しばらく雲に覆われていても、雲に汚されることもなく、また動かされることもない。

     だから、人は浮動するちりのような迷いの心を自分の本性と思ってはならない。

     また、人は、動かず、汚されないさとりの本心に目覚めて、真実の自己に帰らなければならない。
    浮動する迷いの心にとらわれ、さかさまの見方に追われているので、
    人は迷いの巷をさまようのである。

     人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界(げかい)の縁に触れて起こるものである。

     この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、
    これが人の心の本体であって、また主(あるじ)でもある。

     客が去ったからといって、宿屋がなくなったとはいえないように、
    縁によって生じたり滅したりするはからいの心がなくなったからといって、
    自分がなくなったとはいえない。
    外の縁によってうつり変わるはからいは、心の本体ではない。


     五、首楞厳経

     ここに講堂があって、太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。

     明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。
    しかし、その明るさや暗さを知る力は、どこにも返すことはできない。
    それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。

     太陽が現われて、明るいと見るのもひとときの心であり、太陽が隠れて、暗いと見るのもひとときの心である。

     このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、
    明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体でなく、
    その明暗を知る力の根本は、心の本体である。

     外の因縁に引かれて生じたり滅したりする善悪(ぜんなく)・愛憎の念(おもい)は、
    人の心に積まれたちりの汚れによって起こるひとときの心なのである。

     煩悩のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。

     まるい器(うつわ)に水を入れるとまるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。
    しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。
    ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。

     善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。

     縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、
    身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が生まれるであろう。

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  79. 仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種

     第二節 かくれた宝

     一、首楞厳経

     清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性(ぶっしょう)である。
    仏性とは、すなわち仏の種である。

     レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。
    太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合(がっ)することはできないけれども、
    太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。
    また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。

     いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧のレンズを当てれば、
    仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃え上がる。

     仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、
    世をあげて信の火が燃え上がるのである。


     二、首楞厳経

     人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、
    煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しのすがたに心を縛られて、不自由を嘆いている。

     なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、
    このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。

     昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。
    しかし、顔も頭も無くなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思ったのであった。

     さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、
    また、必要のないことである。
    さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、
    妄想を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。

     だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、
    さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。
    しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、
    さとられるものもなかったことに気づくのである。


     三、大槃涅槃経

     この仏性は尽きることがない。

    たとえ畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。

     汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。


     四、法華経第七、化城喩品及び首楞厳経・華厳経第三二、如来性起品・大槃涅槃経

     昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。
    友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物の襟に縫いこんでおいた。

     そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食(えじき)に苦しんだ。
    その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物の襟に縫いこまれた宝石を用いよ。」と教えられた。

     このたとえのように、仏性の宝石は、
    貪(むさぼ)り瞋(いか)り癡(おろ)かさ「貪瞋癡とんじんち」という煩悩の着物のえりに包まれて、
    汚されずにいるのである。

     このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、
    仏は人びとを見通して、
    「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。

     しかも、人びとは愚(癡)かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、
    おのれの仏性を見ることができないから、
    仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、
    本来、仏と違わないものであることを知らせる。


     五、梵網経

     ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。

     しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、
    すでに道を成し遂げたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。

     仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成し遂げたのではない。


     六、大槃涅槃経

     昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいにいわせたことがある。
    象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、
    耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、
    鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、
    足に触れた者は、臼のようなものであるといい、
    尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。
    ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

     人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、
    その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

     死によっても失われず、
    煩悩の中にあっても汚れず、
    しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、
    仏と法によるもののほかは、
    でき得ないのである。

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  80. 仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種

     第二節 かくれた宝

     一、首楞厳経

     清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性(ぶっしょう)である。
    仏性とは、すなわち仏の種である。

     レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。
    太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合(がっ)することはできないけれども、
    太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。
    また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。

     いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧のレンズを当てれば、
    仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃え上がる。

     仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、
    世をあげて信の火が燃え上がるのである。


     二、首楞厳経

     人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、
    煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しのすがたに心を縛られて、不自由を嘆いている。

     なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、
    このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。

     昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。
    しかし、顔も頭も無くなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思ったのであった。

     さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、
    また、必要のないことである。
    さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、
    妄想を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。

     だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、
    さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。
    しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、
    さとられるものもなかったことに気づくのである。


     三、大槃涅槃経

     この仏性は尽きることがない。

    たとえ畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。

     汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。


     四、法華経第七、化城喩品及び首楞厳経・華厳経第三二、如来性起品・大槃涅槃経

     昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。
    友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物の襟に縫いこんでおいた。

     そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食(えじき)に苦しんだ。
    その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物の襟に縫いこまれた宝石を用いよ。」と教えられた。

     このたとえのように、仏性の宝石は、
    貪(むさぼ)り瞋(いか)り癡(おろ)かさ「貪瞋癡とんじんち」という煩悩の着物のえりに包まれて、
    汚されずにいるのである。

     このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、
    仏は人びとを見通して、
    「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。

     しかも、人びとは愚(癡)かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、
    おのれの仏性を見ることができないから、
    仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、
    本来、仏と違わないものであることを知らせる。


     五、梵網経

     ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。

     しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、
    すでに道を成し遂げたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。

     仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成し遂げたのではない。


     六、大槃涅槃経

     昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいにいわせたことがある。
    象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、
    耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、
    鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、
    足に触れた者は、臼のようなものであるといい、
    尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。
    ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

     人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、
    その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

     死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、
    しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、
    仏と法によるもののほかは、でき得ないのである。



     第三節 とらわれを離れて

     一、大槃涅槃経

     このように、人には仏性があるというと、
    それは他の教えでいう「我」と同じであると思うかも知れないが、
    それは誤りである。

     我の考えは執着心によって考えられるけれども、
    さとった人にとっては、我は否定されなければならない執着であり、
    仏性は開き現わさなければならない宝である。

     仏性は、我に似ているけれども、
    「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。

     我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、
    仏性を認めないことも、あるものをないと考える、さかさまの見方である。

     例えば、幼子(おさなご)が病にかかって医師にかかるとすると、医師は薬を与えて、この薬のこなれるまでは乳を与えてはならないと言いつける。

     母は乳房ににがいものを塗り、子に乳をいやがらせる。
    後に、薬のこなれたときに、乳房を洗って、子の口にふくませる。
    母のこのふるまいは、わが子をいとおしむやさしい心からくるものである。

     ちょうどこのように、世の中の誤った考えを取り去り、我の執着を取り去るために、我はないと説いたが、
    その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。

     我は迷いに導くものであり、
    仏性はさとりに至らせるものである。

     家に黄金の箱を持ちながら、それを知らないために、貧しい生活をする女をあわれんで、その黄金の箱を掘り出して与えるように、

    仏は人びとの仏性を開いて、彼らに見せる。

     
     二、大槃涅槃経

     それなら、人びとは、みなこの仏性をそなえているのに、
    どうして貴賤・貧富という差別があり、
    殺したり、欺かれたりするようないとわしいことが起こるのであろうか。

     例えば、宮廷に仕える一力士が、眉間に小さな金剛の珠玉を飾ったまま相撲をとって、その額を打ち、玉が膚(はだ)の中に隠れてできものを生じた。
    力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。
    医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それを取り出して力士に見せた。

     人びとの仏性も煩悩の塵(ちり)の中に隠れ、見失われているが、
    善き師によってふたたび見いだされるものである。
     
     このように、仏性はあっても貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと癡(おろ)かさのために覆われ、
    業(ごう)と報いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。
    しかし、仏性は実際には失われても破壊されてもおらず、
    迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。

     喩えの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、
    人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。


     三、大槃涅槃経

     赤・白・黒と、さまざまに毛色の違った牝牛でも、乳をしぼると、みな同じ白い色の乳を得るように、
    境遇が異なり、生活が異なる、さまざまの人びとも、その業の報いの異なるにもかかわらず、
    同じ仏性をそなえている。

     例えば、ヒマラヤ山に貴い薬があるが、それは深い草むらの下にあって、人びとはこれを見つけることができない。
    昔、ひとりの賢人があって、その香りを尋ねてありかを知り、樋を作って、その中に薬を集めた。
    しかし、その人の死後、薬は山に埋もれ、樋の中の薬は腐り、流れるところによって、その味を異にした。

     仏性も、このたとえのように、深く煩悩の草むらに覆われているから、人びとはこれを容易に見つけることができない。

    いまや仏はその草むらを開いて、彼らに示した。

    仏性の味は一つであるが、煩悩のためにさまざまの味を出し、
    人びとはさまざまな生き方をする。


     四、大槃涅槃経

     この仏性は金剛石のように堅いから、破壊することはできない。
    砂や小石に穴をあけることはできても、金剛石に穴をあけることはできない。

     身と心は破られることがあっても、仏性を破ることはできない。

     仏性は、実にもっともすぐれた人間の特質である。

    世に、男はまさり女は劣るとするならわしもあるが、

    仏の教えにおいては、男女の差別を立てず、

    ただこの仏性を知ることを尊いとする。

     黄金の粗金を熔かして、そのかすを去り、練り上げると貴い黄金になる。

    心の粗金を熔かして煩悩のかすを取り去ると、どんな人でも、

    みな同一の仏性を開き現わすことができる。

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  81. 仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩

     第一節 心のけがれ

     一、勝鬘経

     仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

     一つは知性の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である)。

    二つには感情の煩悩である(二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

     この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、

    一つには無明(むみょう)、

    二つには愛欲となる。

     この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。

    そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

     無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。

    愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、

    見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、

    また転じて、

    死を願うような欲望ともなる。

     この無明と愛欲とをもとにして、

    貪(むさぼ)り、

    瞋(いか)り、

    癡(おろ)かさ、

    邪見(じゃけん)、

    恨み、

    嫉(ねた)み、

    へつらい、

    たぶらかし、

    おごり、

    あなどり、

    ふまじめ、

    その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


     二、パーリ、増支部二-一一・本事經九三・律蔵大品

     貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。

    瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。

    愚(癡)かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。

    邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。


     この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚(癡)かさは、世の三つの火といわれる。(貪瞋癡とんじんち)


    貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、

    瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、

    愚(癡)かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。


     まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。

    貪りの火、

    瞋りの火、

    愚(癡)かさの火、

    生・老・病・死の火、

    憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、

    さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。


    これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、

    人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。


    しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。



     三、パーリ、増支部三-六八

     貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、

    瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、

    愚(癡)かさは不浄な考えから生まれる。


    貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、

    瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。

    愚(癡)かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。


     したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、

    気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、

    常に正しく考えて、

    この三つの火を消さなければならない。


    もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、

    煩悩によって惑わされることはない。



     四、パーリ、増支部三-三四

     貪り、瞋り、愚(癡)かさは熱のようなものである。

    どんな人でも、この熱の一つでも持てば、

    いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、

    その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

     この三つの煩悩のない人は、

    寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、

    むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。


     この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。

    この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、

    戒めと

    心の統一と

    智慧である。


    戒めは貪りの汚れを取り去り、

    正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、

    智慧は愚(癡)かさの汚れを取り去る。



     五、方広大荘厳経・パーリ、律蔵大品一-六、転法輪経・中部二-一四、苦蘊小経

     人間の欲にははてしがない。

    それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。

    彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。


     人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

     人は欲を決して満足させることができない。

    そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。


     人は欲のために争い、欲のために戦う。

    王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、

    互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。


     また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。

    ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。


     また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、

    死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。



    六、大槃涅槃経

     愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

     愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。

    愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

     愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。

    愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。

    愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

     飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。

    愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

     一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。

    たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。

    この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。



     七、パーリ、本事經二四

     外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。

    貪りと瞋りと愚(癡)かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。


     心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚(癡)かさがあるときは、

    口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、

    身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。


     意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

     知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。

    悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、

    偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。

     
     人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚(癡)かさからくるし、

    人の不幸も難儀も、また愚(癡)かさからくる。

    愚(癡)かさは実に人の世の病毒にほかならない。

     

     八、パーリ、本事經二四

     人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。

    煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

     この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。

    しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。

    永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

     限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、

    その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

     だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。

    芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。

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  82. 仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩

     第二節 人の性質

     一、パーリ、中部五一、カンダラカ経

     人の性質は、ちょうど入り口のわからない藪のように、わかりにくい。
    これに比べると、獣の性質はかえってわかりやすい。
    このわかりにくい性質の人を区分して、次の四種類とする。

     一つには、自ら苦しむ人で、間違った教えを受けて苦行する。

     二つには、他人を苦しめる人で、生きものを殺したり盗んだり、
    そのほかさまざまなむごい仕業をする。

     三つには、自ら苦しむとともに他人をも苦しめる人である。

     四つには、自らも苦しまず、また他人をも苦しめない人で、
    欲を離れて安らかに生き、
    仏の教えを守って、
    殺すことなく盗むことなく、
    清らかな行いをする人である。


     二、パーリ、増支部三-一三〇・三-一一三

     またこの世には三種の人がある。

    岩に刻んだ文字のような人と、
    砂に書いた文字のような人と、
    水に書いた文字のような人である。

     岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、
    刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。

     砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、
    砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。

     水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、
    他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、
    温和な気の満ちている人のことをいう。

     また、ほかにも三種類の人がある。

    第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、常に落ち着きのない人である。

    第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、、欲を忍ぶ人である。

    第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩を滅ぼし尽くした人のことである。

     このように、さまざまに人を区別することができるが、その実、人の性質は容易に知ることはできない。

    ただ、仏だけがこれらの性質を知り抜いて、さまざまに教えを示す。

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  83. 仏教聖典_おしえ_第四章、煩悩_

     第三節、現実の人生

     一、パーリ本事經一〇〇、雑宝蔵経

     ここに人生にたとえた物語がある。
    ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。
    岸に立つ人が声をからして叫んだ。
    「楽しそうに流れを下ることをやめよ。
    下流には波が立ち、渦巻きがあり、鰐と恐ろしい夜叉との住む淵がある。
    そのままに下れば死ななければならない。」と。

     このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、
    「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着することであり、
    「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表し、
    「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、
    「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、罪によって滅びる生活を指し、
    「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。

     ここにもう一つのたとえがある。
    一人の男が罪を犯して逃げた。
    追っ手が追ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓(ふじづる)が下がっている。
    彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇が口を開けて待っているのが見える。
    しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。
    やがて、手が抜けそうに痛んでくる。
    そのうえ、白黒二匹の鼠(ねずみ)が現われて、その藤蔓をかじり始める。

     藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。
    そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。
    すると、男は自分の危(あやう)い立場を忘れて、うっとりとなるのである。

     この比喩(たとえ)で、
    「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、
    「追っ手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、
    「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、
    「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、
    「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。


     二、大般涅槃経

     また、さらにもう一つのたとえを説こう。
    王が一つの箱に四匹の毒蛇を入れ、ひとりの男にその蛇を養うことを命じて、もし一匹の蛇でも怒らせれば、命を奪うと約束させる。
    男は王の命令を恐れて、蛇の箱を捨てて逃げ出す。

     これを知った王は、五人の臣下に命じて、その後を追わせる。
    彼らは偽って男に近づき、連れ帰ろうとする。
    男はこれを信じないで、ふたたび逃げて、とある村に入り、隠れ家を探す。

     そのとき、空に声あって、この村は住む人なく、そのうえ今夜、六人の賊が来て襲うであろうと告げる。
    彼は驚いて、ふたたびそこを逃げ出す。
    行く手に荒波を立てて激しく流れている河がある。
    渡るには容易でないが、こちら岸の危険を思って筏を作り、かろうじて河を渡ることを得、はじめて安らぎを得た。

     「四匹の毒蛇の箱」とは地水火風の四大要素から成るこの身のことである。
    この身は、欲のもとであって、心の敵である。
    だから、彼はこの身を厭って逃げ出した。

     「五人の男が偽って近づいた」とは、同じくこの身と心とを組み立てている五つの要素のことである。

     「隠れ家」とは、人間の六つの感覚器官のことであり、「六人の賊」とは、この感覚器官に対する六つの対象のことである。
    このように、すべての官能の危ういのを見て、さらに逃げだし、
    「流れの強い河を見た」とは、煩悩の荒れ狂う生活のことである。

     この深さの測り知れない煩悩の河に、教えの筏を浮かべて、安らかな彼の岸に達したのである。


     三、パーリ、増支部三-六二

     世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。

    すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。

    しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

     ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。

    それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

     母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。

    子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。

    子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。

    いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。


     四、パーリ、増支部三-三五

     この世において悪事をなし、死んで地獄に落ちた罪人に、閻魔王が尋ねた。

    「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」

    「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」

    「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」

    「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」

    「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」

    「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」

    「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」

    「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へ来ることになったのだ。」

    「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」

    「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」

    「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。

    おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」


     五、パーリ、長老尼偈註

     裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、
    冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

     この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、
    釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。

    彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

     釈尊は静かにその様子を見て、
    「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。
    町に出て四・五粒もらってくるがよい。
    しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

     狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。

    芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。

    ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。

    かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、
    夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、
    釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。

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  84. 仏教聖典_おしえ_第四章、煩悩_

     第四節  迷いのすがた

     一、無量寿経下巻

     この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。

    しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

     身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。

    なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

     富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。

    あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。

    しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

     貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、

    この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。

    このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

     すべての世界が敵対するかのように見え、

    死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。



     二、無量寿経下巻

     また、この世には五つの悪がある。

     一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、

    強いものは弱いものを倒し、

    弱いものは強いものを欺き、

    互いに傷つけあい、いがみあっている。

     二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、
    それぞれおのれの道がなく、守るところもない。

    ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、
    心と口とが別々になっていて誠がない。

     三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、

    そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

     四つには、互いに善い行為をすることを考えず、

    ともに教えあって悪い行為をし、

    偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。

    ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、

    他人を傷つけて省みるところがない。

     五つには、すべてのものは怠りなまけて、

    善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、

    ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、

    ついには恐ろしい罪を犯すようになる。



     三、無量寿経下巻

     人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、

    わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。

    しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、

    時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

     この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、

    毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、

    生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

     人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。

    未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、

    おのれひとりでそれに当たらねばならない。

     善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、

    動かすことのできない道理によって定まっている。

    しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


     四、無量寿経下巻

     恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、

    長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。

    それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、

    他人と争い、真実の道に親しむことができず、

    寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

     このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、

    必ず災いを招くようになり、

    この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

     まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、

    頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。

    この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


     五、無量寿経下巻

     このような有様が、まことにこの世の姿であり、

    人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。

    だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

     ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。

    そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

     栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。

    この世の快楽も何一つ永続するものはない。
     

     六、無量寿経下巻

     だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。

    道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

     ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。

    また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。

    すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

     ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、

    吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、

    ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

     どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。

    ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、

    教えを聞くことがなく、

    心に深く思うことがなく、

    ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


     七、無量寿経下巻

     人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。

    しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。

    ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

     だから、よく思いを重ね、

    悪を遠ざけ、

    善を選び、

    努め行なわなければならない。

     いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、

    どんな人も仏の教えを信じて、

    仏の国に生まれることを願わなければならない。

    仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。

    また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、

    それを実践し、

    それを他人に教えなければならない。


    第四章 了

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  85. 仏教聖典_おしえ_第五章 仏の救い

     第一節 仏の願い

     一、無量寿経上巻

     人びとの生活は、すでに説いたように、その煩悩は断ちにくいものであり、また、
    始めもわからない昔から、山のような罪業をになって、迷いに迷いを重ねてきている。
    だから、たとえ仏性の宝をそなえていても、開き現わすことは容易ではない。

     この人間の有様を見通された仏は、はるかな昔に、ひとりの菩薩となり、
    人びとを哀れみ、あらゆる恐れを抱く者のために大慈悲者となろうとして、
    次のような数多くの願いを起こした。
    例え、この身はどんな苦しみの海の中にあっても、
    必ず努め励んで成し遂げようと誓った。

     (ひ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    わたしの国に生まれる人びとが、
    確かに仏と成るべき身の上となり、
    必ず悟りに至らないならば、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (ふ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    わたしの光明に限りがあって、
    世界のはしばしまで照らすことがないならば、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (み)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    わたしの寿命に限りがあって、
    どんな数であっても数えられるほどの命数であるならば、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (よ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    十方の世界のあらゆる仏が、ことごとく称賛して、
    わたしの名前を称(とな)えないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (い)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    十方のあらゆる人びとが真実の心をもって深い信心を起こして、
    わたしの国に生まれようと思って、
    十返わたしの名前を念じても、
    生まれないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (む)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    十方のあらゆる人びとが、道を求める心を起こし、
    多くの功徳を修め、真実の心をもって願いを起こし、
    わたしの国へ生まれようと願っているのに、
    もしもその人の寿命が尽きるとき、
    偉大な菩薩達に取り巻かれて、その人の前に現れないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (な)たとい、わたしが仏と成っても、
    十方のあらゆる人びとが、わたしの名前を聞いて、
    わたしの国に思いをかけ、
    多くの功徳のもとを植え、
    心を込めて供養して、
    わたしの国に生まれようと思っているのに、
    思い通りに生まれることができないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (や)わたしの国に来て生まれる者は、
    「次の生には仏と成るべき位」に到達するであろう。
    そして、彼らは思いのままに人びとを教え導き、
    それぞれの願いに従って、
    数多くの人びとを導いてさとりに入らせ、
    大悲の功徳を修めることができるであろう。
    たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    もしもそれができないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (こ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    十方の世界のあらゆる人びとが、
    わたしの光明に触れて、
    身も心も和らぎ、
    この世のものよりもすぐれたものになるようでありたい。
    もしもそうでないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     (と)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
    十方の世界のあらゆる人びとが、
    わたしの名前を聞いて、
    生死にとらわれることのない深い信念と、
    さえぎられることのない深い智慧とを得られないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

     わたしは、いま、このような誓いを立てる。
    もしもこの願いを満たすことができないようなら、
    誓ってさとりを開かないであろう。

    限りのない光明の主となり、
    あらゆる国々を照らして世の中の悩みを救い、
    人びとのために、
    教えの蔵を開いて、
    広く功徳の宝を施すであろう。


     二、無量寿経上巻

     このように願いを立てて、
    はかり知れない長い間功徳を積み、
    清らかな国を作り、
    すでにはるかな昔に仏と成り、
    現にその極楽世界にいて、
    教えを説いている。

     その国は
    清く安らかで、
    悩みを離れ、
    さとりの楽しみが満ちあふれ、
    着物も食物もそしてあらゆる美しいものも、
    みなその国の人びとの心の思うままに現われる。
    快い風がおもむろに吹き起こって、
    宝の木々をわたると、
    教えの声が四方に流れて、
    聞く者の心の垢を取り去っている。

     また、その国には
    さまざまな色の蓮の花が咲きにおい、
    花ごとにはかり知れない花びらがあり、
    花びらごとにその色の光が輝き、
    光はそれぞれ仏の智慧の教えを説いて、
    聞く人びとを仏の道に安らわせている。


     三、無量寿経上巻

     いま十方のあらゆる仏たちから、
    この仏のすぐれた徳が称(たた)えられている。
     
     どんな人でも、
    この仏の名前を聞いて、
    信じ喜ぶ一念で、
    その仏の国に生まれることができるのである。

     その仏の国に至る人びとは、
    みな寿命に限りがなく、
    また自らほかの人びとを救いたいという願いを起こし、
    その願いの仕事にいそしむことになる。

     これらの願いを立てることによって、
    執着を離れ、
    無常をさとる。
    おのれのためになると同時に他人をも利する行為を実践し、
    人びととともに慈悲に生き、
    この世俗の生活の足かせや執着にとらわれない。

     人びとはこの世の苦難を知りつつ、
    同時にまた、
    仏の慈悲の限りない可能性をも知っている。
    その人びとの心には、
    執着がなく、
    おのれとか、他人とかの区別もなく、
    行くも帰るも、
    進むも止まるも、
    こだわるところがなく、
    まさに心のあるがままに自由である。
    しかも、
    仏が慈悲を垂れた人びととともにとどまることを選ぶのである。

     だから、
    もしもひとりの人がいて、
    この仏の名前を聞いて、
    喜び勇み、
    ただ一度でもその名を念ずるならば、
    その人は大いなる利益を得るであろう。
    たとえこの世界に充ち満ちている炎の中にでも分け入って、
    この教えを聞いて信じ喜び、
    教えのとおりに行わなければならない。

     もしも、
    人びとが真剣にさとりを得ようと望むなら、
    どうしても、
    この仏の力によらなければならない。
    仏の力がなくてさとりを得ることは、
    普通の人間のできることではない。


     四、無量寿経下巻

     いま、この仏は、
    ここよりはるか遠くのところにいるのではない。
    その仏の国ははるか遠くにあるけれども、
    仏を思い念じているものの心の中にもある。
     
     まず、
    この仏の姿を心に思い浮かべてみると、
    千万の金色に輝き、
    八万四千の姿や特徴がある。
    一つ一つの姿や特徴には八万四千の光があり、
    一つ一つの光は、
    一つ残らず、
    念仏する人を見すえて、
    包容して捨てることがない。

     この仏を拝み見ることによって、
    また仏の心を拝み見ることになる。
    仏の心とは大いなる慈愛そのものであり、
    信心を持つ者を救いとるのはもちろん、
    仏の慈悲を知らず、
    あるいは忘れているような人びとをも救いとるのである。

     信ある者には仏は仏と一つになる機会を与える。
    この仏を思い念ずると、
    この仏は、
    あらゆるところに満ちみちる体であるから、
    あらゆる人びとの心に入る。

     だからこそ、
    心に仏を思うとき、
    その心は、
    実に円満な姿や特徴をそなえた仏であり、
    この心は仏そのものとなり、
    この心がそのまま仏となる。

     清く正しい信心を持つ者は、
    心が仏の心そのままであると思い描くべきである。


     五、無量寿経下巻

     仏の体にはさまざまの相(すがた)があり、
    人びとの能力に応じて現れ、
    この世界に満ちみちて、
    限りがなく、
    人の心の考え及ぶところでない。
    それは宇宙、
    自然、
    人間のそれぞれの姿の中で仰ぎ見ることができる。

     しかし、
    仏の名を念ずる者は、
    必ずその姿を拝むことができる。
    この仏は常にふたりの菩薩を従えて、
    念仏する人のもとに迎えに来る。

     仏の化身はあらゆる世界に満ちみちているけれども、
    信心を持つ者だけが、
    それを拝み見ることができる。

     仏の仮の姿を思うことさえ、
    限りない幸福を得るのであるから、
    真実の仏を拝み見ることの功徳には、
    はかり知れないものがある。

    返信削除
  86. 仏教聖典_おしえ_第五章 仏の救い

     六、無量寿経下巻

     この仏の心は、
    大いなる慈悲と智慧そのものであるから、
    どんな人をも救う。

     愚かさのために恐ろしい罪を犯し、
    心の中では、
    貪(むさぼ)り、
    瞋(いか)り、
    癡(おろ)かな思いを抱き、
    口では偽り、
    むだ口、
    悪口、
    二枚舌を使い、
    身では殺生し、
    盗み、
    よこしまな愛欲を犯すという十悪をなす者は、
    その悪い行いのために、
    永遠に未来の苦しみを受けることとなる。

     その人の命の終わるとき、
    善い友が来てねんごろに、
    「あなたはいま苦しみが迫っていて、
    仏を思うこともできないであろう。
    ただこの仏の名を称(とな)えるがよい。」と教える。

     この人が心を一つにして仏の名を称えると、
    ひと声ひと声のうちに、
    はかり知れない迷いの世界に入る罪を除いて救う。

     もし人が、
    この仏の名を称(とな)えるならば、
    永遠に尽きることのない迷いの世界に入る罪をも除くのである。
    ましてや一心に思うに至っては、
    なおさらのことである。

     まことに念仏する人は、
    白蓮華(びゃくれんげ)のようなすばらしい人である。
    慈悲と智慧の二菩薩はその友となり、
    また、
    常に道を離れることなく、
    ついに浄土に生まれることになるであろう。

     だから、
    人びとはこのことばを身につけなければならない。
     
    このことばを身につけるということは、

    この仏の名を身につけることである。


    _第二節 清らかな国土

     一、無量寿経下巻

     この仏はいま、
    現にいて、
    法を説いている。
    その国の人びとはみな苦しみを知らず、
    ただ楽しみの日のみを送るので、
    極楽というのである。

     その国には七つの宝でできた池があり、
    中には清らかな水をたたえ、
    池の底には黄金の砂が敷かれ、
    車の輪のように大きい蓮華が咲いている。
    その蓮華は、
    青い花には青い光が、
    黄色の花には黄色の光が、
    赤い花には赤い光が、
    白い花には白い光があり、
    清らかな香りをあたりに漂わせている。

     また、
    その池の周囲のあちこちには、
    金・銀・青玉・水晶の四つの宝で作った楼閣があり、
    そこには大理石で作った階段がある。
    また、
    別の場所には池の上につき出た欄干があり、
    宝玉で飾られた幕で取り囲まれている。
    また、
    その間にはよい匂いのする木々や
    花がいっぱいに咲いた茂みがある。

     空には神々しい音楽が鳴り、
    大地には黄金の色が照り映えて、
    夜昼六度も天の花が降り、
    その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、
    ほかのすべての仏國へ持ってゆき、
    無数の仏に供養する。

     
     二、無量寿経下巻

     また、
    この国の園には、
    白鳥、
    孔雀、
    おうむ、
    百舌鳥、
    迦陵頻伽(かりょうびんが)など数多くの鳥が、
    常に優雅な声を出し、
    あらゆる徳と善をたたえ、
    教えを宣布している。

     人びとはこの声を聞いて、
    みな仏を念じ、
    教えを思い、
    人の和合を念ずる。
    だれでもこの声の音楽を聞く者は、
    仏の声を聞く思いがし、
    仏への信心を新たにし、
    教えを聞く喜びを新たにして、
    あらゆる国の仏の教えを受ける者との友情を新たにする。

     そよ風が吹き、
    宝の木々の並木をよぎり、
    輝く鈴をつけた網に触れると、
    微妙な音を出し、
    一時に百千の音楽がかなでられる。 

     この音を聞く者は、
    また自然に仏を念じ、
    教えを思い、
    人の和合を念ずるようになる。

    その仏の国は、

    このような功徳と美しい飾りとをそなえている。


     三、無量寿経下巻

     どういうわけで、

    この国の仏は無量光佛、

    無量寿佛と名づけられるのであろうか。

     かの仏の光は量(はか)ることができず、

    十方の国を照らして少しもさえぎられない。

    またその寿命も限りがないから、

    そう名づけるのである。

     そして、

    その国に生まれる人びとも、

    みな、

    ふたたび迷いの世界に戻らない境地に至り、

    その数はかぞえ尽くすことができないからである。

     また、

    この仏の光によって新しい命に目覚める人びとの数は無量だからである。

     ただ、

    この仏の名を心に保ち、

    一日または七日にわたって、

    心を一つにして動揺することがないならば、

    その人の命が終わるとき、

    この仏は、

    多くの聖(ひじり)たちとともに、

    その人の前に現われる。

    その人の心はうろたえることなく、

    ただちにその国に生まれることができる。

     もし人が、

    この仏の名を聞き、

    この教えを信ずるならば、

    仏たちに守られ、

    この上もない正しいさとりを得ることができるのである。

    返信削除
  87. 【2.13福島沖震度6大地震】
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/20-4cfc.html?cid=119292646#comment-119292646
    手紙:首相官邸ホワイトハウスインターネットメディア
    菅義偉殿侍史
    梶山静六公のご信条は「愛郷無限」なり。
    貴殿は昨年上杉鷹山公と同じ国の司となられた。
    上杉鷹山公の御誓文は「民の父母」と「伝国の辞」と「参姫への手紙」なり。
    「受け継ぎて国の司と成れる身の忘るまじきは民の父母」
    「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
    一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
    一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
    右三条御遺念有間敷候事
    天明五巳年二月七日  治憲 花押
    治広殿  机前」
    「参姫への手紙」
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-68af.html

    梶山静六公の恩師田中角栄公の愛郷無限が「日本列島改造論」なり。
    blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/51d7792271c0ca1705e2fb8cf211b8b9

    2011年3月11日戦後人類史上未曽有の大津波大震災で母国郷土に刻まれた深い傷の癒える暇なく、
    次々と大災害と大人災が続いて10年になんなんとする直前の02/13/2021、
    再びの母国郷土へ深い傷を与える震度6~7の福島沖大地震である。

    民の父母たる母国郷土の国の司総理大臣がなぜ直ちに地震対策本部を緊急設置し国務大臣全員緊急招集して、
    不眠不休で母国の人々を救恤しないのか。
    「愛郷無限」恩師梶山静六公に顔向けができるのか。
    報恩を知る日本人ならば直ちに消費税を総理大臣職権で全廃して「民のかまど3年間」を緊急施行せよ。
    主権者国民勤労する日本国国王が公僕総理大臣と内閣行政府公務員全員に厳命を下す。
    慎んで王命を受け速やかに施行せよ。
    さもなくば主権在民日本国憲法の王権を以て処罰する。
    「民のかまど3年間」
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-e4fb.html


    【豊岳正彦2 秒前
    @正しいとは何か 】
    ハイハイ斜め上から物ゆう東大話法さんw
    仰せの通り阿修羅でまとめましたからこんな風にw
    コメントは一番最後の質問だけにしましたw

    3. 豊岳正彦
    公式】ヒバリクラブ 2021年2月14日 これほど頭が悪いとは! 実は傲慢な心が頭を鈍らせる・・・女子高生のワクチン拒否
    youtube.com/watch?v=qzHzqGb6Mdc
    豊岳正彦36 分前
    大学出てその仕事についたやつは全員ドバカだぜw
    教科書が全部嘘だからなw
    だから日本学術会議法を廃止して中学校以上は全部私立学校法人にして国からの補助金はゼロにすればよい。
    東大と慶応大はすべて廃止。
    国が補助金で全学部経営を全額補助するのは防衛大学だけでよい。

    豊岳正彦7 分前(編集済み)
    西洋医学やってるやつをお医者さんと呼んではいけないよ、
    全員精神科が妄想ででっちあげたニセの保険病名付けて医療保険金介護保険金60兆円保険金詐欺師のニセ治療人殺し専門だからな。
    だから医者はみな頭がおかしいのさw

    これを治すには世界中の医学と医療から精神科を完全除去すればよい。
    精神科が完全に殺人科であるからねw
    その証拠にどこの国でもジェノサイドを実行しているのは精神科の手先の「医者」だろ。
    麻薬は精神科の発明だし、手術麻酔はすべて精神科の薬物だし、臓器摘出は精神科のロボトミー手術からそもそも始まったのだ。
    精神科の教科書を読んでご覧。
    こどもでも大嘘八百が書いてあることをすぐに見抜くからw

    豊岳正彦1 分前
    武田先生こんな猫でもわかる真実をどうして学者先生がわからないのかねえw
    それは田中正造翁が明治のうちにみんなに教えてくれたはずだけどねw
    「世の中は学士博士が破るもの 作るは下男織るは織姫」
    本当の学問は温故知新である。この世に新発見などないのさw
    先生と呼ばれるほどのバカでなし。というご先祖様の言葉をご存じでしょw

    豊岳正彦1 秒前
    武田先生は科学者だからこの現象をわかりやすく説明してもらえませんか。
    「NHKの地震映像・青い閃光多数。311も食らった宮城職員の怒りが伝わる映像である。」
    asyura2.com/21/cult30/msg/759.html
    投稿者 ポスト米英時代 日時 2021 年 2 月 14 日
    自然地震などではなく、地上と人工衛星から悪さをした人工地震そのものである。


    【津波てんでんこ】
    二月一三日福島沖で大地震が発生し震度6強の
    揺れが日本列島の大地を振るわせました。
    十年前の東北大震災とことなり津波はありませ
    んでしたが福島県いわき市にお住まいの知人の
    お話では同じように大きな揺れが今回は横揺れ
    だったそうです。

    日本列島は火山脈の上に形成されているので
    文字の記録が無い遥か悠久の昔から常に間断
    無く地震と津波が起こってきました。
    津波の巨大なエネルギーは人知や人力では
    どうにも防ぐことが出来ません。
    如何に多くの人びとが知恵と力を合わせて
    津波を押し止めようとしてもひとたまりも無く
    飲み込まれてしまいます。

    海沿いで大地震が起こればすぐに大津波が押し
    寄せることを先祖代々の言い伝えで知っていた
    日本人のご先祖様が、津波の時命を守るには
    一人一人が出来るだけ早く高台に駆け上って
    津波を足下でやり過ごすしか方法が無い事を
    短い日本語で表した言葉が【津波てんでんこ】で、

    互いに大声で叫び交わしながら親子でも手を
    離しててんでんばらばらに親から貰った自分の
    四本の手足を全て使い一刻でも早く山へ駆け
    上れ、命あっての物種だからという教えです。

    如何に一生涯人に親切にしてあげたくとも
    自分が死ねばどんな親切も親孝行も出來なく
    なってしまう。
    生きて親切にするために津波の時は銘々が
    独りの力で自分のかけがえのない命を守り
    なさいと、すべての人に教える親心の言葉が
    津波てんでんこなのです。

    ですから現在のようにコロナパンデミックで
    家に閉じこもっていても、

    地震があって津浪が来ると察知したら、

    一刻も早く家を出て、

    銘々が親から貰った自分の四つ足を使いきって、

    間近の高台に駆け登って生き延びて下さい。

    それが皆さんを生んで育てた親御さんの

    心からの願い

    なのです。

     

    山口新聞東流西流二月十八日掲載予定推敲前原稿

    hougakumasahiko.hatenablog.com/entry/2021/02/15/190623

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  88. 【2.13福島沖震度6大地震】
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/20-4cfc.html?cid=119292646#comment-119292646
    手紙:首相官邸ホワイトハウスインターネットメディア
    菅義偉殿侍史
    梶山静六公のご信条は「愛郷無限」なり。
    貴殿は昨年上杉鷹山公と同じ国の司となられた。
    上杉鷹山公の御誓文は「民の父母」と「伝国の辞」と「参姫への手紙」なり。
    「受け継ぎて国の司と成れる身の忘るまじきは民の父母」
    「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
    一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
    一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
    右三条御遺念有間敷候事
    天明五巳年二月七日  治憲 花押
    治広殿  机前」
    「参姫への手紙」
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-68af.html

    梶山静六公の恩師田中角栄公の愛郷無限が「日本列島改造論」なり。
    blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/51d7792271c0ca1705e2fb8cf211b8b9

    2011年3月11日戦後人類史上未曽有の大津波大震災で母国郷土に刻まれた深い傷の癒える暇なく、
    次々と大災害と大人災が続いて10年になんなんとする直前の02/13/2021、
    再びの母国郷土へ深い傷を与える震度6~7の福島沖大地震である。

    民の父母たる母国郷土の国の司総理大臣がなぜ直ちに地震対策本部を緊急設置し国務大臣全員緊急招集して、
    不眠不休で母国の人々を救恤しないのか。
    「愛郷無限」恩師梶山静六公に顔向けができるのか。
    報恩を知る日本人ならば直ちに消費税を総理大臣職権で全廃して「民のかまど3年間」を緊急施行せよ。
    主権者国民勤労する日本国国王が公僕総理大臣と内閣行政府公務員全員に厳命を下す。
    慎んで王命を受け速やかに施行せよ。
    さもなくば主権在民日本国憲法の王権を以て処罰する。
    「民のかまど3年間」
    hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-e4fb.html


    【豊岳正彦2 秒前
    @正しいとは何か 】
    ハイハイ斜め上から物ゆう東大話法さんw
    仰せの通り阿修羅でまとめましたからこんな風にw
    コメントは一番最後の質問だけにしましたw

    3. 豊岳正彦
    公式】ヒバリクラブ 2021年2月14日 これほど頭が悪いとは! 実は傲慢な心が頭を鈍らせる・・・女子高生のワクチン拒否
    youtube.com/watch?v=qzHzqGb6Mdc
    豊岳正彦36 分前
    大学出てその仕事についたやつは全員ドバカだぜw
    教科書が全部嘘だからなw
    だから日本学術会議法を廃止して中学校以上は全部私立学校法人にして国からの補助金はゼロにすればよい。
    東大と慶応大はすべて廃止。
    国が補助金で全学部経営を全額補助するのは防衛大学だけでよい。

    豊岳正彦7 分前(編集済み)
    西洋医学やってるやつをお医者さんと呼んではいけないよ、
    全員精神科が妄想ででっちあげたニセの保険病名付けて医療保険金介護保険金60兆円保険金詐欺師のニセ治療人殺し専門だからな。
    だから医者はみな頭がおかしいのさw

    これを治すには世界中の医学と医療から精神科を完全除去すればよい。
    精神科が完全に殺人科であるからねw
    その証拠にどこの国でもジェノサイドを実行しているのは精神科の手先の「医者」だろ。
    麻薬は精神科の発明だし、手術麻酔はすべて精神科の薬物だし、臓器摘出は精神科のロボトミー手術からそもそも始まったのだ。
    精神科の教科書を読んでご覧。
    こどもでも大嘘八百が書いてあることをすぐに見抜くからw

    豊岳正彦1 分前
    武田先生こんな猫でもわかる真実をどうして学者先生がわからないのかねえw
    それは田中正造翁が明治のうちにみんなに教えてくれたはずだけどねw
    「世の中は学士博士が破るもの 作るは下男織るは織姫」
    本当の学問は温故知新である。この世に新発見などないのさw
    先生と呼ばれるほどのバカでなし。というご先祖様の言葉をご存じでしょw

    豊岳正彦1 秒前
    武田先生は科学者だからこの現象をわかりやすく説明してもらえませんか。
    「NHKの地震映像・青い閃光多数。311も食らった宮城職員の怒りが伝わる映像である。」
    asyura2.com/21/cult30/msg/759.html
    投稿者 ポスト米英時代 日時 2021 年 2 月 14 日
    自然地震などではなく、地上と人工衛星から悪さをした人工地震そのものである。


    【津波てんでんこ】
    hougakumasahiko.hatenablog.com/entry/2021/02/15/190623

    二月一三日福島沖で大地震が発生し震度6強の
    揺れが日本列島の大地を振るわせました。
    十年前の東北大震災とことなり津波はありませ
    んでしたが福島県いわき市にお住まいの知人の
    お話では同じように大きな揺れが今回は横揺れ
    だったそうです。

    日本列島は火山脈の上に形成されているので
    文字の記録が無い遥か悠久の昔から常に間断
    無く地震と津波が起こってきました。
    津波の巨大なエネルギーは人知や人力では
    どうにも防ぐことが出来ません。
    如何に多くの人びとが知恵と力を合わせて
    津波を押し止めようとしてもひとたまりも無く
    飲み込まれてしまいます。

    海沿いで大地震が起こればすぐに大津波が押し
    寄せることを先祖代々の言い伝えで知っていた
    日本人のご先祖様が、津波の時命を守るには
    一人一人が出来るだけ早く高台に駆け上って
    津波を足下でやり過ごすしか方法が無い事を
    短い日本語で表した言葉が【津波てんでんこ】で、

    互いに大声で叫び交わしながら親子でも手を
    離しててんでんばらばらに親から貰った自分の
    四本の手足を全て使い一刻でも早く山へ駆け
    上れ、命あっての物種だからという教えです。

    如何に一生涯人に親切にしてあげたくとも
    自分が死ねばどんな親切も親孝行も出來なく
    なってしまう。
    生きて親切にするために津波の時は銘々が
    独りの力で自分のかけがえのない命を守り
    なさいと、すべての人に教える親心の言葉が
    津波てんでんこなのです。

    ですから現在のようにコロナパンデミックで
    家に閉じこもっていても、

    地震があって津浪が来ると察知したら、

    一刻も早く家を出て、

    銘々が親から貰った自分の四つ足を使いきって、

    間近の高台に駆け登って生き延びて下さい。

    それが皆さんを生んで育てた親御さんの

    心からの願いなのです。

     

    山口新聞東流西流二月十八日掲載予定推敲前原稿

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